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館の見る夢
館の見る夢(8)
しおりを挟む決行は当主が不在する時。一週間の遠出で留守をする時になった。
緊張の面持ちで部屋にいたら、当主息子がやってきた。
「父様は出かけたよ。今は夜で人目につきにくい。使用人達も今はここから遠ざけてある。外に移動用の車を用意した。僕が出かける為にと用意した物だ、さあ行こう」
手を引かれ、外に出た瞬間足が震えた。外に出るのは一体どれくらいぶりなのだろう。この館に連れられてから、一体どれだけの時間が過ぎた?気の遠くなるような時間を過ごした気がするのに、まるで昨日来たかのような錯覚を覚える。
それくらい外の世界に変化は無かった。空気は澄み切って頬を心地よく撫でる。三日月の美しさは、弟と一緒に見たそれとなんら変わらない。私の世界はすっかり変わってしまったのに、大きな世界は何も変わってない。それが嬉しくもあり悲しくもあった。きっと変わってないと思えるのは今だけだろうから。元の世界に戻ることが出来ないと、帰っても家に誰もいない現実を見れば、変わってしまった現実を否応なしに実感するだろうから。
それでも私は走った。いつ使用人達に見つかるかも分からない恐怖が、私の足を速めた。走る事を忘れていた足はうまく動いてくれなくて、もつれそうになる。そんな私の手を息子は握って引いてくれた。おかげで倒れることはない。
「この先の森の中に隠してある。急いで」
「うん」
すっかり落ちた体力のせいか、息が苦しい。それでも足を止めることはない。森が眼前に迫ってくる。館から誰か人が追いかけてくる気配もない。
あと少しもう少し。もう少しで森に手が届きそうな距離。
けれど現実は残酷に道を阻む。
「どこに行くつもりだ?」
森の入り口に、誰かが立っていた。誰かは私達に問うた。その声は──聞き覚えがあった。嫌でも忘れられない声だった。
「父……様……」
私の手を握る少年が、呆然と、信じられないものを見るかのような目を向けて呟く。
足を止め、私もまた声の方を見た。
直後、私は目を見開く。
そこにいるはずの無い人が居る。桐生家当主、その人は確か不在のはずなのに。
だが驚きはそこではなかった。確かに当主の存在も私を驚かせたが、目を見開かせたのはそれではない。彼ではない。
「どうして──」
知らずその名を呼んだ。駆け寄りそうになるのを、少年が手を放さないことで阻まれる。
「どうして!」
「姉様!」
「どうしているの!?」
どうしているのか、亡くなったはずの彼がいるのか。
どうして──弟が、そこにいるのか。
ジタバタ暴れるも、桐生家当主に体を掴まれ動く事叶わず。
必死に私の方へと手を伸ばす存在。
「死んだと言ったじゃない!」
私の言葉に当主がニヤリと笑う。
「お前の親は確かに死んだぞ」
「家は滅んだと……全員死亡だと言ったのに!」
「そんなことを言ったかな?」
不敵な笑みをこぼす相手をギリと睨む。そんなものは歯牙にもかけぬと鼻で笑い、当主は弟の首に手をかけた。
「何を……」
「カマをかけたつもりだったが、やはりな。隙あらば逃げようと思っていたか。だが予想外だったぞ、お前が手を貸すことは」
そう言って、当主は少年を見た。自身の息子を見据えた。私の手を握る彼の手が、震える。
妻が亡くなってから、彼は息子を見ようとしなかった。存在を忘れたかのように、話す事も見る事もなくなっていた。だけど今、彼は息子を見ている。このような場面でしか見ないとは、なんと皮肉なことか。
「お父様、僕は──」
「まあいい。予測はしていたからな。その為の切り札は私の手の中にある。里奈」
息子への話はそれでおしまいとでも言うかのように、当主は私を見る。ギュッと私の手を握る手に力がこもった。
ビクリと私の体が震える。
三日月の下に佇む当主が身にまとう空気は、とても冷たい。
「戻りなさい」
冷たい声で当主は言う。
「弟を死なせたくはないだろう?今すぐ館に戻りなさい」
ガタガタと体が震えた。
おそらく今、館に戻れば恐ろしい折檻が待っていることだろう。きっと今度こそ、命の危険を感じるほどの。
それを確信させることを、当主は直後口にする。
「自室に戻って服を脱ぎ、寝台で待って居ろ」
「え──」
「もうお前も立派な大人だ。そろそろ頃合いだろう」
血の気が引いた。それが何を意味するのか、その言葉が何を意味してるのか、分からぬほど私は子供ではない。いっそ分からないくらいの子供であったならと願っても、もう遅い。私は理解してしまった。
それは通常の折檻ではない。恐ろしい苦しい気持ちが悪いそれ。
知らず私は首を振っていた。嫌だと駄々をこねる子供のように。
そんな私をうすら気味悪い笑みを浮かべた当主が見る。
「失いたくないだろう?」
「……」
「弟を失いたくなくば、言う事を聞きなさい。なに、最初は痛くともあとは快楽のみ。きっとお前も溺れることになる」
「……」
「戻りなさい、里奈」
有無を言わさぬ強い力を持った言葉。嫌だと叫びたい逃げ出したい。
けれど震える足は進む事を許さなかった。
少年の手を振りほどき、後ろに戻ろうと動く。
怯える弟に目を一度向けて。
私は無言で館の方を向いた。
その時だった。
「どこまでも──」
聞こえたのは、横から。手をほどいた少年から。
「どこまでもあなたは──」
その後の言葉は聞こえなかった。少年が走り出したから。
桐生家当主の息子は、父親に向かって走り出した。
驚いて振り返った直後。
うめき声と共に、当主がその場にうずくまり、やがて倒れるのが見えた。
月明かりの下で。
少年の手にはまるで三日月のように、細いナイフが光を放っていた。
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