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櫻花荘に吹く風~103号室の恋~ (3)
しおりを挟む(ヤバイなあ……どうしようかなあ……でもなあ、無しって訳にはいかないんだよなあ)
毎度のことながら、件の避けては通れない作中のシーンについて、このところ担当からお叱りの言葉が届く毎日。それまでが自分にしては有り得ないほどにとんとん拍子で書けていたから、余計に気落ちしてしまう。
日当たりの良いウッドデッキに部屋から持参した座布団を敷いて座り、由野はぼんやりと風に揺れる桜の木の若葉を見ていた。
重なり合った葉の隙間から零れる光が煌いて、寝不足の視界にキラキラと眩しい。
「あれ、由野さん? お仕事終わったんですか?」
「……うわっ! は、春ちゃん、どうしたの?」
「お天気がいいから、ニス塗りしちゃおうかと思って」
うつらうつらとしながら春風に吹かれる由野の前に、ハケと缶を持った春海がぬっと顔を出して来た。突然背後から覗き込まれ、吐息の掛かるその距離に由野は慌てた。
今の今まで頭の中を占めていた自作小説の主人公である三好を、急いで隅へと追いやる。原稿のエロシーンに詰まって現実逃避をしていた、なんて事まではバレていないはずだと必死で心を落ち着けた。
「ビックリさせちゃいました? ごめんなさい」
「いや、うん、ちょっとだけ。大丈夫だよ。それより、ニス塗り?」
ビクリと身を竦ませた由野に、春海がシュンとする。
そんな顔をさせるつもりは無かったと微笑みながら頭を撫でてやれば、目的を思い出した春海がハケを掲げて見せながら、満面の笑みで頷いた。
「はい。折角補修したのに、このままだとまた直ぐ雨で悪くなっちゃうでしょ?」
「そっか、じゃあ僕は中に移るよ」
ウッドデッキというよりは、陸にある桟橋のようなこの場所。長年雨風に晒されていたせいで、上に這わされていた材木はあちこち腐っていて危なかった。
ここ数日杉田と春海は古い材木を剥がして、新しい物へ張りかえるという、ちょっとしたリフォームに取り掛かっていたのだ。
杉田がいるうちに、一人じゃ出来ない修繕箇所を出来るだけ直して行くつもりなのだろう。最近はこの場所に限らず、櫻花荘のアチラコチラで金鎚の音が鳴り響いていた。勿論、それと同時に春海の上げる悲鳴も。
大工仕事は得意では無いらしい春海の、轢かれたカエルのような声が聞こえて来る度、悪いと思いながらもこっそり笑ってしまったりもした。
新しい木の匂いがするデッキから移動した由野が、鼻歌交じりに作業を開始する春海を何気無く見ていると、ちらりと由野へと視線を向けた彼の手がピタリと止まる。
「ん? どうしたの?」
「……何か、由野さんに見られてると、恥ずかしいですね」
「恥ずかしい? 何で?」
何となく……と、微妙に赤くなって俯くその表情が可愛くて。思わずつられて熱くなった頬に、由野はパタパタと手で風を送りながら、参ったなと小さく息を吐き出した。
作品のモデルになんてしてしまった罰が当たったのだろうか。自分の性癖は至ってノーマルだったはずなのに、春海のやる事なす事がどうにも気に掛かって仕方が無い。
「あ、駄目だよ春ちゃん」
「へ? 何が?」
「ニスの重ね塗りは、乾いてからにしないと……ああ、ほら、まだらになってる」
「あ……」
何度も繰り返し同じ場所でハケを動かす春海に、由野は待ったを掛ける。見ればその部分だけが妙に浮き上がって見えていた。
「貸してごらん……ほらこうやって、塗る時は一気に…ね?」
「すごい……やっぱり由野さんってすごいなあ、何でも出来ちゃうんですね」
綺麗にカンナ掛けされた木材の上、滑らせるようにハケを動かす由野の手付きに、春海が瞳を輝かせる。
「いやいや、これ位はほら、中高時代に授業でやったりもしたしさ。僕は料理はからっきしだし、あんな美味しいご飯作れる春ちゃんの方が凄いと思うよ?」
「――ボクは、本当、いつも空回ってばっかりだし……料理は必要に迫られて覚えただけだから、凄くなんて無いんですよ」
学生の頃から構築作業よりも塗ったり貼ったりが好きだった由野にとっては、言葉通り大した事では無かった。
それでも春海から寄せられる、尊敬の色を乗せた眼差しが擽ったくて。このところ駄目出しばかりを受けていた由野にとって、褒められるという行為自体が久々で、それが何だか照れ臭かった。
けれど本音を交えた由野の言葉に、春海の表情にほんの少し翳りが差した。
「春ちゃん?」
「ウチね、母子家庭なんです。今時はあんまり珍しくもないけど、所謂私生児、ってやつで……小さい頃はそれを理由に虐められたりもして。ほら、子供って時々残酷でしょ?」
やってみますとハケを受け取った春海が、中へと移動した由野へと背を向ける格好で、手を動かしつつポツポツと語り出す。
「みっちゃんのお母さんとウチの母さん、学生時代から仲が良かったらしくて。ここに来るまでは、みっちゃん家で持ってるアパートのひとつに、タダ同然のお家賃で住まわせてもらってたんです。みっちゃんとは本当、物心が付く前からずっと一緒で、兄弟みたいに育って」
「そうだったのか……」
普通の友達というには親密で、けれどどこか一歩引いたような春海の観月への接し方。
無意識のものなのだろうけれど、ふとした瞬間に感じた遠慮するような態度は、そういった生い立ちから来ているのかもしれないと、語られる言葉に耳を傾けながら、由野は小さく相槌を打った。
「ボクってどん臭いみたいで、それもあってからかわれてたんだろうけど……そういう時っていつもみっちゃんが助けてくれて。いつか恩返し出来たらいいなあって、思ってたんです」
「それで管理人を引き受けたの?」
「うーん、それもあるけど……母さんが再婚する事になって。一緒に付いて行くような歳でも無いし、だからって一人で住むのには部屋も広いし。それに、専門学校出たのはいいけど、見習いじゃお給料安くて生活がカツカツだったんですよね」
「見習いって、何の仕事してたの?」
「あ、一応、コック見習い? みたいな――」
洗い物ばっかりで終わっちゃいましたけど、と苦笑する春海を見つつ、由野はなるほどとひとつ頷いた。料理に関しては何の心配をすることも無く、初めから美味いものが食えていた事に合点がいく。
「料理、好きなんだね」
「っていうか……母さんには大学行けって言われたんですけど、ボク勉強苦手だし…だったら手に職を付けろって。でも力仕事は向いてないんで」
初日の階段落ちを思い出した由野が眉を顰める。知り合ってまだ日は浅いけれど、確かに春海には鳶などの危険を伴う仕事は無理そうだ。
「働いてる母さんに変わって、家の事はやってたし。美味しいって言ってもらえると嬉しいから……って、そんな単純な理由で選んだんですよ」
「そうかあ……でもそのおかげで、僕は美味しいご飯を頂けてるわけだから、感謝しなくちゃいけないね」
微笑んで告げる由野へと、春海が「ありがとうございます」と、少し表情を和らげた。
「みっちゃんのお店も紹介されたんですけど、調理の仕事は嫌いじゃなくても、手荒れが酷くて続けるのは厳しかったんです。それで、何か違う仕事をって探してた時に、源じいに変わってここの管理人やってみるかって、声を掛けてもらって……ボク、ずっと母さんと二人だったから、大勢での生活って楽しそうだなって思って、それで引き受けたんです」
「なるほどねえ。それにしても、観月くんの…というか、杉田さんのとこって、そんなに色々やってるんだ? 杉田さんとは結構付き合い長いけど、そういう話ってした事無かったからなあ」
「あ……そういえば内緒だったかも? …みっちゃんにはボクが喋った事黙ってて下さいね? えっと、みっちゃん家は幾つか飲食店やってて、昔から土地持ちだったとかで、不動産も何件か。経営はお兄さん達がやってるから、みっちゃんは気楽に生きるんだーって言ってますけど」
慌てる春海に誰にも言わないよと約束を交わせば、ホッとした顔をしながら、それでも彼の話は止まらなかった。誰かに聞いてもらいたかったのかもしれないと、由野は苦笑を浮かべつつ春海の話に付き合った。
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