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老夫婦
8、
しおりを挟むやめてと少女が叫ぶ。大人にはまだ届かない、かと言って幼子というには成長しすぎた少女が。
最初は泣き叫んでいた。
次第に苦痛をこらえて声を出さずに泣くようになった。
しまいには何の感情も出さなくなった。
ただ淡々と、現状を受け入れる。
躾だと棒で殴った。主人が長期不在の時にそれを行った。そうでない時も、頻繁にぶった。
少女は耐え切れずに声を上げることはあれど、泣く事はなかった。
必死でこらえようと唇を噛みしめ、眉をしかめ目を細める様が美しかった。
ゾクゾクした
最初は主人の行動が理解できなかった。
わざわざこんな美少女を大金で迎えて、なんと酔狂なと思った。最愛の奥方を亡くして、おかしくなってしまわれたのかと思った。
だがそうではなかった。同じ行為をして初めて主人を理解する。
神の化身のごとき美しさの少女が、苦痛に顔をしかめる様は。耐える様は。言い知れぬ快感をこの身に与えるのだ。
躾と称してうそぶいて。白い肌をぶつ。赤く染まるのを見て──口元がにやけそうになるのを必死で抑える。
「私にもやらせてくださいな」
見ていた老婦人が声をかけてきた。苛立ちを感じる。今、自分は至福の時間を過ごしているのだ。なぜお前如きに邪魔されねばならないのだ。邪魔をするな邪魔をするな、俺の邪魔を──
けれど、意に反して俺は棒を老婦人に渡す。譲歩でも妥協でもない。ただ、主人に告げ口されては困ると思ったのだ。
自分の知らぬ箇所に痣があるのを見て、主人も分かっているのかもしれない。だが表立って叱責されることは無かった。いつも通りに主人は自分の主人だった。
だが他の者が告げ口をしてしまったら。
恐らく当主として、見逃すわけにはいかないだろう。それは当主としての威厳に関わるから。
だからメイドも老婦人も俺も、他の使用人も。互いに互いの行動を主人に伝える事はしない。
それは誰も口にしない、暗黙の決まり事。互いに今の地位を失いたくないがために。あの主の下で働く幸せを失いたくないが為に。
誰かが口にすれば、一蓮托生。滅びは共にくる。
だから言わない。拒否しない。責め立てない。
そうして我々は、今日も少女の苦痛に歪んだ顔に胸をときめかせる。涙を浮かべた瞳に睨まれて、心の中で笑う。
ゾクゾクした
* * *
ピチャンと音がした。頬に水が落ちてくる音だと気付いた時には、俺の意識は覚醒していた。
目を開くも、視界は暗くて自分がどこにいるのか分からないまま。ただ分かるのは、自分は今床に寝転がった状態だということ。頬が触れる冷たい床は、石造りのそれか。
反対の頬に再び水が垂れてくるのが分かって顔をしかめた。気持ち悪い。直ぐにでもぬぐって拭きたいと思うのに、現状がそれを許さない。
今、俺は拘束されていた。両手を後ろ手に縛られ、両足もまた一緒くたに縛られている。起き上がる事も出来ず、床に寝そべったまま身動きが取れずにいる。不愉快この上ない。
「くそ、一体なんなんだ……」
「あら、起きましたか」
自分が悪態つくのと、別の誰かが声を上げたのは同時。
ビクリと体を震わせて、俺は視線を彷徨わせた。
壁にほのかに灯される明かり。それを頼りに目を動かして見れば──背後に誰かの気配を感じた。
いや、誰か、ではない。
「静子、か……?」
「はい。よく私だとお分かりになりましたね」
間違いなくそれは妻の静子だった。覚えるつもりはなくとも、数十年の夫婦関係は、声の主が誰かを自分に教えてきた。
「私と気付いてくださって良かったですわ。ここで『誰だ?』なんて言われようものなら、直ぐにでも殺してしまったかもしれませんもの」
物騒な事をサラッと言われて、背筋に冷たい物が流れる。頬を流れるのは汗か、またも垂れて来た水滴か。
「静子、お前今までどこに居たんだ!?みな心配して探してたんだぞ!?」
「まあ、皆さんが……それは申し訳なかったですわ。で?」
「な、なんだ?」
「あなたは、私を探してくださったのですか?」
「当たり前だろ!?」
本当は一度として自身で探す事はしなかった。スタッフと、任意の客が探してる時も、自分はずっと部屋にこもって寝るかブツブツ文句を言って過ごしていただけだ。
だがその事を言う気にはならなかった。いつもなら「居なくても困らんお前なぞ、探すか!」と言ってただろうが、なぜかそれを言う気にはなれなかった。
言ってはいけないような気がした。
「……そうですか」
妙な間の後、静子の声がした。その後もまた続く沈黙。
俺はイライラした。言い知れぬ不快感に、イライラが止まらない。
「お前な、俺を心配させた上に、これは一体どういうつもりだ?早く縄をほどけ!!」
「嫌ですよ。ほどいたら、あなたは私を殴るでしょう?」
「当たり前だ!夫である俺は、妻であるお前を躾ける義務があるからな!」
不出来な妻を殴る。そんなものは当然の事だ。そうでなければお前は理解しないだろう?反省しないだろう?
そうして俺はいつもお前を──
「躾ける義務、ねえ」
いつもなら、怯えた顔で妻は俺の言葉に従うはずだった。俺の怒りに反論することなく、躾と称した暴力を甘んじて受け入れていた。怯えた目で妻が俺を見る。それに快感を感じてることを隠しながら、俺は何度も妻をぶつ。
それの何が悪い。それで俺達はこれまでうまくやってきたのだ。
仕事の不満を、苛立ちを、そうして家で発散することで、俺は定年まで勤めあげることができた。そのお陰で家族は生活できた。妻は専業主婦でいられた。
何の問題があろう。なんら問題など無いはずだ。
そのはずなのに、今日の妻は違った。
俺の言葉を鼻で笑うように繰り返して、その後に沈黙が横たわる。未だ俺の手足が解放される事は無い。
「おい静子、お前いい加減に──」
「いい加減にするのはあなたのほうですよ。まったく、いい年した爺さんが何を偉そうに」
耳を疑った。今の言葉は本当に妻が放った言葉か?
「静子?」
イライラした。
「はい、あなた」
イライラが止まらない。
「お前、何を──」
考えてる?
問いは最後まで放たれない。代わりに俺に与えられたのは、答えではなく……
「ぐあ!?」
鈍い音と共に、背中に感じたそれは、間違いなく痛みというものだった。
苦痛が体を支配し、悲鳴が漏れる。
「な、何を……」
必死で目を後ろにやれば、そこに妻は立っていた。だがその目は、顔は、これまでのような怯えた表情の妻とは、似ても似つかない。不敵な笑みを浮かべ、ポンポンと木の棒を手で叩く。
妻の顔をした、別人が立っていた。
「静子……?」
「私ね」
ポツリと静子は語る。
妻の姿をしたそれは語る。
その時俺は理解した。イライラの正体を、理解せざるを得なかった。
イライラは──本当は、恐怖だった。
10
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