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本編
58 蜻蛉(カゲロウ)1 【side セイ】
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(苦しい、苦しい、助けて)
深い海の底のようだった。もがくけれども上に行けない。息ができない。
遠くで。
彼女が泣いている。花嫁衣裳のような真白なドレスに身を包み、女神の如く美しいのに。
(あなたにはそんな顔は似合わない。泣かないで、泣かないで)
手を伸ばしても、届かない。
そこから連れ出して、誰にも触れない場所に閉じ込めてしまいたい。私しか見ないようにしてしまったなら・・・。
醜い願いは海に沈む。瞬きをすると、幻のように彼女は消えてしまった。
*****
王都の一等地にあるゼレノイ邸は、宮殿と呼んでも差し支えないほどの豪奢な建物だ。キリル公国の文化を好んだ先々代の意向で改築され異国風の佇まいとなっている。
周りの人間は反対したが、どうしても自分好みにしたいと駄々をこねたらしい。
自分の娘を公国の王に嫁がせたのも、かの国と縁続きになりたかったからと聞いている。
(うちの血筋は自分の我儘を貫きとおす家系なのかもしれないな)
自分の親がいい例だ、と思いつつ、目の前で困った顔をしている父に目をやった。
職務柄、上司でもある父と顔を合わせる機会は多い。しかし仕事以外での交流は少なく、同じ屋敷にいても顔を合わせるのは食事の時くらいだ。
その父が、突然自室を訪れたのは昼前のことだった。いい年になっても婚約者を決めようとしない私の態度に業を煮やしたらしく、家柄も容姿も申し分ない少女の姿絵を持って直談判に来たのだ。
「君は本当にこの話を進めてしまっていいんだね?」
念押しするように父が問うた。
差し出された額には、美しく装って人形のように微笑む女が描かれていた。財務大臣の娘で18歳になったばかりだという。
「構いませんよ、誰でも。私は父上の決めた相手で。」
誰でもいいから勝手にしてくれと言っているにも関わらず、「一生を共にする相手なのだからよく考えたほうが良い。」と諭される。
息子に婚約者をあてがいたいのであれば親同士で決めてくれたほうが話が早いのに、一度相手に会ってから決めてほしいと言う。
「相手のお嬢さんに会いもせず婚約するというのも、、ねえ。」
困ったものを見るような眼で見られるが、どうでもいいとしかいいようがない。
「そうおっしゃられても。相手も私の人柄など気にしないでしょうし、気にせず進めてくださって結構です。仮にも宰相閣下がわざわざ勧めてくださる話を断りませんよ。」
わざと他人行儀に返事をすると、父は少し眉根を寄せた。かつては親の言いなりだった私も、今では言い返せる程度には成長した。それもナーシャの影響だろうと思う。
彼女は私に人間らしい感情を与えてくれた。愛情も我儘も嫉妬も。そして自分の感情は隠さずに出していいと許してくれたから。
「嫌ならきっぱり断ってくれたほうがありがたいんだけどなあ。」
そう言いながら、父はのんびりとした様子で目の前のカップに手を伸ばした。今はちょうど花茶の時期で、カップの中には開いた花が浮かんでいる。甘い香りの花茶を口にしながら、軽い世間話のように話を切り出した。
「そうそう、昨晩陛下とお話してね。今回手元に置いた側妃は大層気に入られているご様子だったよ。」
何気なく出た彼女の話題に心臓を鷲掴みにされる。
陛下が彼女を気に入っている? そんなこと一目見ればわかることだった。
どんな女性にも距離を取っていた陛下が所有することを望んだ。それだけで充分だった。さらに自分の色をあしらった装飾品まで贈ったと聞いている。
女神のように美しい彼女のからだに稀有な異世界の知識。口では手放すと言いながら、本人も気づかないうちに執着しているのは明らかだった。
ナーシャの立場を思えば王の寵愛は喜ばしいことだと思う。でも、彼女が陛下を愛してしまったら? 陛下の寵愛が深く手放すのを拒んだら? 私はふたりを祝福できる自信はない。
父の話に何か返すべきなのに、どうしても言葉にするのが苦痛で口を噤んだ。
父は穏やかな目をして私が何か言うのを待っている。何も言えずに無言のまま下を向くと、花茶を飲み終えた父が立ち上がった。
机の上で開かれたままだった絵姿を私のほうへ押し出す。
「これ、置いておくからね。もう一度、自分はどうしたいのか考えてごらん。」
再度検討するよう求めた父は、部屋を出る間際に一言付け加えた。
「欲しいものは、全力で取りに行くべきだと思うよ。後のことを心配するほど年を取ったわけでもないだろう?無謀さは若者の特権なんだから使わなきゃ損だよ。」
・・・ナーシャと夜を過ごすことになった。
「いつまでもアナスタシア嬢の面影を追っていると彼女が可哀そうだ。今の彼女と向き合って気持ちにけりをつけてきなよ。」
そう言って陛下は私の背中を押す。何なら彼女を抱いていいとまで言う。
正直なところ、陛下が何を考えているのか理解できない。今のナーシャを抱いて、私が想う相手とは別人だと実感して諦めろという意図なのか。
自分でも、彼女に会いたいのか会いたくないのかよくわからない。でも陛下が「彼女との夜は素晴らしかった」という言葉を聞いて、言いようのない嫉妬を覚えたのは確かだ。
陛下の命令だからと言い訳をしつつ、念入りに準備をしている自分に呆れてしまった。何をやっているんだろう。私は。
迷いながらも部屋に入ると、愛しい人と同じ姿をした少女が待っていた。薄い夜着は私の瞳の色。頼りない薄い生地に包まれた肢体を見ただけで、その先の色めいた想像が掻き立てられる。
「・・・そんな恰好でお会いするのは初めてですね。」
ぼそり、と口から言葉が漏れた。
恋人という関係ではなかったので、今まで彼女のこんな装いを見たことはなかった。今夜は私と恋人として過ごすために装ってくれたのだと思うと、言葉にならないほどうれしかった。
私はいつもとそれほど変わらない服装だ。香りだけ、彼女のための香水を身に付けた。覚えていないとは思いながら。
(でも陛下は彼女に執着している)
その事実が、心を重くする。ナーシャと目を合わせることができない。ごまかすようにブランデーを口にする。気が付くと結構な量を飲んでいた。理性の糸が切れそうだ。
冷静さを欠いた頭で彼女を見つめた。いつものように命令してほしい。私を犬として蔑んでほしいと思いながら。
深い海の底のようだった。もがくけれども上に行けない。息ができない。
遠くで。
彼女が泣いている。花嫁衣裳のような真白なドレスに身を包み、女神の如く美しいのに。
(あなたにはそんな顔は似合わない。泣かないで、泣かないで)
手を伸ばしても、届かない。
そこから連れ出して、誰にも触れない場所に閉じ込めてしまいたい。私しか見ないようにしてしまったなら・・・。
醜い願いは海に沈む。瞬きをすると、幻のように彼女は消えてしまった。
*****
王都の一等地にあるゼレノイ邸は、宮殿と呼んでも差し支えないほどの豪奢な建物だ。キリル公国の文化を好んだ先々代の意向で改築され異国風の佇まいとなっている。
周りの人間は反対したが、どうしても自分好みにしたいと駄々をこねたらしい。
自分の娘を公国の王に嫁がせたのも、かの国と縁続きになりたかったからと聞いている。
(うちの血筋は自分の我儘を貫きとおす家系なのかもしれないな)
自分の親がいい例だ、と思いつつ、目の前で困った顔をしている父に目をやった。
職務柄、上司でもある父と顔を合わせる機会は多い。しかし仕事以外での交流は少なく、同じ屋敷にいても顔を合わせるのは食事の時くらいだ。
その父が、突然自室を訪れたのは昼前のことだった。いい年になっても婚約者を決めようとしない私の態度に業を煮やしたらしく、家柄も容姿も申し分ない少女の姿絵を持って直談判に来たのだ。
「君は本当にこの話を進めてしまっていいんだね?」
念押しするように父が問うた。
差し出された額には、美しく装って人形のように微笑む女が描かれていた。財務大臣の娘で18歳になったばかりだという。
「構いませんよ、誰でも。私は父上の決めた相手で。」
誰でもいいから勝手にしてくれと言っているにも関わらず、「一生を共にする相手なのだからよく考えたほうが良い。」と諭される。
息子に婚約者をあてがいたいのであれば親同士で決めてくれたほうが話が早いのに、一度相手に会ってから決めてほしいと言う。
「相手のお嬢さんに会いもせず婚約するというのも、、ねえ。」
困ったものを見るような眼で見られるが、どうでもいいとしかいいようがない。
「そうおっしゃられても。相手も私の人柄など気にしないでしょうし、気にせず進めてくださって結構です。仮にも宰相閣下がわざわざ勧めてくださる話を断りませんよ。」
わざと他人行儀に返事をすると、父は少し眉根を寄せた。かつては親の言いなりだった私も、今では言い返せる程度には成長した。それもナーシャの影響だろうと思う。
彼女は私に人間らしい感情を与えてくれた。愛情も我儘も嫉妬も。そして自分の感情は隠さずに出していいと許してくれたから。
「嫌ならきっぱり断ってくれたほうがありがたいんだけどなあ。」
そう言いながら、父はのんびりとした様子で目の前のカップに手を伸ばした。今はちょうど花茶の時期で、カップの中には開いた花が浮かんでいる。甘い香りの花茶を口にしながら、軽い世間話のように話を切り出した。
「そうそう、昨晩陛下とお話してね。今回手元に置いた側妃は大層気に入られているご様子だったよ。」
何気なく出た彼女の話題に心臓を鷲掴みにされる。
陛下が彼女を気に入っている? そんなこと一目見ればわかることだった。
どんな女性にも距離を取っていた陛下が所有することを望んだ。それだけで充分だった。さらに自分の色をあしらった装飾品まで贈ったと聞いている。
女神のように美しい彼女のからだに稀有な異世界の知識。口では手放すと言いながら、本人も気づかないうちに執着しているのは明らかだった。
ナーシャの立場を思えば王の寵愛は喜ばしいことだと思う。でも、彼女が陛下を愛してしまったら? 陛下の寵愛が深く手放すのを拒んだら? 私はふたりを祝福できる自信はない。
父の話に何か返すべきなのに、どうしても言葉にするのが苦痛で口を噤んだ。
父は穏やかな目をして私が何か言うのを待っている。何も言えずに無言のまま下を向くと、花茶を飲み終えた父が立ち上がった。
机の上で開かれたままだった絵姿を私のほうへ押し出す。
「これ、置いておくからね。もう一度、自分はどうしたいのか考えてごらん。」
再度検討するよう求めた父は、部屋を出る間際に一言付け加えた。
「欲しいものは、全力で取りに行くべきだと思うよ。後のことを心配するほど年を取ったわけでもないだろう?無謀さは若者の特権なんだから使わなきゃ損だよ。」
・・・ナーシャと夜を過ごすことになった。
「いつまでもアナスタシア嬢の面影を追っていると彼女が可哀そうだ。今の彼女と向き合って気持ちにけりをつけてきなよ。」
そう言って陛下は私の背中を押す。何なら彼女を抱いていいとまで言う。
正直なところ、陛下が何を考えているのか理解できない。今のナーシャを抱いて、私が想う相手とは別人だと実感して諦めろという意図なのか。
自分でも、彼女に会いたいのか会いたくないのかよくわからない。でも陛下が「彼女との夜は素晴らしかった」という言葉を聞いて、言いようのない嫉妬を覚えたのは確かだ。
陛下の命令だからと言い訳をしつつ、念入りに準備をしている自分に呆れてしまった。何をやっているんだろう。私は。
迷いながらも部屋に入ると、愛しい人と同じ姿をした少女が待っていた。薄い夜着は私の瞳の色。頼りない薄い生地に包まれた肢体を見ただけで、その先の色めいた想像が掻き立てられる。
「・・・そんな恰好でお会いするのは初めてですね。」
ぼそり、と口から言葉が漏れた。
恋人という関係ではなかったので、今まで彼女のこんな装いを見たことはなかった。今夜は私と恋人として過ごすために装ってくれたのだと思うと、言葉にならないほどうれしかった。
私はいつもとそれほど変わらない服装だ。香りだけ、彼女のための香水を身に付けた。覚えていないとは思いながら。
(でも陛下は彼女に執着している)
その事実が、心を重くする。ナーシャと目を合わせることができない。ごまかすようにブランデーを口にする。気が付くと結構な量を飲んでいた。理性の糸が切れそうだ。
冷静さを欠いた頭で彼女を見つめた。いつものように命令してほしい。私を犬として蔑んでほしいと思いながら。
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