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広谷一家
9、
しおりを挟む「違う……」
放心状態の広谷さんは、そう呟いて私を見る。その目が、顔がどんどん血の気を失っていき、歪み始める。頭を抱えて、彼女は「違う!私じゃないわ!」と叫んだ。首を横に振って、体を震わせる。
「ちが……違う、違うの、私じゃないの。全部あの子が……あの子がやったのよ!」
あの子。それが意味する存在は一人しか居ない。私の脳裏に浮かぶのは、幼いあの子の笑顔。母の手料理を美味しいと笑っていた、あの少年だけ。
「健太くん、が……?」
確認の問いを投げても、広谷さんはガタガタ震えるだけで答えない。もう一度問いかけようと彼女に一歩足を踏み出した。その時、足音が聞こえたのだ。
それは小さな音で。大人のそれではなくて。
それは子供の足音で……
ゆっくり私は背後を振り返った。背後は暗闇に包まれている。その闇に向かって携帯を掲げた私は、そこに予想通りの存在を見出すこととなる。
健太くんが、立っていたのだ。
「健太君……キミがお父さんを……?」
信じられなかった。こんな幼い子供が、大好きな父親を殺すなんて。こんな惨い殺し方をするなんて、考えたくもない。だが現実は目の前に転がるのだ。
広谷さんのご主人は血の海で息絶え、それを冷ややかな目で見つめるのは、死者の息子。
本当に彼が殺したのだろうか。それとも奥さんの狂言で、真犯人は彼女なのか。
戸惑う私に対し、奥さんは未だ頭を抱えて震えており、佇む健太君は微動だにしない。
その体に手を伸ばそうとした瞬間、グラリと健太君の体が傾いた。
「危ない……!」
そのまま床に倒れ込めば、頭を床にぶつけかねない。慌てて手を伸ばし、その体を腕で受け止めた。「せ、セーフ!」ギリギリ間に合い、健太君は今私の腕の中で──眠った。
その無垢な寝顔を見るにつけ、益々信じられなくなる。
本当にこんな子が親殺しをしたのだろうか?もし本当ならば、操られたのではないだろうか?もし彼が里奈の弟の生まれ変わりだとして、もしそうならば……彼は一体なんの罪を犯したのだろうか?広谷さんのご主人は、一体前世は誰だったのか。里奈の夢に出てきた、数少ない登場人物を思い出そうと頭をひねる。
だがこれと言って思いあたる節もなく、思考を放棄した私の耳に、声が届いたのはまさにその瞬間。
「よ。無事だったか?」
健太君が立っていた背後。闇に紛れるかのように、黒い服を着たその人が姿を現した。
「霧崎、さん……」
そこに、私をこんな場所へと突き飛ばした張本人が、笑って立っていたのだった。
「どう、して……?」
私の問いに、霧崎は肩をすくめるだけで無言。だから私は問いを変えた。「何をしたの?」と。それは功を奏し、霧崎は口を開いた。
「何もする気はなかったさ。最初は、ね」
「最初は?」
「そいつはただの庭師だったから……俺らとなんら関わりもない奴だったから、見逃してやるつもりだったんだけどな。邪魔さえしなければ、な」
つまり行き着く先にある回答は、紛れもない真実。
「殺したの?」
「死んでるもんな」
肯定はしない、けれど否定もしない。
なんら動揺する事もなく、淡々と飄々とした表情の霧崎は、けしてその表情を崩さなかった。うっすら浮かべた笑みを、崩すことはない。
「どうしてよ!?」
叫んで私は霧崎に近付いた。
その時私は思考が死んでいたのだ。冷静な判断が出来なくなっていたのだ。
だから私は不用意に、霧崎の懐に飛び込むこととなる。
スタスタと奴に近付く自分の愚かさを、痛感するのは直後のこと。
「が!?」
霧崎が、私の首に手をかけたその瞬間、私は不用意に近付いたことを後悔する。
「き、りさ……」
ギリギリと締め付ける力は強く、女の私ではそれを振り払う事も出来そうにない。苦しくなる息の中、私は必死で手を伸ばした。だが霧崎の顔に届きそうで届かない。絶妙な距離に絶望を感じる。
目の前が真っ赤に染まりだした私の耳に、霧崎の声が届いたのはその瞬間のこと。
「まさか……まさかお前みたいな女に、姉様が転生するなんて」と。霧崎は憎々し気な声で、呟くように言ったのだ。
よく聞き取れなかったと、薄っすら目を開ければ目の前には霧崎の歪んだ顔。
「どうして!」
霧崎が叫ぶ。
「どうしてあんなにも美しかった姉様が、こんな女に生まれ変わるってんだ!?美しかったのに、姉様は本当に美しかったのに!どうしてお前みたいなのが、姉様の生まれ変わりなんだよ!」
叫んだ霧崎の瞳から、ポトリと何かが落ちて私の頬を濡らす。
泣きたいのは私なのに。広谷さんのご主人は刺殺なのに、どうして私は絞殺なのか聞きたいのに。
だがそれはどうやら不可能のようだ。抵抗虚しく私の喉に食い込んだ霧崎の指が、私に声を発する事を許さない。
「死んで詫びろ、姉様に!そしてその魂を姉様に返せ!今度こそ本物の姉様が──美しい姉様が生まれ変わるんだ!お前は……お前如きは、お呼びじゃねえんだよ!」
もう視界が霞んで何も見えなくなってきた。伸ばした震える手が、霧崎の手に触れる。思わずそれを握り締めた。
握りしめた瞬間、思い出される。
あの子はなんて言っただろうか?可愛い弟の名は、なんと言っただろう?
家の後継として、実家に残った弟。だが両親は病で倒れ亡くなり、里奈の元へと連れられた弟。閉じ込められていた弟。
名は──
その名はなんと言っただろうか?目の前が真っ赤から真っ白になったような錯覚を感じて目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、可愛い弟の笑顔。
名は──
里奈の声が聞こえた気がした。夢で見た時、彼女がしかとその名を呼んでいた事を思い出す。思い出して、合点がいく。
ああ、彼は彼なのね。彼こそが、私が探し求めたその人なのね。
意識が朦朧とし、体が震えてくる。その震える手を伸ばして、私は霧崎の腕を掴んだ。
優しく、力弱く……握って、私は声を絞り出した。
「あゆ、む……」
その瞬間、首を絞める手の力が弱まるのを感じた。
おかげで声が出しやすくなった私は、もう一度呟くようにその名を呼んだ。
「アユム……」
弟の名を、呼んだ──
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