18 / 20
第18話 コンソレーション第3番
しおりを挟む
あの時先生は、当然何曲も弾いた。何を弾いたのか、全て思い出すのは困難だ。ただ、先生にリクエストしたその曲のことは覚えている。
その曲名を日本語訳すると、『慰め』だ。五年前、先生が僕の代わりにここで演奏してくれた時、僕は正に落ち込み傷ついて、慰めが必要な状況だった。先生の奏でるその美しい音色が、僕を慰めて癒してくれたのだ。
「わかりました。弾きましょう」
椅子から立ち上がると、先生はピアノの前に座った。僕と店長は、ピアノの方にしっかりと向いて、先生が音を鳴らすのを待った。
それから時を置かず、先生は弾き始めた。あの時よりもさらに良い。僕は、鼓動を速めながらも、その音に耳を傾けていた。
先生の指が、鍵盤から離れた。僕と店長は、ほぼ同時に拍手した。それに答えるように先生は立ち上がり、僕たちの方に向くと深々と頭を下げた。やがて、元の姿勢に戻ると、何事もなかったかのように席に着いた。
僕の頭の中では、さっき聞いたその音がまだグルグルとしている。何も話したくなかった。余韻に浸っていたい、と思っていた。その気持ちが伝わったのか、先生は話し掛けてこなかった。店長も黙って目を閉じていた。
それから何分経ってからか、先生が、
「そろそろ行きましょうか。長田くん。今日はありがとう」
声を掛けられた店長は、目を開けて、驚いたような顔をした。
「長田くん。お会計をお願いします」
「あ。そうだね」
慌てて店長はレジに向かい、計算を始めた。そして、告げられた金額を支払った先生が、
「じゃあ、行きましょうか」
「えっと……どこに行きますか?」
僕の問に、先生が顔を歪めて大きく息を吐き出した。
「僕はね、吉隅くん。ここから出よう、というつもりで言いました。どこに行くという、具体的な話ではありません」
「あ……そうでしたか」
日本語が母語だけれど、日本語って難しいと改めて思う。察する力、それが大事だ。
「先生……すみません」
「別に、謝ってもらうような事ではありませんよ」
「でも……」
僕がぐずぐず言っているのはきれいに流して、
「それでは長田くん。また」
微笑みを浮かべて言う。それを見て僕は、またもや鼓動が速くなる。告白もどきをされてから、僕は意識し過ぎている。それはよくわかっている。でも、どうしようもない。
「じゃあね、宝生くん、吉隅くん。また来てよね」
笑顔で手を振って僕たちを送り出してくれる。外に出ると、風が強く吹いた。思わず身震いしてしまう。先生は、表情を少しも変えず、
「吉隅くん。これから初詣に行きませんか?」
「初詣……ですか? 先生は、毎年行ってるんですか?」
今まで誘われたことはなかったが、いつも一人で行くのだろうか? それとも、誰かと行くのだろうか?
そんなことを考えていると、先生はあっさりと、「気が向いたら行く程度です」と答えた。頭の中の問いは、口から出すことなく終わってしまった。訊ける雰囲気ではなかったのだ。
僕が行くとも行かないとも言わない内に、先生はもう歩き出している。僕はその後を追った。
「先生」
声を掛けると、ようやく振り返り、「何でしょう?」と言った。僕は、先生の左腕を軽く掴むと、「行きます」と言った。
その曲名を日本語訳すると、『慰め』だ。五年前、先生が僕の代わりにここで演奏してくれた時、僕は正に落ち込み傷ついて、慰めが必要な状況だった。先生の奏でるその美しい音色が、僕を慰めて癒してくれたのだ。
「わかりました。弾きましょう」
椅子から立ち上がると、先生はピアノの前に座った。僕と店長は、ピアノの方にしっかりと向いて、先生が音を鳴らすのを待った。
それから時を置かず、先生は弾き始めた。あの時よりもさらに良い。僕は、鼓動を速めながらも、その音に耳を傾けていた。
先生の指が、鍵盤から離れた。僕と店長は、ほぼ同時に拍手した。それに答えるように先生は立ち上がり、僕たちの方に向くと深々と頭を下げた。やがて、元の姿勢に戻ると、何事もなかったかのように席に着いた。
僕の頭の中では、さっき聞いたその音がまだグルグルとしている。何も話したくなかった。余韻に浸っていたい、と思っていた。その気持ちが伝わったのか、先生は話し掛けてこなかった。店長も黙って目を閉じていた。
それから何分経ってからか、先生が、
「そろそろ行きましょうか。長田くん。今日はありがとう」
声を掛けられた店長は、目を開けて、驚いたような顔をした。
「長田くん。お会計をお願いします」
「あ。そうだね」
慌てて店長はレジに向かい、計算を始めた。そして、告げられた金額を支払った先生が、
「じゃあ、行きましょうか」
「えっと……どこに行きますか?」
僕の問に、先生が顔を歪めて大きく息を吐き出した。
「僕はね、吉隅くん。ここから出よう、というつもりで言いました。どこに行くという、具体的な話ではありません」
「あ……そうでしたか」
日本語が母語だけれど、日本語って難しいと改めて思う。察する力、それが大事だ。
「先生……すみません」
「別に、謝ってもらうような事ではありませんよ」
「でも……」
僕がぐずぐず言っているのはきれいに流して、
「それでは長田くん。また」
微笑みを浮かべて言う。それを見て僕は、またもや鼓動が速くなる。告白もどきをされてから、僕は意識し過ぎている。それはよくわかっている。でも、どうしようもない。
「じゃあね、宝生くん、吉隅くん。また来てよね」
笑顔で手を振って僕たちを送り出してくれる。外に出ると、風が強く吹いた。思わず身震いしてしまう。先生は、表情を少しも変えず、
「吉隅くん。これから初詣に行きませんか?」
「初詣……ですか? 先生は、毎年行ってるんですか?」
今まで誘われたことはなかったが、いつも一人で行くのだろうか? それとも、誰かと行くのだろうか?
そんなことを考えていると、先生はあっさりと、「気が向いたら行く程度です」と答えた。頭の中の問いは、口から出すことなく終わってしまった。訊ける雰囲気ではなかったのだ。
僕が行くとも行かないとも言わない内に、先生はもう歩き出している。僕はその後を追った。
「先生」
声を掛けると、ようやく振り返り、「何でしょう?」と言った。僕は、先生の左腕を軽く掴むと、「行きます」と言った。
0
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
出戻り王子が幸せになるまで
あきたいぬ大好き(深凪雪花)
BL
初恋の相手と政略結婚した主人公セフィラだが、相手には愛人ながら本命がいたことを知る。追及した結果、離縁されることになり、母国に出戻ることに。けれど、バツイチになったせいか父王に厄介払いされ、後宮から追い出されてしまう。王都の下町で暮らし始めるが、ふと訪れた先の母校で幼馴染であるフレンシスと再会。事情を話すと、突然求婚される。
一途な幼馴染×強がり出戻り王子のお話です。
※他サイトにも掲載しております。
happy dead end
瑞原唯子
BL
「それでも俺に一生を捧げる覚悟はあるか?」
シルヴィオは幼いころに第一王子の遊び相手として抜擢され、初めて会ったときから彼の美しさに心を奪われた。そして彼もシルヴィオだけに心を開いていた。しかし中等部に上がると、彼はとある女子生徒に興味を示すようになり——。
病弱の花
雨水林檎
BL
痩せた身体の病弱な青年遠野空音は資産家の男、藤篠清月に望まれて単身東京に向かうことになる。清月は彼をぜひ跡継ぎにしたいのだと言う。明らかに怪しい話に乗ったのは空音が引き取られた遠縁の家に住んでいたからだった。できそこないとも言えるほど、寝込んでばかりいる空音を彼らは厄介払いしたのだ。そして空音は清月の家で同居生活を始めることになる。そんな空音の願いは一つ、誰よりも痩せていることだった。誰もが眉をひそめるようなそんな願いを、清月は何故か肯定する……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる