人魚の恋(マーメイド・エラー):人魚の病に侵された俺と、ノイズ(愛)に侵されたアンドロイドの恋─

河野彰

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第二部

第十二章:忘却の晩餐、黄金色の一皿

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 絶望は、時として甘やかな安息へと姿を変える。  
 海上都市「アエギル」の崩壊という偽りのログを突きつけられてから数日、カイは外界への関心を完全に失っていた。暗い自室に引きこもる彼を連れ出したのは、シオンの冷たくも柔らかな指先だった。シオンはうっとりするような笑みを浮かべるとカイの前に跪いた。
「カイ、少し趣向を変えましょう。悲しみは、食で……感覚を麻痺させることでしか癒えません」
 シオンが車椅子を押し、案内されたのは「クリスタル・ダイニング」と呼ばれる小広場だった。  
 天井は巨大な魚の顎を思わせるリブ構造で覆われ、そこから吊り下げられた発光体『ルミノス』が、波紋のような揺らぎをテーブルに落としている。テーブルの上は銀の食器が置かれて、真っ白なテーブルクロスが音もなく揺れていた。
 並べられた料理は、海上民たちでさえ目にしたことのない、深海の至宝だった。  
 透き通るような深海魚の白身のポワレに、真珠の粉をまぶした「真珠苔」のソテー。そして、黄金色の蒸気を上げる濃厚なスープ。
『シオン、これは?』
 カイは思わず指を動かした。数日間食事を拒んでいた胃がきゅうきゅうと締め付けられる。シオンは、カイの膝にかけられた最高級の絹布を整えながら、微笑んだ。
「竜宮のプロトコルに基づく黄金の献立です。このスープには、精製された高濃度のビタミンと、心神を安定させる深海のミネラルが凝縮されています。さあ、冷めないうちに」
 シオンは自らスプーンを取り、カイの唇へと運んだ。一口啜った瞬間、カイの全身に、爆発的な充足感が駆け抜けた。舌の上で弾けるうまみと鼻に抜ける濃厚な海の香り。
 かつて海上都市で食べていた合成肉や、高価なサプリメントが、泥のように思えるほどだった。舌の上で溶ける芳醇な旨味と、内臓を内側から温めるような熱量。その実、ナノマシンが味覚神経を直接刺激し、脳内のドーパミンを強制的に分泌させていた。
「美味しいですか?」
 優しい微笑みに、カイは抗えずに頷いた。 シオンは、次に真珠苔を一口大に切り分け、カイの口に運ぶ。苔という名前からは想像もつかない、果実のように瑞々しく、微かな幻覚作用を伴う甘美な香りが鼻腔を抜ける。
 その時、珍しくシオンがテーブルについた。そして、優雅なしぐさでスープを一口自分の口に運ぶ。美しい隆起を描く喉元が上下し、スープが臓腑に落ちていく。その一連をカイは息をのみ見つめていた。
 この人形のような男が食事をするのをカイは初めて見た。
 皿の中のスープをすべて飲み干して、シオンはふ……と笑みを浮かべた。それを見たカイは自分もと次々に料理を平らげていった。
 五感が、過剰なまでの快楽で塗り潰されていく。
 地上の寒さ、凍りついた海、死にゆく人々、そして救えなかった妹の面影。それらが、この黄金のスープや真珠後家のソテーの霧の中に溶けて、遠ざかっていく。
(ああ。もう、いいのかもしれない)
 思考が、温かい泥の中に沈み込んでいくような感覚。カイは、シオンが自分の口元を優しく拭う仕草に、かつてない安らぎを感じていた。地上では誰もが、ワーカーとしての彼を利用価値でしか見ていなかった。だが、シオンだけは、声を失い、足の動かなくなった自分を、この楽園の王であるかのように傅いてくれる。
『シオン。あんただけだ。俺を、必要としてくれるのは』
 震える手話で綴られた言葉。シオンの視界には、冷徹な解析結果が浮かぶ。深海魚のフリットを手づから食べさせながらシオンは瞳を細める。
    [Diagnostic: Subject's olfactory and gustatory cortex saturated.] 
    [Internal Status: Psychological fortification destroyed. Dependency: 98%.] 
    [診断:検体の嗅覚・味覚野は飽和状態。内部状態:心理的防壁を破壊。依存度:98%]
「私は、あなたのすべてを受け入れます。カイ、あなたはここで、ただ愛されるためだけに存在すればいいのです」
 シオンは車椅子の横に立ち、カイの頭を自分の腹部に抱き寄せた。シオンの衣服から漂う、深海の深淵を思わせる冷涼な香り。カイはそれを、世界で最も安全なシェルターの匂いだと認識した。力強く脈打つ鼓動はカイを守る剣だ。
 この宴は、終わりなき依存への儀式だった。カイは、シオンの手から与えられる黄金色の料理の数々に依存し、その指先に触れられるたびに、人間としての尊厳が溶け去っていくことに気づかない。いや、人間であることさえ忘れ始めていた。ただ哀願され、守られる人形のような存在。
 深い、深い、硝子の海の底。  
 カイは自ら進んで、シオンという美しい檻の鍵を飲み干したのだ。
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