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第一章
1. 忘れられない香り
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⸺ある梅の木の枝先に、一羽の春告鳥(うぐいす)がとまっていました。
その木は枝や幹が剥き出しで、花も実もつけずまるで枯れてしまったかのような姿です。
しかし、春告鳥は満足そうに体を丸め、暖かな日の光を浴びて眠りにつきました。時折、その寂しげな背中を撫でるように春風が通り抜けていきます。
春告鳥は、一度も鳴いた事がありません。彼にとって大事なものはすでにあり、ひとりぼっちでも構わないから……。
この木さえそばにいてくれれば、それでいいのでした。
▫︎ ▫︎ ▫︎ ▫︎ ▫︎ ▫︎
麗らかな日差しが万物を照らしている様子は、まるですべてが主役であると告げるスポットライトのようだ。
京都市内にある国立洛明大学は、朝からスーツを着た学生で賑わっていた。彼らは皆受験という厳しい冬を乗り越え、この春めでたく入学した若鳥たちだ。嬉しさ、期待、それから少しの不安を乗せた風に背中を押され、続々と体育館へ入っていく。
偏差値もそこそこ高く理系学部が多いせいか、全体的に真面目で落ち着いた人が多い。過半数が眼鏡をかけ、おしゃべりもせず式の開始を待っている。
入学式の会場を一通り見渡して、文系の中の文系、つまり文学部に所属する志摩大晴は何となく疎外感を感じ頭を掻いた。
(うわー、頭良さそうな子ばっかだな。地元の高校とは大違い……ちょっと上の大学狙いすぎたか)
ギリギリでいい大学に入るより、一つランクを落として私立にしておいた方が自分には合っていたかもしれない。まだ式も始まらないうちからそんな暗い気持ちが浮かび、慌てて打ち消そうと隣の席に話しかけた。
「なあ、あんたも文学部?俺志摩って言うんだ。よろしくな」
「え?ああ、うん。よ、よろしく……」
話しかけられると思っていなかったのか、隣の男は驚いたように顔をあげた。見開いた瞳はまん丸に広がり、ほんのりと香る汗の匂いから緊張が伝わってくる。
彼は、広瀬優太と遠慮がちに名乗った。中肉中背で丸まった肩。節目がちな瞳と、小さな鼻の上で星のように散らばるそばかす。落ち着かないのか、サイズの合っていないスーツの袖口をしきりに触っている。なんとも気の弱そうな印象だ。
ふと、大晴は広瀬の頭髪に目を向けた。明るい茶髪をカッチリと固めており、根元の黒髪が僅かに顔を覗かせている。安物のワックスの匂いがツンと鼻を刺激した。
大晴は再び話しかけたが、今度はゆっくりとした口調を意識するようにした。警戒心が少し薄れたのか、二、三言交わすうちに広瀬の強張った顔は自然と解けて、会話のテンポが良くなっていく。
意外にも、二人は恋愛小説を好むという共通点が見つかり、広瀬はついにゆっくりと微笑んだ。
「志摩くん、話上手やなあ。入学式でこんなに話すと思わへんかったわ。俺は自分から話題振るなんてできひん……」
「そう?あーでも確かに、俺、いろんな人と仲良くなりたいから自然とおしゃべりになっちゃうんだよな。だから慣れ?みたいなんもあるのかも。うるさいってよく言われるんだけどさ、おかげで趣味の合う友達見つけれたし超ラッキー。次は聞き上手目指すから、もっと話し聞かせてくれよ」
「うわ、イ、イケメンっ………」
広瀬は照れくさそうに髪を撫でながら、嬉しさを隠しきれない瞳で大晴を見つめた。
「ねえ、地元京都…とちがうよね?どこ出身なん?」
「出身?関東の方だよ」
「関東!もしかして、東京の人?」
何か東京に思い入れでもあるのだろうか。期待を含んだ声でそう問われ、大晴は少し気まずさを感じながら首を振る。
「いや、東京じゃなくて神奈川なんだ。横浜って知ってる?中華街とかあるとこなんだけど」
「知ってる知ってる!横浜ってめっちゃ都会やん!やっぱシティボーイなんやあ」
(シティボーイ!?……久々に聞いたなそれ)
死語に近いような表現に何と言えばいいのかわからず、言葉に詰まる。そんな大晴の戸惑いには気づいていないようで、広瀬は潤んで輝いた眼差しで大晴を上から下まで見渡した。
「あの、実は志摩くんを初めて見た時から、えらいオシャレな人やなって思うとって。背も高いしかっこええしオーラがあるっちゅーか……モデルさんみたいやん」
「それは言い過ぎだろ。でも、俺昔からファッションには興味あって、普段から気にかけてるんだ。だからそう言って褒めてもらうのは嬉しい。ありがとな」
大晴は緋色の目を細めて笑いながら礼を言った。
昔から人に見られることが多く、自然と自分の外見を意識するようになった。今着ているスーツも入学式のためにわざわざ取り揃えたオーダーメイド品だ。大晴の体型にピッタリと合っていて、一番スタイルがよく見えるように作られている。
「ほんまに、芸能人に会った気分やわ。地元には志摩くんみたいな人いはらへんし……あ、俺の地元は京都なんやけど!もっと上の方で田んぼばっかの田舎やねん。せやからオシャレとはその、無縁というか」
「そんなことない。オシャレってまずは意識するところから始まるだろ?別に全身をいきなり変える必要はないし、どこか一部分からでいいんだよ。それに、広瀬はもうやってるじゃん」
「え?」
「地毛じゃないだろ?その髪」
そう言って自分の頭を人差し指でさし示すと、広瀬の表情はピタッと固まり動かなくなった。空気が止まる。
そして次の瞬間⸺
目の前の顔が突然火をつけたように赤く染まっていく。体温が高まったせいか、甘い柔軟剤の香りが強まり羞恥の炎とともに大晴を包み込んだ。
「!?」
突然後頭部を殴られたかのような衝撃だ。強烈な匂いに圧倒され、えずきそうになるのを必死に堪える。驚いて広瀬を見ると、彼は顔を真っ赤にしたまま取り繕うようにぎこちない笑顔を見せた。
「あはは、これはその、合格したノリでつい……わ、わかってる!皆まで言わんで大丈夫やから!全然似合うてへんよなあ、はは……」
「…………」
声は震え、今にも泣き出してしまいそうな塩辛い匂いが漂う。ぎゅっと眉根を寄せ、なんとか感情を抑えようと膝の上で拳を握り締める広瀬に、大晴はなんとなく彼の過去を察した。
(多分、身内か親しい人に何か言われたんだろうな……)
せっかく若鳥が空に羽ばたいてみようと気持ちを昂らせているのに、その羽を全てもいでしまうような一言。「なに色気付いてんだよ」「もしかして大学デビュー?」「やだ、なんか変よそれ」
言った人たちはちょっとからかってやろうくらいの気持ちで、もうとっくに忘れている言葉かもしれない。しかし言われた本人は一生治らない傷を負い、空を見ることすら恥だと思い苦痛になる。
会場で繰り返し流れている大学の校歌の音が、急に大きくなった気がした。広瀬の匂いを嗅ぐうちにどんどんと苛立ちが募っていき、大晴は顔を大きくしかめる。
どうして人は、自分の言ったことに責任をもたないのだろう。何でもかんでも思ったことを口に出しやがって……無理して笑っている笑顔の奥で、必死に自分の尊厳を守ろうと涙を堪えるこの姿が⸺本当に見えないとでもいうのか!?
ギリッと奥歯が軋む音が聞こえ、頭に上った血を落ち着かせようとゆっくり息を吐き出す。それからすっかり縮こまってしまった広瀬に向かって、さっきよりも優しく、しかし彼の心の奥まで届くよう力強い言葉を投げかけた。
「大丈夫、似合ってるよ。もし過去に何か言われたんだとしても、そんなの気にすんな。そもそもさ、初めて髪染めたんだろ?そんな最高に楽しい時、暗い気持ちで過ごしてんのもったいねえって!」
「志摩くん………」
「今度からは、髪染めたとか服買ったとかーーなんでもいい!何かしてみたんなら、まず一番に俺に見せに来いよ。絶対もっと楽しいって気持ちにするし、必要ならアドバイスだって多少はできる」
「伊達に生活指導は受けてきてねえからな」散々やってきた高校生活を思い出しながらそう言えば、広瀬は口をぽかんと開けたあと、ついに気の抜けた笑い声をあげた。
「志摩くんはすごいなあ……。気使わせちゃって、ほんまかんにんな」
「別に気使って言ったわけじゃねえよ」
「うん……うん。おおきに!もうデビューって言われてもなんでもええわ」
楽しむんが大事やんなあ、そう呟く広瀬の横顔は憑き物が落ちたかのようにすっきりとしている。さっきまでの胸が苦しくなるような匂いも落ち着いて、大晴は心地よい開放感に満たされた。
しかしそれも束の間、押さえ込んでいた吐き気がまたせり上がる。唇を噛み締め、じっとやり過ごす。本当は今すぐ外に出たいが、もうすぐ式が始まるし、何より広瀬に怪しまれたくない。
汗をにじませながら耐えていると、斜め前の女の子がくしゃみをした。一回で収まらなかったのか、続けて数回繰り返す。それを見た広瀬が、女子から大晴へと視線を移し口を開いた。
「花粉かな。しんどそう……志摩くんも花粉症なん?」
目線は大晴のマスクに向く。体調を悟られないようマスクを少し上げ、大晴は頷いた。
「うん。まあ、そんなとこ」
「そっか、しんどいなあ」
曖昧に微笑んで、足元の鞄からティッシュを取り出す。そのままくしゃみをしていた女子のところへ行き、肩を軽く叩いた。
「よかったら、これ使って」
「えっ」
新品のポケットティッシュを差し出すと、彼女は鈴のような声を上げた。肩が跳ね、ハーフアップの真っ直ぐな黒髪がさらりと揺れる。
鼻を左手で押さえながら恐るおそる振り返る彼女に、大晴は警戒させないよう優しく目を細め、強引に渡すとすぐに自分の席へ戻った。
「…………」
しばらく呆けたように大晴を見つめていた女子は、突然ハッと目を見開くと何度も繰り返しお辞儀をした。地元の女友達ではあり得ない謙虚な姿勢に新鮮味を感じつつ、軽く手を振って答える。
良かった、もう彼女は焦ってはいないようだ。さっきまで辺りを支配していた、鼻をつんざくような鋭い金属臭はすっかり消え失せている。かわりに、ほんのりと赤く染まる頬とともに甘い好意の香りが柔らかく広がった。
その嗅ぎ慣れた匂いに、ほっと一息つく。大晴にとっては少し甘ったるしく重たい香りだが、悲しみや焦りといったネガティブなものよりずっといい。
じっとりと汗で湿った手のひらを見つめていると、隣から溢れんばかりの熱い思いをのせた香りが漂ってきた。
「志摩くんって、外見も中身もイケメンやなっ……!」
そう言う広瀬の顔は嬉しそうに輝いていて、称賛の星を無数に飛ばしている。この香りは瑞々しい果実に似ていて、大晴が最も好む感情の一つだ。
「なんであの人が困ってるってわかったん?」
「なんでって……」
見つめられる瞳に込められた期待に、大晴は言葉を詰まらせる。
「広瀬、知ってるか?人の感情って、それぞれ匂いが違うから嗅ぎ分けれるんだ」
(……なんて言えるわけないだろ)
「くしゃみした後から、何かを探すような動きをしてたしティッシュかと思って」
「へえー、よう見てはるな」
「動いてるものに自然と目がいくんだよ。あとは何でその行動をしてるのかって考えて状況を見れば大体理由はわかるし。接客でバイトしてた時の癖かもな」
広瀬はなるほどなあ、と言いながら首を大きく縦に振った。良かった、納得してくれたようだ。このような説明もすっかり慣れ、特に心配することでもなくなってきたが……。
(それでもやっぱり、何かを隠すのは嫌いだな)
大晴はいつものように上手く笑えず、誤魔化すように咳払いをした。
普通の人よりも多くの情報を得ることができる優秀な鼻は、会場内のありとあらゆる匂いを丁寧に拾い上げていく。気合の入った髪から香る整髪料のツンとした刺激、香水の人工的な甘さ、そして体臭から読み取れる不安と期待の感情……。それらが空気の中でごちゃまぜになっている。
ようやく式が始まり、順調に進んでいる間もずっと大晴の脳は刺激で震えていた。こもった空気はずっしりと重くて、ひどく息苦しい。
壇上の話し声が、段々と膜をはったように遠ざかって行く⸺…
「ハックション!……ックシュン!!」
ようやく式が終わった頃、鼻はあまりに多くの情報を受け取った結果アレルギー反応を起こしたかのようにくしゃみが止まらなくなってしまった。
(あー、やっぱり人が多い室内はきつかったか。これは落ち着くまでしばらく動けねえかも……)
だから言ったでしょ、と母の呆れたような声が脳裏に響く。はいはいすいませんでした、と脳内の母親に謝りながら、大晴は裏庭のベンチに腰を下ろした。ここは校舎の影に隠れているせいかひっそりとしていて人気もなく、休むのに最適な場所だ。
目を閉じ、ゆっくりと深呼吸する。真っ新な空気で肺を満たして、匂いから拾い上げてしまった感情を全て体の外へ吐き出していく感覚を意識する。それから次は、足裏に感覚を移し地面の上にいることを考える。そうすると、迷子になってしまったようにふわふわと浮いていた意識が重力に従ってストンと降りてくる。
このグランディングを数回繰り返すことで、大晴はいつも自分の気持ちをリセットしていた。そうしないと、他人の強い感情に引っ張られて自己を失いそうになってしまうからだ。
本来自分のように感覚が敏感な人間は、こういう大勢の人が集まる場所には行かないほうがいいのだろう。混ざり合った感情は脳の負担になるということもわかっている。
なら、自身の健康のために人と関わらない人生を生きていくか?
……いいや、そんなのはごめんだ。
大晴は人と話すのが何よりも好きである。皆んなで集まって楽しくわいわい、最高じゃないか。活気に満ち溢れていて、いろんなドラマを見ることができる。
独りでいたってつまらないし、できることだって限られてしまう。唯一楽しいと思えるのは、良質な恋愛小説を読んで胸をいっぱいにしている時だけだ。
それに、何よりも、自分のこの特殊な体質を欠点だとは思いたくなかった。
親に貰った大切な身体だ。申し訳なさそうな顔をさせたくないし、心配もかけたくない。だから今日のような集まりには積極的に参加して、自分は問題ないということをアピールしてきた。
それに、普通の人よりも色んなことに気づけるのは嬉しいことでもある。一人でも多くの人を助けられるし、気遣いができると何かと好かれやすい。
(まあ、気を使いすぎておせっかいって言われることも多いけど)
大晴は乾いた笑いを浮かべ空を仰いだ。
「!」
気を取り直すつもりだったのに、雲ひとつないきれいな晴天に目を奪われハッと身体が強張る。
突然澄んだ青が容赦なく視界から体内まで染み込み、心の中まで見透かされそうな心地になった。身ぐるみを剥がされ、隠せるものは何もない状態で全身を見つめられている感覚に手や指が震える。
それはまるで、隠していることも全て嗅ぎ取ってしまう自分のようだ⸺。
大晴は慌ててかぶりを振り、今考えたことを消し去ろうとした。やはり一人でいるのは良くない、どんどん思考がマイナスの方に傾いてしまう。
もし自分の体質が他人に知られれば、今のような底知れない恐怖を感じさせてしまうかもしれない……確かに、心の中を覗かれるのは誰だって気味が悪い。
しかし、それはあくまで知られれば、の話だ。大晴は金輪際この事を誰かに話すつもりはないし、嫌な思いをさせてまでわかってほしいとも思っていない。自分は気配りができてちょっとおせっかいで、明るくおしゃべりな奴でいい。
「………よし、あともうちょっと休んだら行くか!」
自分に言い聞かせるように、わざと大きな声を出した。結論の出ていることをあれこれ考えても仕方がない、こういうのは切り替えが大事だ。
もう一度深く息を吸い込むと、ふと風が軽くなったのを感じた。さっきまでのようなざらつきがない。
風を変えたのは、底からそっと広がるような甘く優しい香りだった。
「何だこれ……花か?」
甘酸っぱい上品な花の香りに、古風で落ち着いた温かみがある。
今までに嗅いだことがないくらい、いい匂いだ。いつの間にか空気に忍び込んだそれは、大晴の心にゆっくりと染み渡っていく。奥底で絡まってぐちゃぐちゃになった悩みの糸が一つひとつ解かれるような心地よさを感じた。
お風呂に浸かっている時の感覚に近い気がする。あー、と無意識に喉から声が出てしまう。
「すげーいい匂い……好きな匂いって、こういうことを言うんかな」
この香りには、温度がある。つまり、自然からくるものではなく誰かの香りということだ。
人生で初めて、人の匂いを嗅いで脳がとろけるような気持ちよさを感じた。恋愛小説の中で主人公が、彼氏の服に顔を埋めて幸せそうにしていた描写の意味がわかった気がする。自分の場合は嗅覚が敏感だからこそ、より幸福感を強く感じるのだろう。
淡く優しい花の香りを携えた誰かが、この近くにいる。ひと目でもその姿を見てみたかったが、大晴は辺りを少し見回しただけで立ち上がらなかった。
(だってこれ、恋の香りだろ…)
花の甘さとは違う、誰かを思う気持ちが心拍とともに揺れている。焦がれるように熱を帯びているが、下心のような甘ったるしさがない。むしろ、雨上がりのような湿気を含んでいる。切ない片思いの気配があった。
入学早々、一体何があったのだろう。余計に気になってくるが、それでも探す気は起こらなかった。だって、こんなにも優しい恋慕の想いに邪魔をしたくない。
(いいなぁ、俺もこんなふうに思われてみたい……)
そんな羨望が、大晴の胸を満たした。
しばらくすると、風は元通りになっていた。目の前の木から桜の香りをふわりと運んでくる。さっきの人は、もうこの場を去ってしまったようだ。
大晴はぼうっとしたままベンチに座っていた。もう残り香もないというのに、あの香りが忘れられない。人の感情を嗅いだというのに頭はスッキリとしていて、むしろずっと嗅いでいたいとさえ思う……。
「あー、やっぱ誰かぐらい見とくべきだったか!?」
じわじわと後悔の念に襲われ、大晴は頭を抱えた。もう二度と会えないかもしれないのに、何をやっているんだ自分は!
しかし、一つ収穫はあった。あの花の香りがなんなのか、思い出したのだ。街中が桜に包まれる前、一番はじめに春を伝えてくれる花。
梅の香りだ。
桜の影に隠れてしまっているが、昔の人はこの香りを愛し多くの和歌を残した。大晴も、もし平安に生まれていたら間違いなく今のことを歌に詠んでいただろう。
(和歌でいったら、さっきの人は「梅の君」だろうな)
今後梅を見たら、きっとこの切ない片思いを思い出す。
大晴はもう一度空を見上げたが、今度は恐怖を感じなかった。晴れ渡る青空に向かって、心の中でそっと願いを唱える。
どうか、梅の君にもう一度会えますように。あの人の恋が、叶いますように⸺。
どこかで、春を告げる鳥の鳴き声が穏やかに響いた。
その木は枝や幹が剥き出しで、花も実もつけずまるで枯れてしまったかのような姿です。
しかし、春告鳥は満足そうに体を丸め、暖かな日の光を浴びて眠りにつきました。時折、その寂しげな背中を撫でるように春風が通り抜けていきます。
春告鳥は、一度も鳴いた事がありません。彼にとって大事なものはすでにあり、ひとりぼっちでも構わないから……。
この木さえそばにいてくれれば、それでいいのでした。
▫︎ ▫︎ ▫︎ ▫︎ ▫︎ ▫︎
麗らかな日差しが万物を照らしている様子は、まるですべてが主役であると告げるスポットライトのようだ。
京都市内にある国立洛明大学は、朝からスーツを着た学生で賑わっていた。彼らは皆受験という厳しい冬を乗り越え、この春めでたく入学した若鳥たちだ。嬉しさ、期待、それから少しの不安を乗せた風に背中を押され、続々と体育館へ入っていく。
偏差値もそこそこ高く理系学部が多いせいか、全体的に真面目で落ち着いた人が多い。過半数が眼鏡をかけ、おしゃべりもせず式の開始を待っている。
入学式の会場を一通り見渡して、文系の中の文系、つまり文学部に所属する志摩大晴は何となく疎外感を感じ頭を掻いた。
(うわー、頭良さそうな子ばっかだな。地元の高校とは大違い……ちょっと上の大学狙いすぎたか)
ギリギリでいい大学に入るより、一つランクを落として私立にしておいた方が自分には合っていたかもしれない。まだ式も始まらないうちからそんな暗い気持ちが浮かび、慌てて打ち消そうと隣の席に話しかけた。
「なあ、あんたも文学部?俺志摩って言うんだ。よろしくな」
「え?ああ、うん。よ、よろしく……」
話しかけられると思っていなかったのか、隣の男は驚いたように顔をあげた。見開いた瞳はまん丸に広がり、ほんのりと香る汗の匂いから緊張が伝わってくる。
彼は、広瀬優太と遠慮がちに名乗った。中肉中背で丸まった肩。節目がちな瞳と、小さな鼻の上で星のように散らばるそばかす。落ち着かないのか、サイズの合っていないスーツの袖口をしきりに触っている。なんとも気の弱そうな印象だ。
ふと、大晴は広瀬の頭髪に目を向けた。明るい茶髪をカッチリと固めており、根元の黒髪が僅かに顔を覗かせている。安物のワックスの匂いがツンと鼻を刺激した。
大晴は再び話しかけたが、今度はゆっくりとした口調を意識するようにした。警戒心が少し薄れたのか、二、三言交わすうちに広瀬の強張った顔は自然と解けて、会話のテンポが良くなっていく。
意外にも、二人は恋愛小説を好むという共通点が見つかり、広瀬はついにゆっくりと微笑んだ。
「志摩くん、話上手やなあ。入学式でこんなに話すと思わへんかったわ。俺は自分から話題振るなんてできひん……」
「そう?あーでも確かに、俺、いろんな人と仲良くなりたいから自然とおしゃべりになっちゃうんだよな。だから慣れ?みたいなんもあるのかも。うるさいってよく言われるんだけどさ、おかげで趣味の合う友達見つけれたし超ラッキー。次は聞き上手目指すから、もっと話し聞かせてくれよ」
「うわ、イ、イケメンっ………」
広瀬は照れくさそうに髪を撫でながら、嬉しさを隠しきれない瞳で大晴を見つめた。
「ねえ、地元京都…とちがうよね?どこ出身なん?」
「出身?関東の方だよ」
「関東!もしかして、東京の人?」
何か東京に思い入れでもあるのだろうか。期待を含んだ声でそう問われ、大晴は少し気まずさを感じながら首を振る。
「いや、東京じゃなくて神奈川なんだ。横浜って知ってる?中華街とかあるとこなんだけど」
「知ってる知ってる!横浜ってめっちゃ都会やん!やっぱシティボーイなんやあ」
(シティボーイ!?……久々に聞いたなそれ)
死語に近いような表現に何と言えばいいのかわからず、言葉に詰まる。そんな大晴の戸惑いには気づいていないようで、広瀬は潤んで輝いた眼差しで大晴を上から下まで見渡した。
「あの、実は志摩くんを初めて見た時から、えらいオシャレな人やなって思うとって。背も高いしかっこええしオーラがあるっちゅーか……モデルさんみたいやん」
「それは言い過ぎだろ。でも、俺昔からファッションには興味あって、普段から気にかけてるんだ。だからそう言って褒めてもらうのは嬉しい。ありがとな」
大晴は緋色の目を細めて笑いながら礼を言った。
昔から人に見られることが多く、自然と自分の外見を意識するようになった。今着ているスーツも入学式のためにわざわざ取り揃えたオーダーメイド品だ。大晴の体型にピッタリと合っていて、一番スタイルがよく見えるように作られている。
「ほんまに、芸能人に会った気分やわ。地元には志摩くんみたいな人いはらへんし……あ、俺の地元は京都なんやけど!もっと上の方で田んぼばっかの田舎やねん。せやからオシャレとはその、無縁というか」
「そんなことない。オシャレってまずは意識するところから始まるだろ?別に全身をいきなり変える必要はないし、どこか一部分からでいいんだよ。それに、広瀬はもうやってるじゃん」
「え?」
「地毛じゃないだろ?その髪」
そう言って自分の頭を人差し指でさし示すと、広瀬の表情はピタッと固まり動かなくなった。空気が止まる。
そして次の瞬間⸺
目の前の顔が突然火をつけたように赤く染まっていく。体温が高まったせいか、甘い柔軟剤の香りが強まり羞恥の炎とともに大晴を包み込んだ。
「!?」
突然後頭部を殴られたかのような衝撃だ。強烈な匂いに圧倒され、えずきそうになるのを必死に堪える。驚いて広瀬を見ると、彼は顔を真っ赤にしたまま取り繕うようにぎこちない笑顔を見せた。
「あはは、これはその、合格したノリでつい……わ、わかってる!皆まで言わんで大丈夫やから!全然似合うてへんよなあ、はは……」
「…………」
声は震え、今にも泣き出してしまいそうな塩辛い匂いが漂う。ぎゅっと眉根を寄せ、なんとか感情を抑えようと膝の上で拳を握り締める広瀬に、大晴はなんとなく彼の過去を察した。
(多分、身内か親しい人に何か言われたんだろうな……)
せっかく若鳥が空に羽ばたいてみようと気持ちを昂らせているのに、その羽を全てもいでしまうような一言。「なに色気付いてんだよ」「もしかして大学デビュー?」「やだ、なんか変よそれ」
言った人たちはちょっとからかってやろうくらいの気持ちで、もうとっくに忘れている言葉かもしれない。しかし言われた本人は一生治らない傷を負い、空を見ることすら恥だと思い苦痛になる。
会場で繰り返し流れている大学の校歌の音が、急に大きくなった気がした。広瀬の匂いを嗅ぐうちにどんどんと苛立ちが募っていき、大晴は顔を大きくしかめる。
どうして人は、自分の言ったことに責任をもたないのだろう。何でもかんでも思ったことを口に出しやがって……無理して笑っている笑顔の奥で、必死に自分の尊厳を守ろうと涙を堪えるこの姿が⸺本当に見えないとでもいうのか!?
ギリッと奥歯が軋む音が聞こえ、頭に上った血を落ち着かせようとゆっくり息を吐き出す。それからすっかり縮こまってしまった広瀬に向かって、さっきよりも優しく、しかし彼の心の奥まで届くよう力強い言葉を投げかけた。
「大丈夫、似合ってるよ。もし過去に何か言われたんだとしても、そんなの気にすんな。そもそもさ、初めて髪染めたんだろ?そんな最高に楽しい時、暗い気持ちで過ごしてんのもったいねえって!」
「志摩くん………」
「今度からは、髪染めたとか服買ったとかーーなんでもいい!何かしてみたんなら、まず一番に俺に見せに来いよ。絶対もっと楽しいって気持ちにするし、必要ならアドバイスだって多少はできる」
「伊達に生活指導は受けてきてねえからな」散々やってきた高校生活を思い出しながらそう言えば、広瀬は口をぽかんと開けたあと、ついに気の抜けた笑い声をあげた。
「志摩くんはすごいなあ……。気使わせちゃって、ほんまかんにんな」
「別に気使って言ったわけじゃねえよ」
「うん……うん。おおきに!もうデビューって言われてもなんでもええわ」
楽しむんが大事やんなあ、そう呟く広瀬の横顔は憑き物が落ちたかのようにすっきりとしている。さっきまでの胸が苦しくなるような匂いも落ち着いて、大晴は心地よい開放感に満たされた。
しかしそれも束の間、押さえ込んでいた吐き気がまたせり上がる。唇を噛み締め、じっとやり過ごす。本当は今すぐ外に出たいが、もうすぐ式が始まるし、何より広瀬に怪しまれたくない。
汗をにじませながら耐えていると、斜め前の女の子がくしゃみをした。一回で収まらなかったのか、続けて数回繰り返す。それを見た広瀬が、女子から大晴へと視線を移し口を開いた。
「花粉かな。しんどそう……志摩くんも花粉症なん?」
目線は大晴のマスクに向く。体調を悟られないようマスクを少し上げ、大晴は頷いた。
「うん。まあ、そんなとこ」
「そっか、しんどいなあ」
曖昧に微笑んで、足元の鞄からティッシュを取り出す。そのままくしゃみをしていた女子のところへ行き、肩を軽く叩いた。
「よかったら、これ使って」
「えっ」
新品のポケットティッシュを差し出すと、彼女は鈴のような声を上げた。肩が跳ね、ハーフアップの真っ直ぐな黒髪がさらりと揺れる。
鼻を左手で押さえながら恐るおそる振り返る彼女に、大晴は警戒させないよう優しく目を細め、強引に渡すとすぐに自分の席へ戻った。
「…………」
しばらく呆けたように大晴を見つめていた女子は、突然ハッと目を見開くと何度も繰り返しお辞儀をした。地元の女友達ではあり得ない謙虚な姿勢に新鮮味を感じつつ、軽く手を振って答える。
良かった、もう彼女は焦ってはいないようだ。さっきまで辺りを支配していた、鼻をつんざくような鋭い金属臭はすっかり消え失せている。かわりに、ほんのりと赤く染まる頬とともに甘い好意の香りが柔らかく広がった。
その嗅ぎ慣れた匂いに、ほっと一息つく。大晴にとっては少し甘ったるしく重たい香りだが、悲しみや焦りといったネガティブなものよりずっといい。
じっとりと汗で湿った手のひらを見つめていると、隣から溢れんばかりの熱い思いをのせた香りが漂ってきた。
「志摩くんって、外見も中身もイケメンやなっ……!」
そう言う広瀬の顔は嬉しそうに輝いていて、称賛の星を無数に飛ばしている。この香りは瑞々しい果実に似ていて、大晴が最も好む感情の一つだ。
「なんであの人が困ってるってわかったん?」
「なんでって……」
見つめられる瞳に込められた期待に、大晴は言葉を詰まらせる。
「広瀬、知ってるか?人の感情って、それぞれ匂いが違うから嗅ぎ分けれるんだ」
(……なんて言えるわけないだろ)
「くしゃみした後から、何かを探すような動きをしてたしティッシュかと思って」
「へえー、よう見てはるな」
「動いてるものに自然と目がいくんだよ。あとは何でその行動をしてるのかって考えて状況を見れば大体理由はわかるし。接客でバイトしてた時の癖かもな」
広瀬はなるほどなあ、と言いながら首を大きく縦に振った。良かった、納得してくれたようだ。このような説明もすっかり慣れ、特に心配することでもなくなってきたが……。
(それでもやっぱり、何かを隠すのは嫌いだな)
大晴はいつものように上手く笑えず、誤魔化すように咳払いをした。
普通の人よりも多くの情報を得ることができる優秀な鼻は、会場内のありとあらゆる匂いを丁寧に拾い上げていく。気合の入った髪から香る整髪料のツンとした刺激、香水の人工的な甘さ、そして体臭から読み取れる不安と期待の感情……。それらが空気の中でごちゃまぜになっている。
ようやく式が始まり、順調に進んでいる間もずっと大晴の脳は刺激で震えていた。こもった空気はずっしりと重くて、ひどく息苦しい。
壇上の話し声が、段々と膜をはったように遠ざかって行く⸺…
「ハックション!……ックシュン!!」
ようやく式が終わった頃、鼻はあまりに多くの情報を受け取った結果アレルギー反応を起こしたかのようにくしゃみが止まらなくなってしまった。
(あー、やっぱり人が多い室内はきつかったか。これは落ち着くまでしばらく動けねえかも……)
だから言ったでしょ、と母の呆れたような声が脳裏に響く。はいはいすいませんでした、と脳内の母親に謝りながら、大晴は裏庭のベンチに腰を下ろした。ここは校舎の影に隠れているせいかひっそりとしていて人気もなく、休むのに最適な場所だ。
目を閉じ、ゆっくりと深呼吸する。真っ新な空気で肺を満たして、匂いから拾い上げてしまった感情を全て体の外へ吐き出していく感覚を意識する。それから次は、足裏に感覚を移し地面の上にいることを考える。そうすると、迷子になってしまったようにふわふわと浮いていた意識が重力に従ってストンと降りてくる。
このグランディングを数回繰り返すことで、大晴はいつも自分の気持ちをリセットしていた。そうしないと、他人の強い感情に引っ張られて自己を失いそうになってしまうからだ。
本来自分のように感覚が敏感な人間は、こういう大勢の人が集まる場所には行かないほうがいいのだろう。混ざり合った感情は脳の負担になるということもわかっている。
なら、自身の健康のために人と関わらない人生を生きていくか?
……いいや、そんなのはごめんだ。
大晴は人と話すのが何よりも好きである。皆んなで集まって楽しくわいわい、最高じゃないか。活気に満ち溢れていて、いろんなドラマを見ることができる。
独りでいたってつまらないし、できることだって限られてしまう。唯一楽しいと思えるのは、良質な恋愛小説を読んで胸をいっぱいにしている時だけだ。
それに、何よりも、自分のこの特殊な体質を欠点だとは思いたくなかった。
親に貰った大切な身体だ。申し訳なさそうな顔をさせたくないし、心配もかけたくない。だから今日のような集まりには積極的に参加して、自分は問題ないということをアピールしてきた。
それに、普通の人よりも色んなことに気づけるのは嬉しいことでもある。一人でも多くの人を助けられるし、気遣いができると何かと好かれやすい。
(まあ、気を使いすぎておせっかいって言われることも多いけど)
大晴は乾いた笑いを浮かべ空を仰いだ。
「!」
気を取り直すつもりだったのに、雲ひとつないきれいな晴天に目を奪われハッと身体が強張る。
突然澄んだ青が容赦なく視界から体内まで染み込み、心の中まで見透かされそうな心地になった。身ぐるみを剥がされ、隠せるものは何もない状態で全身を見つめられている感覚に手や指が震える。
それはまるで、隠していることも全て嗅ぎ取ってしまう自分のようだ⸺。
大晴は慌ててかぶりを振り、今考えたことを消し去ろうとした。やはり一人でいるのは良くない、どんどん思考がマイナスの方に傾いてしまう。
もし自分の体質が他人に知られれば、今のような底知れない恐怖を感じさせてしまうかもしれない……確かに、心の中を覗かれるのは誰だって気味が悪い。
しかし、それはあくまで知られれば、の話だ。大晴は金輪際この事を誰かに話すつもりはないし、嫌な思いをさせてまでわかってほしいとも思っていない。自分は気配りができてちょっとおせっかいで、明るくおしゃべりな奴でいい。
「………よし、あともうちょっと休んだら行くか!」
自分に言い聞かせるように、わざと大きな声を出した。結論の出ていることをあれこれ考えても仕方がない、こういうのは切り替えが大事だ。
もう一度深く息を吸い込むと、ふと風が軽くなったのを感じた。さっきまでのようなざらつきがない。
風を変えたのは、底からそっと広がるような甘く優しい香りだった。
「何だこれ……花か?」
甘酸っぱい上品な花の香りに、古風で落ち着いた温かみがある。
今までに嗅いだことがないくらい、いい匂いだ。いつの間にか空気に忍び込んだそれは、大晴の心にゆっくりと染み渡っていく。奥底で絡まってぐちゃぐちゃになった悩みの糸が一つひとつ解かれるような心地よさを感じた。
お風呂に浸かっている時の感覚に近い気がする。あー、と無意識に喉から声が出てしまう。
「すげーいい匂い……好きな匂いって、こういうことを言うんかな」
この香りには、温度がある。つまり、自然からくるものではなく誰かの香りということだ。
人生で初めて、人の匂いを嗅いで脳がとろけるような気持ちよさを感じた。恋愛小説の中で主人公が、彼氏の服に顔を埋めて幸せそうにしていた描写の意味がわかった気がする。自分の場合は嗅覚が敏感だからこそ、より幸福感を強く感じるのだろう。
淡く優しい花の香りを携えた誰かが、この近くにいる。ひと目でもその姿を見てみたかったが、大晴は辺りを少し見回しただけで立ち上がらなかった。
(だってこれ、恋の香りだろ…)
花の甘さとは違う、誰かを思う気持ちが心拍とともに揺れている。焦がれるように熱を帯びているが、下心のような甘ったるしさがない。むしろ、雨上がりのような湿気を含んでいる。切ない片思いの気配があった。
入学早々、一体何があったのだろう。余計に気になってくるが、それでも探す気は起こらなかった。だって、こんなにも優しい恋慕の想いに邪魔をしたくない。
(いいなぁ、俺もこんなふうに思われてみたい……)
そんな羨望が、大晴の胸を満たした。
しばらくすると、風は元通りになっていた。目の前の木から桜の香りをふわりと運んでくる。さっきの人は、もうこの場を去ってしまったようだ。
大晴はぼうっとしたままベンチに座っていた。もう残り香もないというのに、あの香りが忘れられない。人の感情を嗅いだというのに頭はスッキリとしていて、むしろずっと嗅いでいたいとさえ思う……。
「あー、やっぱ誰かぐらい見とくべきだったか!?」
じわじわと後悔の念に襲われ、大晴は頭を抱えた。もう二度と会えないかもしれないのに、何をやっているんだ自分は!
しかし、一つ収穫はあった。あの花の香りがなんなのか、思い出したのだ。街中が桜に包まれる前、一番はじめに春を伝えてくれる花。
梅の香りだ。
桜の影に隠れてしまっているが、昔の人はこの香りを愛し多くの和歌を残した。大晴も、もし平安に生まれていたら間違いなく今のことを歌に詠んでいただろう。
(和歌でいったら、さっきの人は「梅の君」だろうな)
今後梅を見たら、きっとこの切ない片思いを思い出す。
大晴はもう一度空を見上げたが、今度は恐怖を感じなかった。晴れ渡る青空に向かって、心の中でそっと願いを唱える。
どうか、梅の君にもう一度会えますように。あの人の恋が、叶いますように⸺。
どこかで、春を告げる鳥の鳴き声が穏やかに響いた。
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