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ばんがいへん

愛執

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愛執【あいしゅう】
意:愛するものに心ひかれて心が自由にならないこと。


 隣町へ使いを頼まれたエリアストは、帰りの山道で、落石事故に遭った馬車に遭遇する。見える範囲で二台。人も荷物も絶望的だ。エリアストは、都に戻ったら報せておくか、とだけ考えた。すると、何かの拍子に投げ出されたのだろう。事故現場のすぐ側に、頭から血を流して倒れている少女を見つけた。事故の唯一の生存者かもしれない。この事故について聞かれたときに、何かしら証言出来るだろうと、エリアストは生死を確かめるため、少女に近付いた。随分身なりが良い。どこかの良家の娘だろうか。そんなことを考えながら、俯せに倒れている少女を仰向けにして、止まった。
 サラリと流れる美しい黒髪には、血がベッタリと付いている。顔色は紙のように白く、唇も色を失っていた。かなりの血が失われているようだ。だが、まだ息はある。
 少女の顔に流れた血を、エリアストはベロリと舐めた。
 少女を抱き締めると、止血をするため、着ていた上着で傷口を圧迫しながら馬に乗る。
 「必ず助ける。安心しろ」
 意識のない少女にそう言うと、自身の熱を分け与えるように、その唇を重ねた。


 「父さん、母さん」
 戻ったエリアストを出迎えた母アイリッシュは、エリアストが抱えるものを見てギョッとした。
 「え、エリアスト、どうしたのっ」
 「落ちていた」
 エリアストの返答に、アイリッシュは頭を押さえた。
 「お、お医者様は?お医者様には診せたの?」
 どう見ても診せていないが、聞いてみる。案の定、エリアストは診せていないと言う。
 「これ、俺の嫁にする」
 「え?」
 そんな話をする場面だろうか。息子の壊れ具合が怖い。
 「そ、の話は、今すべきことではないでしょう。早くお医者様に」
 「俺の嫁だ。他人が俺の嫁の体を見るなんてあり得ない」
 アイリッシュの表情は無になった。
 自分の息子のイカレ具合が、想像の範疇を超えている。
 「あなたの嫁、死ぬわよ」
 「あり得ない」
 「あり得ないことがあり得ないわ」
 確実に死ぬ。
 血は止まりかけているが、止まっているわけではない。呼吸も弱ってきている。
 エリアストは少女をギュッと抱き締めた。
 「医者に、行く。だが、俺の嫁に手を出さないようずっと見ている」
 「それでいいから早く行きなさい。お父さんは今出ているから、戻ったら二人で向かうわ」

 
 「気がついたか」
 少女の瞳が美しい黎明れいめいの色だと知ったのは、それから一週間後だった。
 エリアストは付きっきりで、それこそ片時も離れることなく、甲斐甲斐しく世話をした。少女を見るのは、触れるのは、自分以外であってはならない。何より、目覚めたとき、その目に一番に映すのは、自分でなくてはならないから。自分以外を、映して欲しくなかったから。
 声のした方に、少女は顔を向けると、ダイヤモンドのように輝く髪と、アクアマリンのように美しい双眸の、言葉には出来ないほど美しい、少年と青年の狭間のような人が、少女を見つめていた。
 「天使、様?」
 少女の声に、天使と言われたエリアストは目をみはる。
 「わたくし、死んでしまったのですね」
 「俺がついていて死なせるはずがないだろう」
 握っていた手を持ち上げ、見せつけるようにそこにくちづけた。少女の顔は真っ赤に染まる。
 「あ、あ、天使様では、ないのですね」
 あまりの美しさに、てっきりそうだと思った。何故死んだのかはわからなかったが、この世のものとは思えない美貌がそこにあったため、自分は死んだのだと思ったのだ。すみません、と少女は小さく謝った。
 「あなた様が、助けて、くださったのですね」
 何があったかわからないが、自分の頭に巻かれた包帯に気付き、少女はそう言った。
 「そうなるな」
 手にくちづけながら、エリアストは答える。
 「あ、た、助けていただいて、本当に、ありがとうございます。言葉では、とても、感謝を、伝えきれません。わたくしは、どうすれば、このご恩に、報いることが、出来るのでしょうか」
 エリアストは手を離さないままベッドに上がると、少女の体を跨ぎ、両手を少女の顔の横で指を絡めて繋ぎ直す。唇が触れそうなほど近付いたエリアストに、少女の心臓がうるさいほど早鐘を打つ。
 「恩への報いそんなものなどいらない。恩?そんなものなど、存在しない」
 エリアストの目が、少女を射貫く。
 「俺がおまえを欲しくてやったことだ」
 その言葉に、少女は眩暈がした。強く、これほどまで強く望まれていることに、全身の血が沸騰しそうだ。
 「おまえ、名は」
 「な、まえ?あ、え?名前、名前、は、え?」
 急に、現実に引き戻される。
 名前は、何だった。名前どころか、何も、覚えていない。
 少女は青ざめ、体が震え出す。
 「わからないのか」
 エリアストの言葉に、ビクリと大きく揺れた。
 身元不明の人物など、トラブルのニオイしかしない。追い出されても、仕方のないこと。いや、追い出されない方が、おかしい。
 おかしいのに。
 エリアストは、笑った。少しだけ、確かに、口角を上げたのだ。
 「そうだな。では、アリス。おまえの名は、アリスだ」
 アリスは目を見開いた。
 「俺はエリアスト。エル、と呼べ」
 何もない。何もないだけではない。もしかしたら、面倒事を抱えているかもしれないのに。それなのに、エリアストは、笑った。笑って、受け入れたのだ。けれど、それに甘えるわけにはいかない。そんな人だからこそ、迷惑を、かけたくない。
 「エル、様。わたくし、は、何も、覚えて、いないのです。もしかしたら、は、犯罪者、かも、しれないのですよ」
 自分が何者かわからない。そんな自分と一緒にいたら、失った過去に、わからないまま巻き込んでしまうかもしれない。
 それなのに。
 「だから何だ」
 アリスはまたも目を見開く。エリアストは変わらず僅かに口角を上げている。
 「記憶など不要。おまえは俺だけ覚えていればいい」
 唇が、重なった。
 「俺だけを見ろ、アリス」
 また、重なる。
 「ん、える、さま」
 「そうだ。余計なことは考えるな。おまえは何も考えず、ただ俺の側にいればいい」
 それだけで、いい。
 「俺のもとへ来い、アリス」
 銀の糸で、唇が繋がる。
 「おまえは俺のモノだ」



*2へつづく*
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