17 / 20
第17話 空席の意味
しおりを挟む
店内は、僕と先生と店長。そして、スタッフだけになった。そのスタッフも着替えを済ませると出て行ってしまったので、僕たち三人がここにいる状態になった。店長は僕に微笑むと、
「お疲れ様でした。じゃあ、吉隅くんの為に何か作ってくるよ」
休憩時間はあったが、そのタイミングでは食べなかった。よって、今僕は空腹だ。店長の気遣いが嬉しかった。少しして戻って来た店長は、丼に入った何かを持っていた。目の前に置かれて、それが蕎麦だということがわかった。そう言えば、今日は大晦日。年越し蕎麦を食べる日ではないか、と気が付いた。
「三人前、作ってきたよ。伸びない内に食べよう」
店長が最初に食べ始めた。それを見て、僕と先生も食べ始めた。店長が作ってくれる物は、何でもおいしい。あっと言う間に食べ終えてしまった。店長は奥に入っていくと、湯呑みをトレーにのせて戻って来た。それぞれに配って、席に着いた。
僕は、お茶を一口飲んでから店長に向かい、
「あの……。一つ訊いてもいいですか」
「改まって、何だい?」
店長が首を傾げる。僕は一瞬ためらったが、やはり気になってしょうがないので訊くことにした。
「コンサート中、ずっと気になってたんですけど。先生のテーブルが一席空いていたのは、何か意味があるんですか? 確か、満席になったって店長言ってましたよね」
「ああ。そのことか。吉隅くん、本当にわからない?」
僕が何か言う前に、先生が、「あ。そういうことでしたか」と言って、僕を見た。そういうことって何だろう。先生は、相変わらずわからないでいる僕の目を覗き込むようにして言った。
「君、本当にわからないんですか? この席に座るべき人が、もう一人いるでしょう?」
「え……」
先生にそう言われて、ようやくわかった。
「店長。そんな配慮をしてくださったんですか?」
涙が出そうになるのを、必死で堪えた。どうしてこの人たちは、こんなに優しいのだろう?
店長は、鼻の下を指で擦ると、
「だってさ。油利木くんだって、聞きたいだろうなって思ってさ」
「そうですよね。僕だけが吉隅くんのそばで聞いていたら、油利木くんも、いい気がしないでしょうね」
先生の言葉に、つい笑ってしまった。
「和寿は、そんなに心の狭い人じゃないと思います」
「でもね、吉隅くん。僕は、油利木くんにとって、邪魔な存在でしょう? 恋人に言い寄る悪い人間という認定をされているはずです。油利木くん、僕のことが嫌だろうなとは思うんですけど、こればっかりはどうにも出来ません」
先生が湯呑みを手にして、お茶を飲む。僕も、もう一口飲む。何だか鼓動が速くなる。落ち着け、と心の中で自分に言った。
「ねえ、宝生くん。何か一曲弾いてよ」
突然店長が言った。先生は眉根を寄せて、
「急に何ですか? 何故僕が弾かなければならないのでしょう?」
先生が問うと、店長はニヤッと笑い、
「いや、別に深い意味はないよ。ただ、君の演奏を久し振りに聞きたくなっただけだから」
先生は、店長から視線を外し僕を見た。その顔は、相変わらず不機嫌そうに見えた。そんなに弾くのが嫌なのだろうか。そんなことを考えていると、「吉隅くん」と呼ばれた。びっくりして、「はい?」と、疑問形になってしまった。
「君は、僕に何か弾いてほしい曲はありますか?」
「店長ではなく、僕に訊くんですか? あの……店長。何か聞きたい曲はありますか?」
僕の問いかけに、店長は「いや」と首を振った。
「別に何でもいいよ。ただ、宝生くんの演奏を聞きたいだけだから」
「何でもいいと言われるのが、一番困りますよね、先生」
僕なら困るだろうな、と思って言ったのに、先生は、
「いえ。別に」
「あ。そうなんですね」
「言ってくれれば楽なのは、間違いありませんけどね」
やっぱりそうじゃないか、と思ったが、言わなかった。
僕は少し考えて、ある曲を思いついた。先生に弾いてほしい曲。それは、あの時に弾いてくれた中の一曲。
「先生!」
つい大きな声で呼んでしまった。そうされて、先生は目を見開きながら、
「何ですか? 吉隅くん」
「弾いてほしい曲です。あの時弾いてくれた、あの曲……」
先生が、溜息を吐いた。
「君ね、それでわかる人は、いません。あの時、何曲弾いたと思ってるんですか?」
言われて僕は頭の中でカウントし始めたが、そうと察したらしい先生が首を振り、
「吉隅くん。数えなくていいです。僕も何曲弾いたのかなんて覚えてませんから。それで? 何を弾けばいいんですか?」
僕は、深呼吸をしてから、
「リストの『コンソレーション』です」
そう告げた。
「お疲れ様でした。じゃあ、吉隅くんの為に何か作ってくるよ」
休憩時間はあったが、そのタイミングでは食べなかった。よって、今僕は空腹だ。店長の気遣いが嬉しかった。少しして戻って来た店長は、丼に入った何かを持っていた。目の前に置かれて、それが蕎麦だということがわかった。そう言えば、今日は大晦日。年越し蕎麦を食べる日ではないか、と気が付いた。
「三人前、作ってきたよ。伸びない内に食べよう」
店長が最初に食べ始めた。それを見て、僕と先生も食べ始めた。店長が作ってくれる物は、何でもおいしい。あっと言う間に食べ終えてしまった。店長は奥に入っていくと、湯呑みをトレーにのせて戻って来た。それぞれに配って、席に着いた。
僕は、お茶を一口飲んでから店長に向かい、
「あの……。一つ訊いてもいいですか」
「改まって、何だい?」
店長が首を傾げる。僕は一瞬ためらったが、やはり気になってしょうがないので訊くことにした。
「コンサート中、ずっと気になってたんですけど。先生のテーブルが一席空いていたのは、何か意味があるんですか? 確か、満席になったって店長言ってましたよね」
「ああ。そのことか。吉隅くん、本当にわからない?」
僕が何か言う前に、先生が、「あ。そういうことでしたか」と言って、僕を見た。そういうことって何だろう。先生は、相変わらずわからないでいる僕の目を覗き込むようにして言った。
「君、本当にわからないんですか? この席に座るべき人が、もう一人いるでしょう?」
「え……」
先生にそう言われて、ようやくわかった。
「店長。そんな配慮をしてくださったんですか?」
涙が出そうになるのを、必死で堪えた。どうしてこの人たちは、こんなに優しいのだろう?
店長は、鼻の下を指で擦ると、
「だってさ。油利木くんだって、聞きたいだろうなって思ってさ」
「そうですよね。僕だけが吉隅くんのそばで聞いていたら、油利木くんも、いい気がしないでしょうね」
先生の言葉に、つい笑ってしまった。
「和寿は、そんなに心の狭い人じゃないと思います」
「でもね、吉隅くん。僕は、油利木くんにとって、邪魔な存在でしょう? 恋人に言い寄る悪い人間という認定をされているはずです。油利木くん、僕のことが嫌だろうなとは思うんですけど、こればっかりはどうにも出来ません」
先生が湯呑みを手にして、お茶を飲む。僕も、もう一口飲む。何だか鼓動が速くなる。落ち着け、と心の中で自分に言った。
「ねえ、宝生くん。何か一曲弾いてよ」
突然店長が言った。先生は眉根を寄せて、
「急に何ですか? 何故僕が弾かなければならないのでしょう?」
先生が問うと、店長はニヤッと笑い、
「いや、別に深い意味はないよ。ただ、君の演奏を久し振りに聞きたくなっただけだから」
先生は、店長から視線を外し僕を見た。その顔は、相変わらず不機嫌そうに見えた。そんなに弾くのが嫌なのだろうか。そんなことを考えていると、「吉隅くん」と呼ばれた。びっくりして、「はい?」と、疑問形になってしまった。
「君は、僕に何か弾いてほしい曲はありますか?」
「店長ではなく、僕に訊くんですか? あの……店長。何か聞きたい曲はありますか?」
僕の問いかけに、店長は「いや」と首を振った。
「別に何でもいいよ。ただ、宝生くんの演奏を聞きたいだけだから」
「何でもいいと言われるのが、一番困りますよね、先生」
僕なら困るだろうな、と思って言ったのに、先生は、
「いえ。別に」
「あ。そうなんですね」
「言ってくれれば楽なのは、間違いありませんけどね」
やっぱりそうじゃないか、と思ったが、言わなかった。
僕は少し考えて、ある曲を思いついた。先生に弾いてほしい曲。それは、あの時に弾いてくれた中の一曲。
「先生!」
つい大きな声で呼んでしまった。そうされて、先生は目を見開きながら、
「何ですか? 吉隅くん」
「弾いてほしい曲です。あの時弾いてくれた、あの曲……」
先生が、溜息を吐いた。
「君ね、それでわかる人は、いません。あの時、何曲弾いたと思ってるんですか?」
言われて僕は頭の中でカウントし始めたが、そうと察したらしい先生が首を振り、
「吉隅くん。数えなくていいです。僕も何曲弾いたのかなんて覚えてませんから。それで? 何を弾けばいいんですか?」
僕は、深呼吸をしてから、
「リストの『コンソレーション』です」
そう告げた。
0
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
出戻り王子が幸せになるまで
あきたいぬ大好き(深凪雪花)
BL
初恋の相手と政略結婚した主人公セフィラだが、相手には愛人ながら本命がいたことを知る。追及した結果、離縁されることになり、母国に出戻ることに。けれど、バツイチになったせいか父王に厄介払いされ、後宮から追い出されてしまう。王都の下町で暮らし始めるが、ふと訪れた先の母校で幼馴染であるフレンシスと再会。事情を話すと、突然求婚される。
一途な幼馴染×強がり出戻り王子のお話です。
※他サイトにも掲載しております。
happy dead end
瑞原唯子
BL
「それでも俺に一生を捧げる覚悟はあるか?」
シルヴィオは幼いころに第一王子の遊び相手として抜擢され、初めて会ったときから彼の美しさに心を奪われた。そして彼もシルヴィオだけに心を開いていた。しかし中等部に上がると、彼はとある女子生徒に興味を示すようになり——。
病弱の花
雨水林檎
BL
痩せた身体の病弱な青年遠野空音は資産家の男、藤篠清月に望まれて単身東京に向かうことになる。清月は彼をぜひ跡継ぎにしたいのだと言う。明らかに怪しい話に乗ったのは空音が引き取られた遠縁の家に住んでいたからだった。できそこないとも言えるほど、寝込んでばかりいる空音を彼らは厄介払いしたのだ。そして空音は清月の家で同居生活を始めることになる。そんな空音の願いは一つ、誰よりも痩せていることだった。誰もが眉をひそめるようなそんな願いを、清月は何故か肯定する……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる