櫻花荘に吹く風~103号室の恋~

柚子季杏

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櫻花荘に吹く風~103号室の恋~ (10)

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「あれ? お早うございます、由野さん。シャワーですか? すぐご飯ですよ?」
「あ……ああ、お早う春ちゃん。うん、ちょっと眠気覚ましにね――あっ、そうだ、春ちゃん?」
 風呂道具を傍らに置いて、汚れ物を洗濯機へと放り込んだところで、物音に気付いたらしい春海がダイニングから風呂場へとやって来た。恥ずかしい洗濯の中身気付かれるはずはないのに、思わずびくりと肩が震えた。
 そんな由野にひと声掛けて、朝食の準備へ戻ろうとする春海を呼び止める声に「はい?」と振り返る気配を感じる。
「僕の分の食事は、暫く別にしてもらえるかな? ちょっと仕事が詰まってるから、部屋で仕事しながら食べたいなと思って」
「え……3食共、ですか?」
「う、ん……ごめんね」
「――いえ、分かりました……それじゃ、お盆に用意しておきますね」
「うん、ありがとう春ちゃん」
 疚しさから視線を合わせる事もままならず、気まずさを隠し切れないままの由野が告げた言葉に、春海は若干声のトーンを落として答えると、そのまま台所へと戻って行った。


 遠ざかる足音にホッと息を吐き出した由野は、風呂場で温めにした湯を頭から被った。
 水を浴びてしまいたい位に、身体が熱を孕んでいるのが分かる。春海の声を耳にしただけ、春海の存在を傍に感じただけなのに。
「ごめん、春ちゃん――」
 荒い呼吸を繰り返しながら、排水口へと吸い込まれていく欲の名残を横目で見遣った由野が、ポツリと呟く。
 自分にこんなにも性欲があったのかと驚いてしまう。夢精して目覚めたというのに、大した時間も置かずにこうして昂った自身を慰めることになるなんて、誰が想像出来るというのだ。

 ガラス扉の向こうで回る洗濯機の音が、やけに大きく聞こえる。自分の取ってしまった行動と相俟って、どうにも居た堪れない。
 春海からは純粋に自分を慕ってくれているだろう感情が伝わって来るのに、その自分は彼を性欲の対象として捕らえてしまっている事に落ち込みが増す。
 今抱えている作品が終われば、そういう目で彼を見る事は無くなるのだろうか?
 考えても答えなど何処からも聞こえてくるわけも無く、由野はその日を境に、春海から少し距離を置く事を決めたのだった。



 朝と夜は何だかんだと理由を付けては自室に篭もって食べるようにし、昼もなるべく顔を合わせず済むようにと、近所の小さな図書館ではなく街の方にある大きな図書館へと通う日々。休館日以外は閉館時間が来るまで、一日中そこで過ごした。

 櫻花荘にいれば、嫌でも春海の声が耳に入る。
 掃除や庭の家庭菜園、食事の支度。
 忙しなく建物の内外をパタパタと走り回る足音が耳に付いて、その度に春海の姿を探してしまう自分がいることに気付いたからだ。
 流石に毎昼食を外食出来るほどの収入は由野には無い為、昼飯だけは春海に頼んでおにぎりを作ってもらう。その受け渡しの僅かな時間ですらも、春海の存在を間近に感じれば、そわそわと落ち着かない気分になってしまうのだ。

「……参ったな――」
 顔を合わせる機会が減れば、心に持つ春海に対しての邪まな気持ちも無くなるんじゃないかと期待していた。
 それなのに実際は、会わないようにすればするほど春海の顔が見たくなってしまう。
 華奢な身体で毎日精力的に櫻花荘を動き回る春海の、物事ひとつひとつを楽しみながら一生懸命にこなす姿が見たかった。
 幼い頃の思い出話、畑に植えた野菜の話、今日の夕食メニューについて。そんな他愛も無い会話が楽しくて。
(……違うな。そんな小さな話でも、春ちゃんが楽しそうに話すから。僕だけを見て話してくれるから、そんな春ちゃんを見てるのが、僕はきっと楽しかったんだ)
 本人は必死で働いているのに、いつもどこかちょっとずれていたり。目を離した隙に何も無い場所で躓いてしまうような、そんな危なっかしいところにハラハラさせられたり。
 こうやって離れて過ごせば過ごすほど、ここひと月ちょっとの間に見て来た春海の色々な表情が思い出されてしまうのだ。
(高木もこんな風に悩んだのか? なあ、高木……お前はそれを、どうやって受け止めたんだ?)
 再稿も終わり、エンドマークの付いたパソコン画面を眺めながら問い掛けても、そこから答えを導き出す事は出来なかった。

 小説の中であれば、こういう時の攻めはきっと男らしく自分の感情を認めて、受けに対して迫っていくのだろうと思う。そして大抵その場合、想う相手である受けも、攻めの事が好きだったりするわけで。
(現実世界じゃそうはいかないって――)
 客観的に自分を分析してみた由野は、その時点で自分は小説の主役にはなれないと自嘲した。
 容姿は至って平凡。収入は常に生活ギリギリ。好きな文字書きという職には就いているけれど、人前で堂々と名乗れる程の度胸もない。
 あと少しで三十路になるというのに、恋愛経験もさほどは無くて。そんなスキルの人間が、男を相手に恋をしたって上手く行くはずが無いではないかと。


 整理の付かない感情と悶々とした気持ちを抱えたまま、今日も由野は図書館へと向かう。
 手を焼いた原稿は既に担当である太田の元へと送り済みだ。オーケーも出て、現在構成待ちの段階だ。取り急いでの詰まった仕事があるわけでも無いのに、春海から逃げるような行動を取る自分自身に呆れすらする。
(認めちゃったら、少しは楽になるんだろうか……いや、認めちゃ、駄目だろ)
 昨晩担当の太田から入った携帯への連絡を思い出し、このところの癖になりつつある溜息を吐いた。
『凄く良くなってますね! 先生のカラーはそのままなのに、いつも以上に臨場感があるっていうか……この作品、先生の代表作になるかもしれませんよ!』
 勢い込んで話されて、嬉しいような困ったような、複雑な思いに囚われた。
 春海をモデルとした受けの三好。身近なところにモデルがいるのだから、イキイキと見えて当然である。
 これまで苦手としていた攻めの受けへと向ける感情も、実際自分が春海を可愛いと思って見ているのだから、真実味があって当たり前なのだ。
 そして、出来れば避けたい絡みのシーンは……頭に浮かんでくる顔を振り払いながら書いた甲斐があったのか、太田からの駄目出しも無いまま通ってしまった。いつもなら最後の最後まで直しが入る部分だというのに、皮肉なものだと思う。
 いつまで逃げいていても仕方が無い事は分かっているのに、今の由野にはまだ、春海と正面から向き合う勇気はどうしても持てなかった。




 壁の時計に目をやった由野は、ノートパソコンを入れた鞄を手に立ち上がった。
 前回の話に区切りが付いた今の内に、次作のプロットを切っておけば後々が楽になる。図書館へ向かう行為にそう理由を付けて、緩慢な動作で扉に鍵を掛けた。
 軋む廊下をなるべく足音を立てないように静かに歩き、ダイニングの入口でひと呼吸した由野は、ゆっくりと台所のスペースを窺った。春海の姿が無い時には、カウンターの上に置かれているおにぎりをそっと持って出るのだけれど。
(ちょっと、早かったか……)
 カウンターの向こう側、台所のスペースに春海の姿を見付けた由野は、今度はわざと足音を立てながらダイニングスペースへと足を踏み入れた。
「春ちゃん、おにぎり出来たかな?」
「っ、あ、はいっ、今荒熱冷ましてたんで、後は包むだけです」
「そっか、ありがとう」
 由野の掛けた声に驚いたのか、春海の華奢な肩が傍目で分かる程に跳ね上がった。
「今包みますね」
 そう言いながら慌てた仕草でラップに包んでいく春海が、由野の瞳にはやっぱり可愛く見えた。時間を置いても、距離を置いても、その感情が変わることは無いままなのだと自覚する。
 はいどうぞ、と差し出されたおにぎりを受け取ってからも、由野は春海から視線を外す事が出来ずにいた。普段と変わらないように見えるのに、春海の浮かべた笑顔がどこか不自然な気がして、目が逸らせなかったのだ。
(――春ちゃん?)
 じっと見つめる由野の視線から困ったように顔を俯けた春海が、やっぱり何故か寂しそうに見える。前髪の先を指先で引っ張りながら、そわそと視線を彷徨わせる春海の様子が気に掛かる。
「何かあった?」
「え? 何も、無いですよ?」
 緊張が伝わって来る固い声を訝しく思いながらも、それ以上突っ込んだ質問も出来ないまま、由野は春海から視線を外しおにぎりの包みを鞄へと仕舞った。
「……そう、なら良いんだけど――ちょっと、元気ないような気がしたから。おにぎり、ありがとね。じゃあ、行って来ます」
 このところ春海を避け続けていた自分には、それ以上の事は言えなくて。何かがあったに違いないと思いつつも、由野は春海へと背を向けた。
「あっ、い、いってらっしゃい!」
 その瞬間由野を引き止めるように発せられた春海の声のトーンが、つい今しがたのそれとは全く違っていて。驚いた由野が再び春海へと視線を向けると、そこに広がる満面の笑顔が飛び込んで来た。
(ぅ……わぁ――)
 春海を避けていたここ数日、ずっと頭から離れなかった春海の笑顔。キラキラと輝くようなその笑顔は、今の由野にはインパクトが強過ぎた。
 ストレートに視界へと入れてしまった笑顔を見た瞬間、急激に脈が早まるのが分かる。
 顔から火が出るのでは無いかと思うほど、一気に体温が上昇した気がした。
「行って来ます」
 再びの言葉を口にしてダイニングを後にするも、その声は自分が思っていた以上に小さく掠れていた。

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