探偵の作法

水戸村肇

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三ツ葉第一銀行現金強奪事件

名探偵

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 午後二時、喫茶『ポート・ロイヤル』の店内は閑散としていた。
 真上と小鳥遊は窓際の席に腰かけて、注文したアイスコーヒーとクリームソーダのくるのを待っていた。
「どうなの、大学の方は?」
「相変らずですよ」
 注文を持ってきた女性店員が、「アイスコーヒーのお客様」と尋ねると、小鳥遊は微笑を浮かべ手を上げた。
「こちら、クリームソーダになります」
「どうも」
 真上が軽く頭を下げると、「ごゆっくり」といい、女性店員はカウンターへと戻っていった。
「そっちこそ、大丈夫なんですか?」
「なにが?」
「急にお天気お姉さんなんて。大学は辞めるんですか?」
「そうね。二足の草鞋わらじを履けるほど、私、器用じゃないからね」
 小鳥遊はそういうと、ガムシロをアイスコーヒーに入れ、ストローをくるくる回す。氷の触れ合う涼しい音がする。
 特に意識しているとは思えないのに、その動作一つ一つに人を惹きつけるなにかがあった。
「またどうしてお天気お姉さんになんて」
「面白そうだったから。それだけよ、単純でしょ」
「スカウトでしたっけ?」
「そうよ。原宿で買い物してたら、そこらにいそうなイケてるお兄さんに、『ねえねえ、お姉さん、もしかして芸能人?』って具合にね」
 そんなうさんくさい言葉にのって芸能界入り。とんとん拍子に事は進み、今や毎日のようにお茶の間に登場している。
 大学の優秀な先輩が、これほどまでの転身を遂げるとは、真上には予想すらできなかった。
「研究を続ける気はないんですか?」
「そうね。平たくいえば心理学、基礎、応用と色々あるけれど、簡単にいえば、私は人間に興味があるのよ」
 小鳥遊は耳にかかった髪を掻き上げると、薄桃色の唇をストローにつけた。
「どこでだって、それはできるわ。現に今、楽しいのよ。笑顔で原稿を読んで、時折、らしいミスをする」
 誰にでも気さくに接し、親身になって話を聞いてくれる。それでいて自身の本心や奥底は微塵みじんも見せない。
 薄れていた彼女への感情が、今になって再び色濃く真上の胸に手を伸ばす。
「収録で一緒になった俳優と、その後で飲みにいくことになったのよ。そしたらね、収録中は私に興味なんてありませんって感じだったのに、甘い言葉を恥ずかしげもなくいってくるの」
「男なんて、そんなもんですよ」
「そうかもね。それでその後、私、その人と寝てみたの。酔ってると思ったみたい、ずいぶんと強引な感じだったわね。それからはもう毎日のように連絡がくる。あの人、私のためなら妻も子供も捨てられるって」
 小鳥遊の言葉は、まるで他人事のようだった。そこにはなんの感情もない、そう思わせる。
 真上は窓の外に視線を逸らし、「面白い話じゃないですね」と目を細めた。
「世間もろくに知らないどこぞの小娘の言葉に、色んな人が色んな反応をしてくれる。反発、迎合、信奉、無視。ちょっと言葉や仕種や表情を変えてやるだけで、それがくるっと変わるのよ」
 小鳥遊は頬杖を突くと、ストローを持ち上げる。その先から褐色の雫が、空になったストローの包装紙へとしたたり落ちる。
「多くの人は、無関心だと思いますよ」
 机の上で干からびたミミズのようになった包装紙、それを見つめながら真上はいう。
「人がそれを認識した以上は、それに対する絶対的な無関心というのはないはずよ。認識した瞬間、それは間違いなくその人自身に問いかける。自己は他者を欲し、自己のために他者がある。愛や恋もそう。知識欲、独占欲も。その向かう先は、他者を介して、自己でしかない。あなたなら、きっとわかるんじゃないかしら?」
 小鳥遊はそう問いかける。その言葉は耽美たんびに、なまめかしく真上の皮膚をってゆく。
 僕は、そんな簡単に割り切れない。僕は、そんな風に誰かを思ってなどいない。真上はそう自身に問う。
「わからんですよ」
 小鳥遊はそこで少し間を空け、「MML交換殺人事件」とポツリと呟いた。
 その瞬間、真上はハッと顔を上げる。信じられない、それが表情ににじみ出ていた。
「警察に協力して、この事件を解決したあなたならね」
 それに対して、真上はなにも反応できない。
 小鳥遊の大きな瞳に絡めとられてでもいるかのように、そこから視線を外せない。
「あなたの関わった事件が、これだけじゃないことも知ってるわ」
 小鳥遊のしなやかな指先が、そっと真上の頬に伸びた。
「正義感? 使命感? それとも憐憫れんびん?」
 ひんやりとしたてのひらが、真上の頬を優しく撫でる。
「どれも違うでしょ?」
 小鳥遊の唇が、あなたも一緒、と静かに告げる。
 真上は唾を呑み込んだ。熱い汗が一筋、脇腹をするりと滑り落ちてゆく。
「あなたは、自分のことになるとてんでダメ。そんなんじゃ、研究者としてやってけないわよ」
 そういうと、小鳥遊は伝票を持って立ち上がる。
 アイスコーヒーの入っていたグラスは、いつの間にか空になっていた。
「近ければ近いほどにわからない。見ているようで見てはいない。優しいようで優しくはない。あなたの方が、よっぽど残酷じゃないかしら?」
 小鳥遊は真上の肩をポンと叩き、「累子のことも」と脇を抜け、レジで会計を済ませた。
「それじゃあね、名探偵」
 そういう小鳥遊の笑顔は、普段のものに戻っていた。けれど真上は戻れない。
 ソーダに浮かんだアイスは溶けて、薄緑の上に白く渦を巻いていた。
 
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