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第1話
1-1、
しおりを挟むうだるような暑さの中、僕は流れる汗を拭くために首のタオルに手をかけた。
汗を拭くためにメガネをはずそうとして、ふと、タオルの端にある小さなタグに目が留まる。
『壱岐斗昇』
いき・とうしょう──パッと見で、この名前を正確に読める者はまず居ないだろう。
子供の頃から愛用のこれは、小学校の修学旅行で使ったもの。
全ての持ち物に名前を書くように。そう言われて、真面目な母はフルネームで書いたのである。
あれから年月は流れ、タオルはすっかりボロくなり……まるで煎餅のようにペラペラで固い。タグももうボロボロだというのに、文字も滲んでいるというのに、それでもなお名前は消えることはない。
薄っぺらくて水分を何も吸い込まないようなそれは、それでも一応僕の汗を吸い取ってくれる。だから手放せない、大切な相棒。
手に持ったコンビニのアイスコーヒーをズズッと最後の一口まで飲んで、目の前のビルを見上げた。
灰色のコンクリートビル。5階建てのそれは古く、ところどころにヒビが見て取れた。築何年だと気になってしまうほどにボロい。
もう使われていない廃屋なのではと思われがちだが、ビル入口には、ちゃんと全ての階に居住者がいることを告げている。
1階にはコインランドリー。
2階にはどこぞの商社。
3階……は飛ばして、4階には怪しげな金融会社。
5階だけは居住スペースとなっており、ビルの所有者が住んでいる。
随分と古びてはいるが建築法としてはかなり頑丈に作られているらしく、ちょっとやそっとの災害にはビクともしそうにない。
場所も駅から5分……これは今、僕が駅から歩いた時間でもある……という好立地に加え、商業施設もスーパーもある。学校もあるし病院も多い、生活するだけなら車なぞ必要ないくらいに、周囲には物が溢れていた。
そんなわけで、こんなボロいビルもそれなりの賃料が発生している。
そこで先ほどすっ飛ばした3階へと戻る。
今また汗を流しながら階段を上ってきた僕の目の前に、入り口がそびえ立っている。
『金ヶ原探偵事務所』
明らかに胡散臭い。
4階の金融会社よりもっと怪しいその探偵事務所の扉に手をかけた僕は、迷わず扉を開いた。
「戻りましたー。はーすずし~……あだっ!!」
「遅いっ!!!!」
冷房という、世界最高の発明機器によって冷やされた部屋に足を一歩踏み入れた瞬間、僕の頭に響いた衝撃は分厚い本の角。あまりの痛さに額を押さえてうずくまる。
しかし本を投げた当人は、僕を心配することなく怒りを露わに「いつまでかかってんの!?」と叫ぶのであった。
「な、菜桜さん、これはパワハラだと思うんですが……」
「なにそれ美味しいの?」
いや嘘でしょ、絶対パワハラってワードの意味、知ってますよね?
そう言ったところでとぼけるのが分かっているので、涙目で額をさすりながら立ち上がる。この程度でへこたれるようでは、彼女の助手は務まらない。
そもそも僕がそれを望んでいるのだから、辞めるなんて選択肢はないのだけれど。
探偵事務所につきもの(?)な大きなデスクとセットな椅子から立ち上がり、うずたかく積まれた書類……はないけれど、何かの書類を手にする菜桜さんは今日も綺麗だ。
腰に届きそうな長い黒髪は今日も乱れることなく、ストンと素直に重力に従っている。日焼けを知らぬ白い肌に整った顔立ち、綺麗なガラス玉のような瞳は、光加減では青みがかって見えるのだから不思議。
この人に一目惚れしてから、僕はずっとこの事務所で働いている。
「それで、どうだったの?」
「え?ああはいはい、ちゃんと残りの報酬は受け取ってきましたよ。依頼人、涙流して感謝してました」
そう言って、今どき珍しい手渡しでの報酬……それもなかなかに高額のそれを、僕はカバンから取り出した。
札束で分厚くなった封筒を渡せば、中身を確認することなく金庫にしまう菜桜さん。
「銀行に預けるとか投資で増やすとか考えないんですか?」
「めんどくさい」
まあそうだろうね。あなたがそういうことに興味をもつようなら、僕は今すぐにでも助手を辞める。
そうでないから、今日も僕はあなたの前に立つわけだ。
「額が赤くなってるわよ」
「いやこれはあなたが……」
「氷を持ってくるから冷やしなさい。待ってて」
あなたがやったんでしょうが。
その言葉を飲み込んで、僕は菜桜さんからの最高のサービスを心高らかに待ちわびるわけだ。
だが運命は、僕らの甘い時間を許さないつもりらしい。
ガチャリと音がして、事務所の扉が開いた。
「あのう……こちら金ヶ原探偵事務所で間違いないですか?」
ビルの入口にも、今開けた扉にも書いてあるでしょうが。
なんて、そんな野暮な質問はしない。
「はいそうです。いらっしゃいませ、ご依頼ですか?」
「え、ええ……」
こういう所に来る人で、慣れてる人なんてまず滅多といない。
ショートボブの彼女もまた、居心地悪そうにキョロキョロと室内を見回している。いや、物珍し気に、か?
でも不安げな色が見え隠れするその瞳から、これはまっとうな依頼だなと思ってソファへと促した。
一人がけのソファに座る女性の前に、3人掛けのソファ。そこに菜桜さんがどっかと座る。
「依頼の内容は?」
前置きもへったくれもない。女性の戸惑いが伝わったのか、一瞬間を置いてから、菜桜さんは肩から滑り落ちた長い黒髪を払いのけて、言った。
「私がこの事務所の責任者、金ケ原菜桜です。それで、依頼内容は?」
きっと女性の予想は、僕が探偵、もしくは奥からオジサン探偵が出てくるものだと思っていたのだろう。少しばかり大きくなった瞳には驚きの色が見え隠れ。
でもそれもすぐに消えて、また不安に染まる。
それを認めてから、コーヒーでも入れようとキッチンへ向かう僕の耳に、女性の声が聞こえた。
「私、高野美咲と言います。えっと、お願いしたいのは、犯人捜しなんです」
「犯人?一体なんの?」
「……弟を殺した犯人を」
落としたスプーンの音が、室内に大きく響いた。
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