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キスからの距離 (19)
しおりを挟むそうして始まった康之との共同生活は、思っていた以上に過ごしやすいものだった。互いに互いのプライベートには干渉し過ぎないようにと、最初に決めた事も良かったのかもしれない。
約束通り家賃代わりに家事は内海が引き受けたけれど、康之が自宅で食事をする機会はあまり多くは無かった。
必要な時には前以って言ってもらい、それに合わせて食事の準備をすれば良いというのは内海にとっても楽であったし、プライベートな時間を確保することも容易に出来た。今の内海にとっては、任される事になった仕事を自分のものにするために充てられるその時間は、とても貴重なものだった。
所詮は社会人経験に乏しい若造だ。
昼の職業との違いからも、覚える事もやらなければならない事も山のようにあったことが、それらに打ち込めることが、内海にとっての救いとなっていたのかもしれない。
与えられた仕事を本格的に開始する前にと、内海は自身の就業時間をずらして、店の営業時間にも何度か立ち合った。経費の無駄や店で出しているドリンク等の値段の確認をする為だ。
初めて足を踏み入れた夜の世界は、戸惑う事も多かったけれどそれだけに新鮮だった。
見た目のイメージで怖そうに思えていたホストやボーイの人達も、実際に話してみれば気さくな良い人達ばかり。上司のセクハラに恐怖を抱きながらも辛抱して勤めていた以前の職場と比べれば、この店の方がよほど精神衛生的にも良い気がする。
そんな多忙な毎日が、ともすれば落ち込みそうになる内海にとっては、とても有り難い時間だったのだ。
それでも、ふとした瞬間に胸を過ぎる橘川の姿。眠りに落ちるまでの僅かな時間に思い出す、あの腕に包まれて眠る温かさを思って、泣き出したくなる事もあった。
その度に自分で決めた道なのだと自らを戒めながら、少しずつ、内海はこの場所での自分の居場所を築いていった。
「ママ聞いてよ、最悪なのに引っ掛かっちゃった」
「やぁだ、何よちょっと、トモってばその顔、殴られたの?」
その日内海が席に付くや否や愚痴を言い出した相手は、言わずと知れた行きつけのバーのママだった。
唇の端が切れ、少し紫に変色しているのを見たママが眉を顰めるのに、内海はわざとらしく苦笑して見せた。
康之の元に身を寄せて数か月が経つと仕事にも少し慣れ、職務時間を終えた後には空いた時間を持て余すようになった。
時間が出来てしまえば、未練がましいと思いながらも、断ち切ってきた温かな場所を求めて溜息ばかりが出てしまう。思い出すのは橘川と過ごした楽しかった時間、自分を見て微笑む橘川の愛しげな眼差し。
鬱々とした気持ちのまま家の中に引き篭もりそうになる自分が嫌で、橘川とのことを振り切ろうと、新しい恋をしようと、これでも努力もしてみたのだ。
ノンケを相手にするには橘川だけで十分だと、女性の影に傷付くようなことは二度としたくはないと、内海なりに吟味して相手を選んだつもりだった。
同性にしか興味を持てない相手に狙いを絞り、気が合えばベッドを共にするようになった男も何人かはいた。
けれどどんな相手とも長続きはしないまま時間だけが過ぎていく。
たった一人の存在と無意識に比べながら相手を選んでいた罰なのかもしれないと、ママとの軽口を交わしながら内海は内心で自嘲する。
手の形が何となく、橘川に似ていた男。
後ろから見た時の体格が、橘川と重なって見える男。
囁かれる声が、自分を呼ぶ橘川の声に近い男。
どんな男と身体を重ねても、結局はその向こうに橘川を重ねて見てしまう。それが相手に伝わらないはずは無かった。何度行為に及んでも自分に振り向かない内海に、相手も徐々に苛立ちをぶつけるようになってくる。
金を要求された事もあれば、SMまがいの行為を強いられた事もある。そして今回は、相手の執着が見え始めたことに嫌気が差した内海が、別れを切り出したことが原因で殴られた。
(拳ひとつで治めてくれただけ、マシなのかもな……)
ただ欲求を満たすためだけの虚しいセックスは、内海の心も疲弊させていた。そんな時に、内海は一人の若者と出会った。
「あら、いらっしゃい。初めてよね?」
「あ……はい」
「良かったらカウンターへどうぞ」
入り口の扉が開いた気配にママが発した声に、内海の視線も自然にそちらへと向いた。物慣れない雰囲気を醸し出しながら、珍しそうに店内を見回す若い男。
(ああ……何か、懐かしいな)
ママからの促しに安堵の表情を浮かべ、彼はおずおずとカウンターのスツールへ腰を下ろした。それでも身体から緊張してますというオーラが透けて見えて、ひとつ間を空けた席に座る男のそんな様子に、内海は気付かれないようにこっそりと笑みを浮かべる。
「あなたまだ若そうだけど、お酒飲める歳?」
「あ、えっと……」
「まだだめみたいね、ノンアルコールでカクテル作ってあげるわ。初見さんへのサービスよ」
店の様子を見回していた男の顔をジッと見つめたママが、訝しげに眉を寄せながら苦笑を浮かべ、ドリンクを作りに取り掛かる。
そんな様子にも懐かしさを覚えてしまうのは、多分内海が初めてこの店に訪れた時にも、似たような会話をママとの間で交わしたからだろう。
「……美味しい」
躊躇いがちに出されたカクテルを口に含んだ彼が、ホッと息を吐いたのが分かった。
ママが作ったドリンクはサラトガ・クーガー。ライムの爽やかさが香る、ほんのり甘くて、ジンジャエールの炭酸が仄かに苦味を感じさせるドリンクだ。
自分のジンライムを啜りながら、内海は見るともなしに二人の様子を眺めていた。グラスが空になれば、目敏く気付いたママに目線で次を問われる。
愚痴も聞いてもらったし、本当はもう引き上げようかと思っていた内海だったけれど、初顔の若い男への興味も手伝って、気付いた時にはビールと口に出していた。
こういうさり気無い気遣いをしてくれるから、内海はこの店が大好きなのだ。自分を偽る必要もなく、素直になれる。心が疲弊している時には、そっと優しさで包んでくれるような空気がこの店にはあった。
「お名前なんて呼べば良いかしら? ああ、本名じゃなくて良いのよ、呼称っていうのかしら……こういうとこ来るの初めてでしょ? 色々教えてあげるわ」
「えっと、それじゃ、ユーって呼んで下さい」
「ユー君ね、了解。ゆっくり楽しんで行ってちょうだい。あ、ホイホイ自分を安売りしちゃ駄目よ? ユー君可愛い顔してるから心配だわあ」
「は、ぁ……」
ひと言喋っただけでマシンガントークが返って来る事に、ユーと名乗った彼が目を白黒させている。
すごく優しくて思い遣りもあるママだけれど、このマシンガントークが玉に瑕だったりする。一度気になってしまうと心配が先に立ってしまうのか、こちらが止めなければ永遠に話し続けるに違いないと思うほど饒舌になるのだ。
内海も初めて店を訪れた時にこれをやられて、泡を噴いていたところを常連客に助け舟を出してもらった記憶があった。
「ちょっとママ、その子固まっちゃってるよ?」
「あら、ごめんなさい、ビックリさせちゃったかしら?」
「いえ……あの?」
固まるユーに気付いているのかいないのか、言葉の止まらないママの様子に、内海は仕方が無いと苦笑しながら声を掛けた。ようやく自分が喋りすぎていた事に思い当たったのか、ママが肩を竦めて謝罪の言葉を口にする。
声を掛けたことで内海の存在を意識したのか、こちらを見たユーと初めて視線が交わる。
「ん? ああ、俺はトモ。割と常連?」
「あんたは彼氏と別れた時しか顔出さないくせに、何が常連よ」
「いいじゃん、独り身の時はこうやって貢献してんだから」
ママの言葉を適当にあしらいながらビールの入ったグラスを掲げて名乗れば、ユーはぼんやりと内海を見つめたまま動きを止めた。
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