王妃は春を待たない〜夫が側妃を迎えました〜

羽生

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接近

ミリアは、よく笑う娘だった。

そして、周りを笑わせる娘だった。

朝の側妃講義では眠気を隠せず、歴史を覚え間違え、外国語の発音では側付きの侍女を笑わせたこともあった。


けれど彼女は愚かではなかった。
一度間違えたことは必ず直した。

人の顔と名前を覚えるのが早く、下働きの侍女にまで礼を言った。


時には、庭師の老人には花の育て方を尋ねた。
あの白薔薇が咲き誇る庭の一角に咲いていたカモミールの花だった。





レオンハルトは、そんな彼女を見る時、少しだけ王ではなくなった。

「ミリア嬢、そこは踏まない方がいい」

ある日、王城の庭で、ミリアがまだ発芽したばかりの薬草畑に足を踏み入れかけた。

レオンハルトが声をかけると、ミリアは慌てて飛び退いた。

「も、申し訳ございません!これ、雑草ではなかったのですね」

「雑草か。ふっ、王宮薬師が聞いたら卒倒する」

「あの、今のは内緒にしていただけませんか」

「口止め料は?」

「えっ、国王陛下が口止め料を要求するのですか」

「内緒にしてほしいんだろう」

「では……」

ミリアは真剣に悩んだ末、手に持っていた焼き菓子の包みを差し出した。庭に出る前に、侍女から貰った焼き菓子だった。

本来であれば、そのような出所の怪しい食べ物を王が口にすることはあり得ない。
しかし、ミリアは気にせずに言った。


「半分、陛下に差し上げます」


レオンハルトは一瞬きょとんとし、それから声を出して笑った。

後ろに控えていた側近や近衛は驚いたような顔をしてレオンハルトを見つめていた。


シルヴィアは回廊の陰で、それを聞いていた。

手にしていた書類が、指先で折れた。
そのはずみに、シルヴィアの指先に小さな切り傷ができた。赤い血がじんわりと出てくる。


シルヴィアは、思い出した。

ーー昔、彼はよく笑う人だった。

結婚して一年目、王太子の頃、夜会を抜け出して二人で厨房に忍び込み、焼きたての菓子をつまみ食いしたことがあった。

すぐき宰相に見つかって叱られた時、レオンハルトは笑いながら言ったのだ。

「王になったら、夜中に菓子を食べても誰にも怒られないはずだ」

それに対してシルヴィアは呆れて答えた。

「王になったら、今度は私があなたを叱ります」

「何言ってるんだ、君は僕の妻なんだから、共犯になるんだよ。ああ、でも、シルに叱られるのも悪くないな。なら、ずっとそばにいてくれ。僕を叱れるように」

「ええ、望むところですわ」




ーーあの約束は、まだ生きているのだろうか。

それとも、どこかで息を止めてしまったのだろうか。




「王妃陛下?」

背後から侍女に呼ばれ、シルヴィアは振り返った。

「王妃陛下、お顔の色が……」

「何もありません。平気です」

最近のいつもの答え、いつもの嘘。



ミリアが現れたからといってシルヴィアとレオンハルトの関係に目に見える変化があったわけではない。

レオンハルトからの愛が失われたわけではない。愛されている実感はある。

ただ、時折、彼の意識があの娘に移るだけ。
彼があの娘の前ではよく笑っているだけ。

彼があの娘の前ではー







正式にミリアが側妃となる日が近づくにつれ、王城は賑やかになった。

王城でミリアに接する者は、彼女に対して好意を抱く。
国民も、王家安泰の兆しとして好意的に受け止めた。


もちろん、シルヴィアを慕う者たちは複雑な顔をした。

けれど表立って反対する者はいなかった。

なぜなら、王家には世継ぎが必要だった。

何より、レオンハルト自身がミリアに対して特別な感情を抱き始めていることを、周りも薄らと感じ取っていたからだ。





式の前夜、ミリアが一人で王妃の私室を訪ねてきた。

「王妃陛下。あの、少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」

「どうぞ」

シルヴィアはミリアを迎え入れる。

ミリアはいつもより硬い表情をしていた。


「わたし、明日から側妃になります」

「ええ」

「でも……怖いのです」

シルヴィアは静かにミリアを見た。
ミリアはぽつりと言った。


「わたしは、王妃陛下から何かを奪ってしまうのでしょうか」

随分直球に言うものだと思った。
そして、その言葉に、胸が、鋭く痛んだ。

けれどシルヴィアは微笑んだ。

「あなたが奪うのではありません。国があなたに求めているのです」

「でも、レオンハルト陛下は、王妃陛下を大切にしておられます」

「……」

シルヴィアは、一瞬答えられなかった。

ーー私は、レオンハルトに大切にされているのだろうか。本当に大切なら…

「それなのに、わたしが……」

ミリアの声が震えた。

彼女は無邪気なだけの娘ではなかった。
彼女もまた、この城で自分の立場を理解していた。

シルヴィアは立ち上がり、ミリアの前に歩み寄った。


「ミリア嬢」

「はい」

「あなたがこれから背負うものは、決して軽くはありません。周りからは王の子を産むことを期待され、産めなければ責められるでしょう。そして、期待通り産むことができても、今度は、厄介な派閥に利用されるでしょう」

シルヴィアの言葉に、ミリアの顔から血の気が引いた。

「王宮とは、そういう場所です」

シルヴィアは続けた。

「けれど、あなたが悪いのではありません。あなたは、この国に必要とされた。どうか胸を張って」

「王妃陛下……」

「そして、願わくば陛下を支えてください」

ミリアは目を見開いた。

この言葉を口にした瞬間、シルヴィアの喉の奥が焼けるようだった。



ーー嫌だ。言いたくない。



「陛下は、お優しい方です。お一人で多くのことを抱え込まれます。でも、あなたのその明るさに救われているはずです」

ミリアの瞳に涙が浮かんだ。

「…王妃陛下は、それで…それで本当によろしいのですか」

シルヴィアは答えられなかった。

なぜなら、心の中で、ほんの一瞬だけ、王妃ではない自分が顔を出したから。


嫌だ。
本当は嫌だ。

彼は私の夫よ。私だけの夫なの。

あの人に笑いかけないで。

あの人を笑わせないで。

私が必死に守ってきた場所なの。入ってこないで。

けれど、その叫びは声にならなかった。
声にすることは、王妃としての矜持が許さなかった。


シルヴィアはミリアの手を取り、そっと握った。


「私は王妃です」


それが答えだった。

ミリアは泣いた。

シルヴィアは泣かなかった。

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