愛など要らない金さえあれば/愛が無いならせめて体だけでも/と最初は思っていた。

たいよう一花

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第22話 破れ、血に染まり、ひび割れる/5

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「レネ、俺に塗らせてくれ。頼む」

 グレイの懇願の声を聞き、レネは体をこわばらせた。羞恥心からグレイの顔を見ることすらできない。全身に力が入らず、今にも床にへたり込んでしまいそうだ。薬を掬い取る手は震えが止まらず、体をねじるのも苦労する。その上、打たれた背中や尻には手が届きづらい。こんな状態では、誤って傷以外の場所にも指先が触れてしまうだろう。この貴重な軟膏を無駄に使うのを避けたいなら、グレイに塗ってもらった方がいい。
 レネはそう考え、迷った末にグレイに薬を手渡した。

「薄く塗るだけで効果が出るので、無駄にならないよう塗り込んでくれ」

「ああ、わかった。任せてくれ」

 グレイは受け入れられたことにホッとして、レネのそばにしゃがみ込んだ。そして、息を呑む。

(ああ……レネ。何てことだ。……ひどい……)

 腫れあがった痛々しい傷口を間近に見て、グレイの目に涙が盛り上がる。
 グレイは薬を掬い取ると、そっと優しく、丁寧に、裂傷に塗り込んだ。その途端、スッと、傷が癒えてゆく。

「! こ、これは……」

「驚くだろう? チェレステという天才アイテム生成士がくれた、超特級薬だ」

「チェレステ……。こんな薬を作れる天才が、この世にはいるのか……」

「生成が難しすぎるため、一般には出回らない薬だ。……さあ、グレイ、すべての傷に塗り込んでくれ。貴重な薬だ、傷の上にだけ使ってくれよ」

「ああ、わかった」

 レネはグレイの指が自分の肌を這う感触に身を震わせながら、先に体を清めておいて良かったと、つくづく思った。洗う前だったなら、グレイに触れさせることなど絶対にできなかった。それに湯と石鹸で血を洗い流した今なら、薬を塗るべき場所も容易に判別がつくだろう。

「……レネ、一通り塗り終わった。他に痛む箇所はあるか。腕や、脚は……」

 全身をくまなく確認し始めたグレイを制して、レネは口を開いた。

「大丈夫です。ずいぶん楽になりました。もう激しい痛みはどこにもない。少し痛みの余韻を引きずっているだけ。それもあと数分で収まるでしょう。薬が中までしみこめば、痛みは完全に消えます」

 レネの口調はすっかり元の調子に戻っていた。
 鎮痛剤の副作用である動悸や眩暈めまい、それに疲労や失血による全身の倦怠感は相変わらずだったが、痛みがほぼ取れたことで落ち着きが戻ってくる。

「……心配かけましたね、グレイ。大丈夫、もうこんなことは二度とありませんから、安心してください。さあ、ベッドに戻って。朝まであまり時間がありませんが、明日の仕事に備えて眠ってください」

「……やめてくれ」

「……え?」

「俺を気遣うのはやめてくれ。おまえは大変な目に遭ったのだ。頼むから、俺に甘えてくれ……。俺たちは、双夫じゃないか」

 抱き寄せるために伸ばされてきたグレイの手を、レネははたき落とした。
 これ以上、触れてほしくなかったのだ。洗い清めたとはいえ、あの老人のいやらしいねっとりとした穢れた視線が、まだ体中にまとわりついている。触れさせれば、愛しい人の手を汚濁おだく残滓ざんしで汚しそうで、怖かった。
 しかしそれと同時にレネの胸中には、今すぐグレイに甘えてこの身を委ねたい、という気持ちも渦巻いている。だがそれは次の瞬間、恨み言に姿を変えた。

(……どうせ、俺を愛してなんかいないくせに……。グレイはただ、可哀相で惨めな男に、同情しているだけ……)

 乾いた自尊心が、胸中に虚しく広がってゆく。
 レネの態度は再び、硬化した。自分の心を守る最後の砦を、強がりと嘘で固めるために。

「双夫? ハハッ、笑わせる。これはかりそめの関係だ。俺に何か意見できる立場だとでも、思ってるのか? 勘違いするのはよせ。これ以上俺に干渉するなら、今すぐ契約を取りやめる。金を見せつければ、あなたの代わりはいくらでも見つかるのだから」

 グレイの表情が強張り、その拳がギュッと握りしめられた。

「レネ、中途解約は、申し出た方が損害を被る仕組みになっているはずだ。初めに交わした契約では……」

 まだ言葉を続けているグレイを遮って、レネが乱暴に言い放つ。

「そんなことは百も承知だ。前払いした契約金は、一切返還しなくてもいい。すべてあなたのものだ。その代わり今すぐ関係を解消する。その方がいいならそう言ってくれ。俺はすぐあなたの代わりを手配する」

 レネは自分の声が、どこか遠くから響いてくるような気がした。いったい、誰が、こんな己の望みとは真逆の発言しているのだろうと、不思議なぐらいだった。
 既にレネの疲労は極限に達していて、それにより、制御できない感情があふれ出す。ハッと気付いたときには遅く、レネは泣き出していた。

「レネ……」

 グレイの顔には戸惑いが浮かび、その声には優しさがにじみ出ていた。
 グレイが腕を広げて抱擁しようとするのを見て、レネは動揺して泣き喚いた。

「来るな! 今夜はもうこれでお開きだ。俺を休ませてくれ、もう、もう……」

 グレイから逃げ惑い、部屋の隅にしゃがみこんだレネは、掠れた涙声を絞り出した。

「頼む……もう……俺を苦しめないでくれ……」

 グレイは言葉もなく立ち尽くし、レネの姿を悲痛な表情で眺めていた。 何か言いかけては、口を閉じ、近づこうと腕を伸ばしては、その手を引っ込める。何度かそれを繰り返したのち、グレイは戸口に向かった。
 そして扉付近で振り返り、静かな声で告げる。

「俺は……契約をやめたくない。……できれば、一年を超えて継続したい。二年目以降は無報酬で、この結婚生活を続けたいと思っている。この先もおまえと、一緒にいたいからだ。……考えておいてくれ」

 そう言い残して、彼は部屋を出て行った。
 レネはグレイの言葉の意味を測りかね、しばらく泣きながらうずくまっていた。
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