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女力持ち、お初
第一話 神社の力石
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享保十三年。
板橋宿では初夏の日差しが降り注いでいた。
この宿場は日本橋から北西に二里のあたりにあり、江戸四宿のひとつとして数えられている。中山道沿いには旅籠、茶屋、馬継場などが軒を連ねており、その周辺にはのどかな農村が広がっていた。
「よし、次は俺がやる!」
威勢のよい声があがる。
板橋宿の片隅にある氷川神社。その境内では、腕に自信のある若者たちが寄り集まっていた。
仲間内で一番の力持ちとされている平助は、米問屋の息子だ。着物の肩を脱いで上裸になっている。背中や二の腕はよく引き締まっており、これは幼少時から親戚の米問屋に奉公に出され、そこの荷運びを十年務めあげた成果だった。
目の前には一抱えほどもある大きな丸い石が置かれている。平助はそれを低い掛け声とともに一気に持ちあげた。
「ふんっ」
まずは両の太ももの上にそれを据える。暴力的な重さを足の筋肉でしっかり受け止め、一呼吸おき、手の位置を変える。石の芯を捕らえながら、渾身の力を振り絞って胸の上まで持ちあげる。
「ふぐっ、んぐっ……!」
周りの者たちはハラハラしながら、「頑張れ」「もう少しだ」などと声援を送っている。
平助が挑んでいるのは、三十貫(およそ百十二キログラム)と刻印された「力石」だった。
この中の誰もまだ持ち上げられていない。
ようやく胸のあたりまで石を持ってくると、平助はおびただしい汗をだらだらと流しながらまた一呼吸おいた。しかし石の重みが徐々に胸をつぶし、苦しくなってくる。急いで肩まで担ごうとしたがすでに遅く、手を離さざるをえなくなってしまった。
どずん、と石が地に落ちる。
周囲の者は残念そうに顔を見あわせた。
「何か言いたげだな、お前ら。だったら次、やってみろ!」
平助が仲間の一人に食ってかかる。
まあまあと周りはなだめるが、ふと妙な視線を感じた。参道の鳥居の向こうに誰か立っている。あれは――。
「お初……」
「お初だ」
「なんでここに」
空の背負い籠と棒手振を担いでいる。粗末な着物の娘だった。あれは町はずれに住む百姓の子、お初だ。
どうやら駒込の方まで野菜を売りに行っていたらしい。
これから家の方へ戻るのだろう。なぜここにいるのかはわからなかったが、若者たちはみなお初に目を向けていた。
お初は仲間内でもたびたび話題になっていた。
こうして近くで見ると、泥にまみれてはいるがどこか凛とした美しさがある。お初の不思議な雰囲気に平助は思わず息を飲んでいた。
「なんだお初、何の用だ?」
かろうじて声を出す。
もしかしたら失敗したところを見られていたかもしれない。仲間の前だけでなく、女の――お初の前でも醜態をさらしていたとあってはかなりばつが悪い。
しかし、お初は平助の方には目もくれず、足元の力石だけをじっと見つめていた。
「ん? 力石が気になるか。だがお前のような女には関係のないものだ」
「そうね」
なんともそっけない返事だった。
力石は神聖なもので、村では男しか触ってはいけないことになっている。お初もそれをよくわかっているはずなのだが、そんなことには一切興味がないとでもいうかのように、視線は力石に向けられたままだった。
「あたしも力試し、してみようかな」
「は?」
お初は担いでいたものをパッと地面に放り投げると、何かを探すようにあたりを見回しはじめた。
「力試し? ハハッ、馬鹿を言うな。お前にはとうていできっこない。実力がどうとかじゃない、そもそも触らせられないんだ。っておい、聞いてるか?」
平助は嫌味交じりに忠告する。しかしお初は、すでにあるものを見つけていた。
それは先ほどの平助の力石より二回りも大きい、歪な形をした岩。
「おい……まさか」
「そいつは今はやめとけ。な?」
「お初、止せ!」
周囲の男たちが口々に騒ぎ立てはじめる。
「何をする気だ?」
まさか。あれを持ち上げようというのか?
平助は信じられないとばかりに目を見開いた。
自分でも肩より上には持ち上げられなかった。それなのにあれより大きな石を選ぶなど、無謀すぎる。
だが、平助は知らなかった。ひと月前に日本橋の奉公先からこの板橋宿の実家に帰ってきた平助には、知る由もなかったのだ。
お初は決して美しいだけの娘ではない、と。
「よいしょ」
そう言って、歪な石にお初の手がかかった。平助の持ちあげた力石とは違う、一切丸みのない凸凹とした岩の塊。それを、お初は色々な方向から押したり、抱きかかえたりしてみせる。
「うん。よしっ」
何事かを確認したお初は、「ほっ」という掛け声とともにいきなりそれを持ちあげた。
毬でも転がすかのような巧みな手さばきで、石を膝の上から腹、胸、そして肩へと移動させる。そして、あっというまに頭上へと――。
「さ、差し上げだ!」
「すごい!」
頭の上に持ち上げるのは「差し上げ」という技だった。
周囲の男どもは、その偉業にわっと歓声をあげる。
(なぜだ? なぜ喜べる。悔しくないのか。お前たちはこの石を持ち上げられないくせに。女のお初に負けているというのに。なぜ……!)
平助はいまだ目の前の光景を信じられずにいた。
喜び騒ぎ立てる仲間たち。そして顔色一つ変えず、堂々と石を持ちあげているお初の姿を。
「よい、しょっ! ふう……」
きっかり五つ数えてから、お初は慎重に石を地面に置いた。音を出さないよう元の場所に戻す様は、平助との力の差をまざまざと見せつけていた。
仲間たちは動揺している平助を見かねてかそっと耳打ちしてくる。
「おい、平助。お前は知らなかっただろうが、お初は見た目に反してかなり力が強い女なんだぜ」
「あいつの父親はいままで何度も力石を持ち上げてきた強者だ」
「かつては名のある力士だったらしい。今じゃ引退してこの板橋宿にいるがな」
「だが娘の方がそうとう強いよ」
「ああ、父親以上だ」
お初は小柄で、一見するとそれほど力があるようには見えなかった。
しかし父親がそれほどの力自慢だというのなら――その素質が子に引き継がれてもおかしくはないだろう。
「だから止めたのか?」
「は?」
「さっきだよ。お初が石を持ち上げようとしたら、お前らあわてて止めただろ」
「ああ。あいつの強さを……お前は知らない方がいいと思って」
「はっ、俺がそんなことで自信を無くすと思ったか? ばかやろう、みくびるんじゃねえ!」
言ってきたやつの肩を平助は強めに小突く。
なんだと、と小突かれた方がまたやり返す。
そうこうしていると、突然お初が思い出したように手を叩いた。
「あっ、そうだった!」
すかさず懐から銭袋を取り出し、いくらかを仲間の一人に渡す。
「はいっ」
「あん? なんだぁ、この金」
「おとっつぁんのツケ。とりあえず今はこれだけね」
「は? ツケは店の方に直接持ってってくれっていつも言ってるだろ。俺に渡されても……」
「家にあるとおとっつぁんがまた使っちゃうのよ。だから、ね。あんたの方からお願い」
「はあ、ったく。わかったよ……」
金を押し付けられたのは、酒屋の息子だった。
酒屋……なるほど。お初の父親はそうとうな「飲んだくれ」のようだ。きっとろくに働けていないのだろう。だから、お初が父親の代わりに野菜を売りに行っていたのだ。なぜ力士を引退したのか、地元に戻ってきたのかはわからないが、「訳ありだな」と平助は思った。
「じゃあ」
去っていくお初の背を平助は無言で見送る。
仲間たちはというと、お初を見て奮起したのか、挑む力石をそれぞれ選びはじめていた。
平助もまた無性に悔しくなってきて、さきほどの力石にふたたび向き合う。
「よしっ、やるぞっ!」
※
「へえ、面白い娘がいるもんだな」
それを、銀杏並木の陰から見ている者がいた。
灰鼠色の着流しに、刀を差した素浪人風の男。
男はふらりと踵を返すと宿場町の方へと歩いていった。
板橋宿では初夏の日差しが降り注いでいた。
この宿場は日本橋から北西に二里のあたりにあり、江戸四宿のひとつとして数えられている。中山道沿いには旅籠、茶屋、馬継場などが軒を連ねており、その周辺にはのどかな農村が広がっていた。
「よし、次は俺がやる!」
威勢のよい声があがる。
板橋宿の片隅にある氷川神社。その境内では、腕に自信のある若者たちが寄り集まっていた。
仲間内で一番の力持ちとされている平助は、米問屋の息子だ。着物の肩を脱いで上裸になっている。背中や二の腕はよく引き締まっており、これは幼少時から親戚の米問屋に奉公に出され、そこの荷運びを十年務めあげた成果だった。
目の前には一抱えほどもある大きな丸い石が置かれている。平助はそれを低い掛け声とともに一気に持ちあげた。
「ふんっ」
まずは両の太ももの上にそれを据える。暴力的な重さを足の筋肉でしっかり受け止め、一呼吸おき、手の位置を変える。石の芯を捕らえながら、渾身の力を振り絞って胸の上まで持ちあげる。
「ふぐっ、んぐっ……!」
周りの者たちはハラハラしながら、「頑張れ」「もう少しだ」などと声援を送っている。
平助が挑んでいるのは、三十貫(およそ百十二キログラム)と刻印された「力石」だった。
この中の誰もまだ持ち上げられていない。
ようやく胸のあたりまで石を持ってくると、平助はおびただしい汗をだらだらと流しながらまた一呼吸おいた。しかし石の重みが徐々に胸をつぶし、苦しくなってくる。急いで肩まで担ごうとしたがすでに遅く、手を離さざるをえなくなってしまった。
どずん、と石が地に落ちる。
周囲の者は残念そうに顔を見あわせた。
「何か言いたげだな、お前ら。だったら次、やってみろ!」
平助が仲間の一人に食ってかかる。
まあまあと周りはなだめるが、ふと妙な視線を感じた。参道の鳥居の向こうに誰か立っている。あれは――。
「お初……」
「お初だ」
「なんでここに」
空の背負い籠と棒手振を担いでいる。粗末な着物の娘だった。あれは町はずれに住む百姓の子、お初だ。
どうやら駒込の方まで野菜を売りに行っていたらしい。
これから家の方へ戻るのだろう。なぜここにいるのかはわからなかったが、若者たちはみなお初に目を向けていた。
お初は仲間内でもたびたび話題になっていた。
こうして近くで見ると、泥にまみれてはいるがどこか凛とした美しさがある。お初の不思議な雰囲気に平助は思わず息を飲んでいた。
「なんだお初、何の用だ?」
かろうじて声を出す。
もしかしたら失敗したところを見られていたかもしれない。仲間の前だけでなく、女の――お初の前でも醜態をさらしていたとあってはかなりばつが悪い。
しかし、お初は平助の方には目もくれず、足元の力石だけをじっと見つめていた。
「ん? 力石が気になるか。だがお前のような女には関係のないものだ」
「そうね」
なんともそっけない返事だった。
力石は神聖なもので、村では男しか触ってはいけないことになっている。お初もそれをよくわかっているはずなのだが、そんなことには一切興味がないとでもいうかのように、視線は力石に向けられたままだった。
「あたしも力試し、してみようかな」
「は?」
お初は担いでいたものをパッと地面に放り投げると、何かを探すようにあたりを見回しはじめた。
「力試し? ハハッ、馬鹿を言うな。お前にはとうていできっこない。実力がどうとかじゃない、そもそも触らせられないんだ。っておい、聞いてるか?」
平助は嫌味交じりに忠告する。しかしお初は、すでにあるものを見つけていた。
それは先ほどの平助の力石より二回りも大きい、歪な形をした岩。
「おい……まさか」
「そいつは今はやめとけ。な?」
「お初、止せ!」
周囲の男たちが口々に騒ぎ立てはじめる。
「何をする気だ?」
まさか。あれを持ち上げようというのか?
平助は信じられないとばかりに目を見開いた。
自分でも肩より上には持ち上げられなかった。それなのにあれより大きな石を選ぶなど、無謀すぎる。
だが、平助は知らなかった。ひと月前に日本橋の奉公先からこの板橋宿の実家に帰ってきた平助には、知る由もなかったのだ。
お初は決して美しいだけの娘ではない、と。
「よいしょ」
そう言って、歪な石にお初の手がかかった。平助の持ちあげた力石とは違う、一切丸みのない凸凹とした岩の塊。それを、お初は色々な方向から押したり、抱きかかえたりしてみせる。
「うん。よしっ」
何事かを確認したお初は、「ほっ」という掛け声とともにいきなりそれを持ちあげた。
毬でも転がすかのような巧みな手さばきで、石を膝の上から腹、胸、そして肩へと移動させる。そして、あっというまに頭上へと――。
「さ、差し上げだ!」
「すごい!」
頭の上に持ち上げるのは「差し上げ」という技だった。
周囲の男どもは、その偉業にわっと歓声をあげる。
(なぜだ? なぜ喜べる。悔しくないのか。お前たちはこの石を持ち上げられないくせに。女のお初に負けているというのに。なぜ……!)
平助はいまだ目の前の光景を信じられずにいた。
喜び騒ぎ立てる仲間たち。そして顔色一つ変えず、堂々と石を持ちあげているお初の姿を。
「よい、しょっ! ふう……」
きっかり五つ数えてから、お初は慎重に石を地面に置いた。音を出さないよう元の場所に戻す様は、平助との力の差をまざまざと見せつけていた。
仲間たちは動揺している平助を見かねてかそっと耳打ちしてくる。
「おい、平助。お前は知らなかっただろうが、お初は見た目に反してかなり力が強い女なんだぜ」
「あいつの父親はいままで何度も力石を持ち上げてきた強者だ」
「かつては名のある力士だったらしい。今じゃ引退してこの板橋宿にいるがな」
「だが娘の方がそうとう強いよ」
「ああ、父親以上だ」
お初は小柄で、一見するとそれほど力があるようには見えなかった。
しかし父親がそれほどの力自慢だというのなら――その素質が子に引き継がれてもおかしくはないだろう。
「だから止めたのか?」
「は?」
「さっきだよ。お初が石を持ち上げようとしたら、お前らあわてて止めただろ」
「ああ。あいつの強さを……お前は知らない方がいいと思って」
「はっ、俺がそんなことで自信を無くすと思ったか? ばかやろう、みくびるんじゃねえ!」
言ってきたやつの肩を平助は強めに小突く。
なんだと、と小突かれた方がまたやり返す。
そうこうしていると、突然お初が思い出したように手を叩いた。
「あっ、そうだった!」
すかさず懐から銭袋を取り出し、いくらかを仲間の一人に渡す。
「はいっ」
「あん? なんだぁ、この金」
「おとっつぁんのツケ。とりあえず今はこれだけね」
「は? ツケは店の方に直接持ってってくれっていつも言ってるだろ。俺に渡されても……」
「家にあるとおとっつぁんがまた使っちゃうのよ。だから、ね。あんたの方からお願い」
「はあ、ったく。わかったよ……」
金を押し付けられたのは、酒屋の息子だった。
酒屋……なるほど。お初の父親はそうとうな「飲んだくれ」のようだ。きっとろくに働けていないのだろう。だから、お初が父親の代わりに野菜を売りに行っていたのだ。なぜ力士を引退したのか、地元に戻ってきたのかはわからないが、「訳ありだな」と平助は思った。
「じゃあ」
去っていくお初の背を平助は無言で見送る。
仲間たちはというと、お初を見て奮起したのか、挑む力石をそれぞれ選びはじめていた。
平助もまた無性に悔しくなってきて、さきほどの力石にふたたび向き合う。
「よしっ、やるぞっ!」
※
「へえ、面白い娘がいるもんだな」
それを、銀杏並木の陰から見ている者がいた。
灰鼠色の着流しに、刀を差した素浪人風の男。
男はふらりと踵を返すと宿場町の方へと歩いていった。
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