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第一章 帰ってきた幼馴染
森屋園芸さんと、フルーツタルトとアイスコーヒー(2)
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森屋さんはとつとつと昔語りをはじめた。
「あの日は……いつものようにここの庭のメンテナンスに訪れていた。今と、同じくらいの季節だったな。俺はもっと春らしい植物をたくさん植えたいという先生の要望通りに、仕事をこなしていた。一仕事終えて、そろそろ帰ろうかというとき、先生からお茶の誘いを受けたんだ……」
青司くんは言いにくそうに口を開く。
「そこで、さっきのフルーツタルトを出してもらってたんですよね? 飲み物も……さっきと同じアイスコーヒーを。あの日の夜、冷蔵庫を見たら母のフルーツタルトが入っていたんです。あと、流しに二人分の使い終わった食器も……。それを見てすぐにわかりました。ああ、いつものように森屋さんが来てたんだなって」
「そうか……」
先生が倒れた日。
青司くんは学校から帰ってきて、すぐに桃花先生が運ばれた病院に直行した。
だから冷蔵庫とか、その流しの異変に気付いたのは夜だったはずだ。
その時の心情を想像して、胸が痛んだ。
最後に会っていたのが森屋さんだとわかって、青司くんはどう思ったんだろう。彼が殺した、とでも思ったのだろうか。
「でも……母さんが倒れたのは、森屋さんと会っていたときじゃない。そのお茶の「後」だったんですよね? だってもし、森屋さんと会っていた時に発作が起きたのなら、きっと母を助けてくれたはずですから。でも、そうじゃなかった……」
「ああ。もし俺と会っていた時に先生に異変が起きたのなら、俺は即、救急車を呼んでいた。だが……違った。俺の帰った後に先生は……」
「ええ、それは病気だったのだから仕方がないことです。警察も……病死だったと言っていました。たとえ最後に会ってたのが森屋さんだったとしても、なんの恨みもありません。罪悪感だって抱く必要はないんです」
「いや、それは違う」
「え?」
森屋さんは、苦悶の表情でアイスコーヒーの中の氷を見つめていた。
「どういうことですか」
「救えなかった、だけじゃない」
「……?」
「彼女に発作を起こさせた原因は……俺にあるんだ」
「えっ!?」
青司くんだったか、わたしだったかは定かでない。
でもほぼ同時に似たような悲鳴をあげていた。
「発作の原因が森屋さん……!? どういうことですか」
わたしも青司くんも体が小刻みに震えていた。
わたしは座っていたからまだいいけれど、青司くんは倒れないように必死でいる。
「どうして、森屋さんが……?」
「お茶をするのはその日が初めてではなかった。それまでも何度か、彼女の作った手料理をご馳走になっていた。それで、勘違いしてしまったのかもしれない。俺はその日、勢い余って彼女に……告白をしてしまったんだ」
「え?」
ぽかんと口を開ける。
人間驚きすぎると誰もがこうなってしまうらしい。
え? なに? 桃花先生に森屋さんが告白……?
そんな恋心を抱いていたなんて……。今日は初めて聞くことが多いと思ったけど、なにもこんなことまで知るはめになるなんて。
青司くんは少しでもお母さんのことを知っておきたかった、だから思い切って訊いたのだと思う。
今もじっと神妙な顔で、森屋さんの話を聞いている。
「そ、それで……? 母に返事はもらえたんですか」
「いや。その時は、とりあえず考えさせてくれと言われたよ。でも結局そのまま……亡くなられてしまったのでずっと返事は聞けずじまいなんだ。俺があんな驚かすようなことを言わなければ……きっと……」
森屋さんは両手を強く握りしめ、カウンターの板に押し付けている。
「すまない。青司くん……」
そう言って深く頭を下げる森屋さんに、青司くんは複雑な表情を向けた。
「あ、謝らないで下さい。たとえ母が森屋さんの告白に驚いたんだとしても……それで心臓発作を起こしたんだとしても……森屋さんは、何も悪くありません。だって母は……」
青司くんは玄関近くの壁に飾られている、桃花先生の肖像画を見つめて言う。
「嫌いな人に、わざわざ料理を作ったりなんてしません。僕みたいに飲食店を開こうとしてるわけでもないのに、わざわざ『二人きりになって』その相手に料理をふるまったりなんてしませんよ。それは、きっと勘違いじゃなかったと思います。母の真意は、もう訊けないからわからないですけど……たぶん、森屋さんの事、それなりに好きだったと思いますよ」
「……」
「返事をしないで死んだのは、母に代わって謝ります。どういう形であれ、母はきちんと答えを出したかったと思うんです。でも、いつも無理をしているような人でしたから……。俺がもっと早く成人して、稼いで、楽にしてあげられたら良かった……」
そう言って、青司くんはいつもの笑みを浮かべながら、一筋の涙を流した。
「母はあの頃……よくフルーツタルトを作っていました。どうしてこんなによく作るんだって訊いたら、色とりどりなのがまるでお花畑みたいでしょう、ってよくわかんない理由を言って笑ってました。この庭、僕たちがこの家に来た当初はなんの花も咲いてない荒れた庭だったんです。それが、森屋さんに頼むようになってから、良心的な料金なのにすごく素敵にしてくれて。毎日母が笑顔だったのも……きっとあの庭のおかげだったと思うんです」
青司くんはカウンターの先の窓から見える庭を見て、しみじみとそう言った。
長年少しずつ育ててきた庭。
最初は花壇が一つあっただけだった。それを教室のみんなはよく写生していた。
それから紫陽花やドウダンツツジなどの花木が加わって。
花壇もどんどん増えていって。
少しずつ少しずつ華やかになっていった。
先生がどうしてそこまで庭に入れ込んでいたのかわからない。自分で植えても良かったはずだ。
でも、あえて「森屋さん」に任せていた理由。
やっぱり、先生も好意を持っていたのだと思う。
森屋さんとは知り合ってからもう十年以上の歳月が流れていた。
亡くなった年、先生は四十代半ばだった。そして森屋さんは三十代後半。
想いはあっても、「高校生の息子がいる歳なのに」なんていろいろと悩んでいたのかもしれない。
まさに悩める乙女心、だろう。
桃花先生のいじらしさに、わたしは胸が切なくなった。
それは、森屋さんも同じだったみたいで。
「そんな……まさか彼女が……?」
と、声を震わせていた。
「先生は、俺の難聴にも、いつもいろいろ配慮してくれていた。何か話したいときは肩を叩いてから話しかけてくれたし、俺が補聴器を忘れて何度も聞き返しても、根気よく……もう一度話してくれた。俺はこんな耳だから、何か彼女が言った言葉を聞き逃すことも多かったと思う。だから、俺なんかを好きになるわけないと……思っていた。でもどうしても、この思いを抑えきれなくて……。あんな自分勝手に伝えたのに。それなのにこんな、こんな俺を……」
森屋さんはカウンターに顔を伏せた。どうやら泣いてしまったみたいだ。
からん、とアイスコーヒーの中の氷が動く。
それはまるで、彼の心の中の風景のようで。ずっと十年間凝り固まって。凍り付いていたものが静かに溶けだしていく……そんな光景のように見えた。
わたしはそんな森屋さんを見ながら、ひそかに自分のことと重ね合わせていた。
好きなのに伝えられないまま、永遠に離れ離れになってしまった。
日本とイギリスに。
わたしと青司くんは、そんな状態で十年も別れ別れとなっていた。
森屋さんと桃花先生は、「死別」という最も悲しい別れだったけど。
もだもだしていたら取り返しがつかなくなる。
それは十年前に学んだこと……。
なのにわたしはまた、同じことを繰り返そうとしている。
その後しばらくして、森屋さんは落ち着きを取り戻し、アイスコーヒーを飲み切るとさっさと帰っていってしまった。
後にはまた、青司くんとわたしだけが残った。
わたしは青司くんにスマホを返してもらってから、二つ目のフルーツタルトを食べていた。
フルーツはビタミンがたくさん入っているから体にいい、という理論を自分に言い聞かせている。
っていうのは、表向きで。
実はもう少し青司くんと一緒にいたかったのだ。
青司くんはなんとなくまだぼうっとした感じで、食器を洗っていた。
桃花先生と森屋さんの関係に、いろいろと思いを巡らしているのかもしれない。
――わざわざ『二人きりになって』その相手に料理をふるまったりなんてしませんよ――
青司くんが放った言葉。
それは桃花先生の立場になって、想像して、言った言葉なのかな。
でも、もしそれが青司くんにも当てはまってていたなら。
青司くんもわたしを……? とかって少しでも思ってしまう。
いや。
それはたぶん違う。
彼は喫茶店を開きたくてやってるんだ。
わたしに対する特別な想いがあるから、じゃない。
――僕みたいに飲食店を開くわけでもないのに――
そんなことも、言っていた。桃花先生はプライベートで森屋さんを食事に誘っていたけれど、青司くんは……あくまで仕事の一環として、わたしに試食を頼んできている。
嫌いな人、にはこんなことお願いしないよね。うん。
いくら仕事だって言っても、嫌いな人とはわざわざ一緒にこういうことしないよ。
でも……「特別な人」、でもない気がする。
彼の「特別」にはなれなくても。
少なくとも普通の好意ぐらいは持ってくれてるって信じたい。
幼馴染として。
ご近所さんとして。
元お絵かき教室の仲間として。
それだけでいい。
それだけでいい……はずなのに。
やっぱり「特別」にも思ってほしいって、そんなわがままな感情も抱いてしまう。
「うっ……」
イチゴの甘酸っぱさが、ふいに意識をクリアにさせた。
わたしも森屋さんじゃないけど、自分なんかがって、相手を好きでいていいのかって思ったりする。
なんの取り柄もなくて。そんな自分は相手にふさわしくないんじゃないかって。そう思うときがある。
そもそもこの気持ちは、迷惑なんじゃないのか。
ただの仕事仲間ならいい。ただの幼馴染なら、ただのご近所さんならいい。
でも、「恋愛感情」なんて強い気持ちをを向けられたなら……? 嫌じゃない? 面倒じゃない? お荷物にならない?
青司くんはこんなに立派な水彩画家になれたのに。
素晴らしい人なのに。
わたしといるせいで間違った道に行かないかな?
「……」
わたしは店内に飾られた、青司くんの水彩画たちを見渡した。
どの風景画も人物画も、透明感がすごくてまるで夢の中にいるような絵だ。
でも、今は絶賛スランプ中だと言う。
本当はここで暮らして英気を養ったら、すぐにまた絵を描くだけの仕事に戻る方が彼のためなんじゃないか。
喫茶店の店長なんてやらないで、イギリスにまっすぐ戻ったほうがいいんじゃないか。
そんな風に考えてしまったりする。
ああダメだ。
またネガティブになってる。
わたしは十年間、ずっとこんなマイナス思考でいつづけていた。
どんなことでも「いつかダメになっちゃうんじゃないか」と思ってしまう。これはトラウマの一種らしいけれど、いっこうに良くなる兆しがない。
フルーツタルトの最後の一口をほおばる。
「……ごちそうさまでした」
「うん」
ぼうっとしたまま、青司くんがわたしの空いたお皿を下げる。
わたしはまた少し心配になった。
「大丈夫? 青司くん」
「あ……うん、大丈夫。ちょっとまだ動揺してるけど」
「それは……無理もないよ。まさかあのおじさんと先生が、って感じだもんね」
「うん。ねえ真白」
「なに?」
「さっきはああ言ったけど……もし生きつづけてたら、母さんは森屋さんのこと受け入れてたと思う?」
青司くんは洗い物の手を止めて、わたしに訊いた。
わたしはうーんとうなる。
「どうだろう。好きだけど……ってとこかなあ。あの頃青司くんまだ高校生だったし……当時は、難しかったと思うよ。でも、今ならもう成人しているから、子ども関係なく堂々と付き合ったりしてるかも」
「そういうものかな」
「ん? どういうこと?」
「いや、母さんは……父さんの事も忘れてなかったと思うんだ。母さんが離婚を決意したのは、父さんのためだったって聞いたことあったから……」
「そうなの?」
目の前の紅茶が入っていたカップが、またかちゃりと動いた。
それはあの桃花先生お気に入りのワイルドベリー柄のティーカップだった。
「あの日は……いつものようにここの庭のメンテナンスに訪れていた。今と、同じくらいの季節だったな。俺はもっと春らしい植物をたくさん植えたいという先生の要望通りに、仕事をこなしていた。一仕事終えて、そろそろ帰ろうかというとき、先生からお茶の誘いを受けたんだ……」
青司くんは言いにくそうに口を開く。
「そこで、さっきのフルーツタルトを出してもらってたんですよね? 飲み物も……さっきと同じアイスコーヒーを。あの日の夜、冷蔵庫を見たら母のフルーツタルトが入っていたんです。あと、流しに二人分の使い終わった食器も……。それを見てすぐにわかりました。ああ、いつものように森屋さんが来てたんだなって」
「そうか……」
先生が倒れた日。
青司くんは学校から帰ってきて、すぐに桃花先生が運ばれた病院に直行した。
だから冷蔵庫とか、その流しの異変に気付いたのは夜だったはずだ。
その時の心情を想像して、胸が痛んだ。
最後に会っていたのが森屋さんだとわかって、青司くんはどう思ったんだろう。彼が殺した、とでも思ったのだろうか。
「でも……母さんが倒れたのは、森屋さんと会っていたときじゃない。そのお茶の「後」だったんですよね? だってもし、森屋さんと会っていた時に発作が起きたのなら、きっと母を助けてくれたはずですから。でも、そうじゃなかった……」
「ああ。もし俺と会っていた時に先生に異変が起きたのなら、俺は即、救急車を呼んでいた。だが……違った。俺の帰った後に先生は……」
「ええ、それは病気だったのだから仕方がないことです。警察も……病死だったと言っていました。たとえ最後に会ってたのが森屋さんだったとしても、なんの恨みもありません。罪悪感だって抱く必要はないんです」
「いや、それは違う」
「え?」
森屋さんは、苦悶の表情でアイスコーヒーの中の氷を見つめていた。
「どういうことですか」
「救えなかった、だけじゃない」
「……?」
「彼女に発作を起こさせた原因は……俺にあるんだ」
「えっ!?」
青司くんだったか、わたしだったかは定かでない。
でもほぼ同時に似たような悲鳴をあげていた。
「発作の原因が森屋さん……!? どういうことですか」
わたしも青司くんも体が小刻みに震えていた。
わたしは座っていたからまだいいけれど、青司くんは倒れないように必死でいる。
「どうして、森屋さんが……?」
「お茶をするのはその日が初めてではなかった。それまでも何度か、彼女の作った手料理をご馳走になっていた。それで、勘違いしてしまったのかもしれない。俺はその日、勢い余って彼女に……告白をしてしまったんだ」
「え?」
ぽかんと口を開ける。
人間驚きすぎると誰もがこうなってしまうらしい。
え? なに? 桃花先生に森屋さんが告白……?
そんな恋心を抱いていたなんて……。今日は初めて聞くことが多いと思ったけど、なにもこんなことまで知るはめになるなんて。
青司くんは少しでもお母さんのことを知っておきたかった、だから思い切って訊いたのだと思う。
今もじっと神妙な顔で、森屋さんの話を聞いている。
「そ、それで……? 母に返事はもらえたんですか」
「いや。その時は、とりあえず考えさせてくれと言われたよ。でも結局そのまま……亡くなられてしまったのでずっと返事は聞けずじまいなんだ。俺があんな驚かすようなことを言わなければ……きっと……」
森屋さんは両手を強く握りしめ、カウンターの板に押し付けている。
「すまない。青司くん……」
そう言って深く頭を下げる森屋さんに、青司くんは複雑な表情を向けた。
「あ、謝らないで下さい。たとえ母が森屋さんの告白に驚いたんだとしても……それで心臓発作を起こしたんだとしても……森屋さんは、何も悪くありません。だって母は……」
青司くんは玄関近くの壁に飾られている、桃花先生の肖像画を見つめて言う。
「嫌いな人に、わざわざ料理を作ったりなんてしません。僕みたいに飲食店を開こうとしてるわけでもないのに、わざわざ『二人きりになって』その相手に料理をふるまったりなんてしませんよ。それは、きっと勘違いじゃなかったと思います。母の真意は、もう訊けないからわからないですけど……たぶん、森屋さんの事、それなりに好きだったと思いますよ」
「……」
「返事をしないで死んだのは、母に代わって謝ります。どういう形であれ、母はきちんと答えを出したかったと思うんです。でも、いつも無理をしているような人でしたから……。俺がもっと早く成人して、稼いで、楽にしてあげられたら良かった……」
そう言って、青司くんはいつもの笑みを浮かべながら、一筋の涙を流した。
「母はあの頃……よくフルーツタルトを作っていました。どうしてこんなによく作るんだって訊いたら、色とりどりなのがまるでお花畑みたいでしょう、ってよくわかんない理由を言って笑ってました。この庭、僕たちがこの家に来た当初はなんの花も咲いてない荒れた庭だったんです。それが、森屋さんに頼むようになってから、良心的な料金なのにすごく素敵にしてくれて。毎日母が笑顔だったのも……きっとあの庭のおかげだったと思うんです」
青司くんはカウンターの先の窓から見える庭を見て、しみじみとそう言った。
長年少しずつ育ててきた庭。
最初は花壇が一つあっただけだった。それを教室のみんなはよく写生していた。
それから紫陽花やドウダンツツジなどの花木が加わって。
花壇もどんどん増えていって。
少しずつ少しずつ華やかになっていった。
先生がどうしてそこまで庭に入れ込んでいたのかわからない。自分で植えても良かったはずだ。
でも、あえて「森屋さん」に任せていた理由。
やっぱり、先生も好意を持っていたのだと思う。
森屋さんとは知り合ってからもう十年以上の歳月が流れていた。
亡くなった年、先生は四十代半ばだった。そして森屋さんは三十代後半。
想いはあっても、「高校生の息子がいる歳なのに」なんていろいろと悩んでいたのかもしれない。
まさに悩める乙女心、だろう。
桃花先生のいじらしさに、わたしは胸が切なくなった。
それは、森屋さんも同じだったみたいで。
「そんな……まさか彼女が……?」
と、声を震わせていた。
「先生は、俺の難聴にも、いつもいろいろ配慮してくれていた。何か話したいときは肩を叩いてから話しかけてくれたし、俺が補聴器を忘れて何度も聞き返しても、根気よく……もう一度話してくれた。俺はこんな耳だから、何か彼女が言った言葉を聞き逃すことも多かったと思う。だから、俺なんかを好きになるわけないと……思っていた。でもどうしても、この思いを抑えきれなくて……。あんな自分勝手に伝えたのに。それなのにこんな、こんな俺を……」
森屋さんはカウンターに顔を伏せた。どうやら泣いてしまったみたいだ。
からん、とアイスコーヒーの中の氷が動く。
それはまるで、彼の心の中の風景のようで。ずっと十年間凝り固まって。凍り付いていたものが静かに溶けだしていく……そんな光景のように見えた。
わたしはそんな森屋さんを見ながら、ひそかに自分のことと重ね合わせていた。
好きなのに伝えられないまま、永遠に離れ離れになってしまった。
日本とイギリスに。
わたしと青司くんは、そんな状態で十年も別れ別れとなっていた。
森屋さんと桃花先生は、「死別」という最も悲しい別れだったけど。
もだもだしていたら取り返しがつかなくなる。
それは十年前に学んだこと……。
なのにわたしはまた、同じことを繰り返そうとしている。
その後しばらくして、森屋さんは落ち着きを取り戻し、アイスコーヒーを飲み切るとさっさと帰っていってしまった。
後にはまた、青司くんとわたしだけが残った。
わたしは青司くんにスマホを返してもらってから、二つ目のフルーツタルトを食べていた。
フルーツはビタミンがたくさん入っているから体にいい、という理論を自分に言い聞かせている。
っていうのは、表向きで。
実はもう少し青司くんと一緒にいたかったのだ。
青司くんはなんとなくまだぼうっとした感じで、食器を洗っていた。
桃花先生と森屋さんの関係に、いろいろと思いを巡らしているのかもしれない。
――わざわざ『二人きりになって』その相手に料理をふるまったりなんてしませんよ――
青司くんが放った言葉。
それは桃花先生の立場になって、想像して、言った言葉なのかな。
でも、もしそれが青司くんにも当てはまってていたなら。
青司くんもわたしを……? とかって少しでも思ってしまう。
いや。
それはたぶん違う。
彼は喫茶店を開きたくてやってるんだ。
わたしに対する特別な想いがあるから、じゃない。
――僕みたいに飲食店を開くわけでもないのに――
そんなことも、言っていた。桃花先生はプライベートで森屋さんを食事に誘っていたけれど、青司くんは……あくまで仕事の一環として、わたしに試食を頼んできている。
嫌いな人、にはこんなことお願いしないよね。うん。
いくら仕事だって言っても、嫌いな人とはわざわざ一緒にこういうことしないよ。
でも……「特別な人」、でもない気がする。
彼の「特別」にはなれなくても。
少なくとも普通の好意ぐらいは持ってくれてるって信じたい。
幼馴染として。
ご近所さんとして。
元お絵かき教室の仲間として。
それだけでいい。
それだけでいい……はずなのに。
やっぱり「特別」にも思ってほしいって、そんなわがままな感情も抱いてしまう。
「うっ……」
イチゴの甘酸っぱさが、ふいに意識をクリアにさせた。
わたしも森屋さんじゃないけど、自分なんかがって、相手を好きでいていいのかって思ったりする。
なんの取り柄もなくて。そんな自分は相手にふさわしくないんじゃないかって。そう思うときがある。
そもそもこの気持ちは、迷惑なんじゃないのか。
ただの仕事仲間ならいい。ただの幼馴染なら、ただのご近所さんならいい。
でも、「恋愛感情」なんて強い気持ちをを向けられたなら……? 嫌じゃない? 面倒じゃない? お荷物にならない?
青司くんはこんなに立派な水彩画家になれたのに。
素晴らしい人なのに。
わたしといるせいで間違った道に行かないかな?
「……」
わたしは店内に飾られた、青司くんの水彩画たちを見渡した。
どの風景画も人物画も、透明感がすごくてまるで夢の中にいるような絵だ。
でも、今は絶賛スランプ中だと言う。
本当はここで暮らして英気を養ったら、すぐにまた絵を描くだけの仕事に戻る方が彼のためなんじゃないか。
喫茶店の店長なんてやらないで、イギリスにまっすぐ戻ったほうがいいんじゃないか。
そんな風に考えてしまったりする。
ああダメだ。
またネガティブになってる。
わたしは十年間、ずっとこんなマイナス思考でいつづけていた。
どんなことでも「いつかダメになっちゃうんじゃないか」と思ってしまう。これはトラウマの一種らしいけれど、いっこうに良くなる兆しがない。
フルーツタルトの最後の一口をほおばる。
「……ごちそうさまでした」
「うん」
ぼうっとしたまま、青司くんがわたしの空いたお皿を下げる。
わたしはまた少し心配になった。
「大丈夫? 青司くん」
「あ……うん、大丈夫。ちょっとまだ動揺してるけど」
「それは……無理もないよ。まさかあのおじさんと先生が、って感じだもんね」
「うん。ねえ真白」
「なに?」
「さっきはああ言ったけど……もし生きつづけてたら、母さんは森屋さんのこと受け入れてたと思う?」
青司くんは洗い物の手を止めて、わたしに訊いた。
わたしはうーんとうなる。
「どうだろう。好きだけど……ってとこかなあ。あの頃青司くんまだ高校生だったし……当時は、難しかったと思うよ。でも、今ならもう成人しているから、子ども関係なく堂々と付き合ったりしてるかも」
「そういうものかな」
「ん? どういうこと?」
「いや、母さんは……父さんの事も忘れてなかったと思うんだ。母さんが離婚を決意したのは、父さんのためだったって聞いたことあったから……」
「そうなの?」
目の前の紅茶が入っていたカップが、またかちゃりと動いた。
それはあの桃花先生お気に入りのワイルドベリー柄のティーカップだった。
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