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女力持ち、お初
第二話 大根畑と猪
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「ああ、やっちゃった」
神社から家に戻るまでのあぜ道を、お初はどんよりした気持ちで歩いていた。
最初は遠巻きに様子を見るだけだった。なにを騒いでいるのだろうと。しかし、あれが「力石を持ち上げる力試し」だと分かった途端、いつのまにか近くまで寄っていた。
あとは斯くの如しである。
「ああ、もう。あたしの良くない癖だわ。ああいう力試しができそうな場面があるとどうしても自分もやってみたくなっちゃうの。もういい年なんだから止めないと……」
お初は今年で満十七歳となっていた。
そろそろ嫁に行かねばならない年頃である。しかし、今はとても嫁ぐ気にはなれない。
今、実家は火の車だった。
父親の弥吉が毎日のように酒を飲み、その酒代で借金がどんどんと膨らんでいた。家には病弱な母・すえと、二つ年下の弟の太郎しかいない。
家は代々続く農家だった。
幸い土地だけはあるので、毎日畑を耕して、野菜を売って暮らしている。
今日も駒込のやっちゃば(※青果市場)まで行商に行ってきた。
山のような大根を全部売りさばけたまではいいのだが、それもすぐ酒代の返納に消えてしまった。
もっとお金を稼がないと。もっともっと野菜を作って、もっともっと一度に運べるようにならないと。お初は握りこぶしをぎゅっと握ると、家路を急いだ。
※
しばらく行くと、我が家と畑が見えてきた。
弟の太郎が収穫の終わった畑を牛を使って耕している。お初は、手を振りながら大声で弟を呼んだ。
「ただいま、太郎!」
「あっ、おかえり。姉ちゃん!」
「おっかさんは?」
「今は家で洗濯してる」
「そう」
「その様子だと今日も全部大根売れたんだね。良かった!」
太郎が牛をその場に置いて近づいてくるが、お初はぎこちない笑みを浮かべた。そのそぶりで、すぐに太郎は察したようだ。
「ああ、おとっつぁんの返済でほとんどなくなっちまったのか……」
「うん。残りはこれだけ」
懐から出した銭袋を開けてみせると、弟はあからさまにしょんぼりとした。
「ごめんね。太郎も頑張ってくれているのにね。それで、おとっつぁんは? また酒屋?」
「うん。今日も宿場のどっかにいると思う」
「はあ。本当におとっつぁんには困ったものだわ」
二人して大きなため息を吐く。
農作業を主にやっているのはこの姉弟だけだった。収入がないと生活が立ち行かない。頑張っても頑張っても、終わりがない返済に、母はその心労で体を壊した。お初はさらに気持ちが暗くなる。
「あ、そうだ。困ったって言えばさ、姉ちゃん、ちょっとあれ見てよ」
「え、何?」
太郎が畑の一角を指し示す。
そこは何者かに踏み荒らされ、食い荒らされた跡があった。
「まさかこれ……」
「そう、猪。姉ちゃんが出かけた後にやってきたんだ。それでこの有り様だよ」
「えっ、太郎あんた大丈夫だった?」
「うん。隠れて見てたから平気」
「ああ、まったく憎らしい。前も大根食べられて散々な目にあったのにさ。今度見つけたら退治しないと!」
「無理だよ。あいつ、牛と同じくらいデカいんだ。近所でも人が襲われたっていうし、関わらない方がいいって」
「ああ、おとっつぁんだけで手いっぱいなのに、猪まで!」
お初は耐えられない、とばかりに空に向かって大声をあげた。
「姉ちゃんは強いけどさ、怪我するかもしれないんだから無理しないで……」
「無理じゃないわ。あたしにかかればすぐに――って、どうしたの? 太郎」
見ると弟は畑の方に視線を向けて顔面蒼白になっている。
「ね、姉ちゃん!」
「?」
「あれ見て!」
噂をすればなんとやら、だった。
太郎が右手で指し示した先には、丸々太った大きな猪がいた。お初たちの畑に侵入した猪は、植わっている大根に近づいている。
「出たわね、害獣」
「ね、姉ちゃん。逃げよう……」
「あんたは牛を連れて避難してて。ここはあたしが」
「や、やめた方がいいって。姉ちゃん、危ないよ!」
「いいから、あんたは早く行って!」
まだ何事か言いたそうな太郎だったが、しぶしぶ耕運用の牛を連れて家の方へと避難していった。
お初は、その場で四股を踏み猪に向かい合う。
「さあて、お立合い!」
大根にいまにもかぶりつきそうになっている猪に向かって、お初は走り出す。
途中、畑に転がっていた鋤(すき)を拾う。お初の足音に気付いた猪がこちらを向く。お初はすばやく近づくと、勢いよくその胴体に右足の踵をひねり込んだ。
「ブピィッ!」
悲鳴をあげながら、どう、と猪が真横に倒れたが、下はふかふかの土だったために大した痛めつけにはならなかった。すぐに起き上がって、お初に向かってくる。
「よし来い、牡丹鍋にしてやる!」
突進してくる猪に、お初は鋤の先を向ける。目の前に獣の顔が来た瞬間、土に接するように先端を猪の腹の下にもぐりこませ、身を低くする。
「どりゃああああああーっ!!!」
そして自らの腕を支点にして、まるでテコのように鋤を持ちあげた。渾身の力を振り絞って、猪の腹の肉を突き破る勢いで、空にぶん投げる。
七尺の高さまで飛んだだろうか。
お初の頭上を通り越した猪は、背中から地面に落ち、じたばたと地面の上をのた打ちまわった。お初の手元ではべきりと真っ二つに折れた鋤の残骸が握られていた。またぞろ起き上がりそうな猪に、お初はすぐに引導を渡す。折れて鋭利になった鋤の先をその喉元に突き刺したのだ。
断末魔が大根畑に響き渡った。
「はあ、はあ……」
返り血のついた顔で、息荒く、足元の猪を見下ろす。
「これなら当分、肉に困らないわね」
お初は身震いしながら笑みを浮かべると、解体するための刃物を家へ取りにいった。
神社から家に戻るまでのあぜ道を、お初はどんよりした気持ちで歩いていた。
最初は遠巻きに様子を見るだけだった。なにを騒いでいるのだろうと。しかし、あれが「力石を持ち上げる力試し」だと分かった途端、いつのまにか近くまで寄っていた。
あとは斯くの如しである。
「ああ、もう。あたしの良くない癖だわ。ああいう力試しができそうな場面があるとどうしても自分もやってみたくなっちゃうの。もういい年なんだから止めないと……」
お初は今年で満十七歳となっていた。
そろそろ嫁に行かねばならない年頃である。しかし、今はとても嫁ぐ気にはなれない。
今、実家は火の車だった。
父親の弥吉が毎日のように酒を飲み、その酒代で借金がどんどんと膨らんでいた。家には病弱な母・すえと、二つ年下の弟の太郎しかいない。
家は代々続く農家だった。
幸い土地だけはあるので、毎日畑を耕して、野菜を売って暮らしている。
今日も駒込のやっちゃば(※青果市場)まで行商に行ってきた。
山のような大根を全部売りさばけたまではいいのだが、それもすぐ酒代の返納に消えてしまった。
もっとお金を稼がないと。もっともっと野菜を作って、もっともっと一度に運べるようにならないと。お初は握りこぶしをぎゅっと握ると、家路を急いだ。
※
しばらく行くと、我が家と畑が見えてきた。
弟の太郎が収穫の終わった畑を牛を使って耕している。お初は、手を振りながら大声で弟を呼んだ。
「ただいま、太郎!」
「あっ、おかえり。姉ちゃん!」
「おっかさんは?」
「今は家で洗濯してる」
「そう」
「その様子だと今日も全部大根売れたんだね。良かった!」
太郎が牛をその場に置いて近づいてくるが、お初はぎこちない笑みを浮かべた。そのそぶりで、すぐに太郎は察したようだ。
「ああ、おとっつぁんの返済でほとんどなくなっちまったのか……」
「うん。残りはこれだけ」
懐から出した銭袋を開けてみせると、弟はあからさまにしょんぼりとした。
「ごめんね。太郎も頑張ってくれているのにね。それで、おとっつぁんは? また酒屋?」
「うん。今日も宿場のどっかにいると思う」
「はあ。本当におとっつぁんには困ったものだわ」
二人して大きなため息を吐く。
農作業を主にやっているのはこの姉弟だけだった。収入がないと生活が立ち行かない。頑張っても頑張っても、終わりがない返済に、母はその心労で体を壊した。お初はさらに気持ちが暗くなる。
「あ、そうだ。困ったって言えばさ、姉ちゃん、ちょっとあれ見てよ」
「え、何?」
太郎が畑の一角を指し示す。
そこは何者かに踏み荒らされ、食い荒らされた跡があった。
「まさかこれ……」
「そう、猪。姉ちゃんが出かけた後にやってきたんだ。それでこの有り様だよ」
「えっ、太郎あんた大丈夫だった?」
「うん。隠れて見てたから平気」
「ああ、まったく憎らしい。前も大根食べられて散々な目にあったのにさ。今度見つけたら退治しないと!」
「無理だよ。あいつ、牛と同じくらいデカいんだ。近所でも人が襲われたっていうし、関わらない方がいいって」
「ああ、おとっつぁんだけで手いっぱいなのに、猪まで!」
お初は耐えられない、とばかりに空に向かって大声をあげた。
「姉ちゃんは強いけどさ、怪我するかもしれないんだから無理しないで……」
「無理じゃないわ。あたしにかかればすぐに――って、どうしたの? 太郎」
見ると弟は畑の方に視線を向けて顔面蒼白になっている。
「ね、姉ちゃん!」
「?」
「あれ見て!」
噂をすればなんとやら、だった。
太郎が右手で指し示した先には、丸々太った大きな猪がいた。お初たちの畑に侵入した猪は、植わっている大根に近づいている。
「出たわね、害獣」
「ね、姉ちゃん。逃げよう……」
「あんたは牛を連れて避難してて。ここはあたしが」
「や、やめた方がいいって。姉ちゃん、危ないよ!」
「いいから、あんたは早く行って!」
まだ何事か言いたそうな太郎だったが、しぶしぶ耕運用の牛を連れて家の方へと避難していった。
お初は、その場で四股を踏み猪に向かい合う。
「さあて、お立合い!」
大根にいまにもかぶりつきそうになっている猪に向かって、お初は走り出す。
途中、畑に転がっていた鋤(すき)を拾う。お初の足音に気付いた猪がこちらを向く。お初はすばやく近づくと、勢いよくその胴体に右足の踵をひねり込んだ。
「ブピィッ!」
悲鳴をあげながら、どう、と猪が真横に倒れたが、下はふかふかの土だったために大した痛めつけにはならなかった。すぐに起き上がって、お初に向かってくる。
「よし来い、牡丹鍋にしてやる!」
突進してくる猪に、お初は鋤の先を向ける。目の前に獣の顔が来た瞬間、土に接するように先端を猪の腹の下にもぐりこませ、身を低くする。
「どりゃああああああーっ!!!」
そして自らの腕を支点にして、まるでテコのように鋤を持ちあげた。渾身の力を振り絞って、猪の腹の肉を突き破る勢いで、空にぶん投げる。
七尺の高さまで飛んだだろうか。
お初の頭上を通り越した猪は、背中から地面に落ち、じたばたと地面の上をのた打ちまわった。お初の手元ではべきりと真っ二つに折れた鋤の残骸が握られていた。またぞろ起き上がりそうな猪に、お初はすぐに引導を渡す。折れて鋭利になった鋤の先をその喉元に突き刺したのだ。
断末魔が大根畑に響き渡った。
「はあ、はあ……」
返り血のついた顔で、息荒く、足元の猪を見下ろす。
「これなら当分、肉に困らないわね」
お初は身震いしながら笑みを浮かべると、解体するための刃物を家へ取りにいった。
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