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番外編~箱庭の姫君と闇の公主と光の王~
再びの、廃嫡画策。
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闇華は、時間が許す限り、リヒトと一緒に過ごすことにした。相互理解の為だ。
最初は、朝の散歩から始めた。王宮の庭園は、美しく手入れされている。エルウィージュがいた庭園の、野生を残した風情の方が闇華の好みだが、口には出さない。庭師の仕事を奪うことになってしまう。
「アンファ。今日はどちらに行こうか」
「東に、梨の花が咲いていると聞いた。見てみたい」
にいさまの名の花だ。そう答えた闇華に、リヒトは気を悪くした様子もなく、ごく自然に彼女の腕を取ってエスコートしてくれる。
「アンファは、本当に兄君が好きなのだな」
「無論。にいさまの妃になりたいと、そればかりを願っていたくらいだ」
――そう、願うだけで何もしなかった。にいさまが迎えに来てくれるのを、ただ待つだけだった。
お伽話のようにはいかない。にいさまは来ない。ならば自分が動くしかないのに、闇華は何もしなかった。だからこれは当たり前の結果だ。求めるだけで何もしない者の願いなど、誰が叶えてくれるものか。
「私は、エルウィージュを妃にしたいとは思わないな。どれほど愛しくとも、妹は妹だ」
「にいさまにもそう言われた」
「リーシュ陛下には、一度お会いしたいな。気が合うと思う」
「……そうだな。にいさまは、リヒト様に似ているからな」
闇華は苦笑した。にいさまが好きだと告げた口で、こんなことを言ったら、自分がリヒトを好いているみたいではないか。
「だが、アンファとエルウィージュは似ていないな。エルウィージュは、もう少し私を慕ってくれないものかと思う。あの子は、アレクシアしか好きではないとわかってはいるが」
「エルウィージュに似ている者なら、二人、知っていなくもない」
闇華の答えに、隣を歩くリヒトが歩を止めた。怪訝そうな翡翠の瞳に、闇華は笑った。
「姿ではないぞ。有り様が似ている」
「有り様?」
「己が定めた一人以外はどうでもいい、という態度がな。亡くなった兄上の側近で、今はにいさまに仕えている蓮汎にそっくりだ」
「あと一人は?」
「シルヴィス。あれも、あなた以外はどうでもいいと思っていよう?」
闇華が指摘すると、リヒトは屈託なく笑った。
「シルヴィは私に甘いが、それは亡くなった母君への愛情でもある。アレクシアに惹かれてもいた。私だけ、ではない」
「未来視の姫は、あなたとエルウィージュ、シルヴィス、それからにいさまにも好かれているのか」
男女問わずに愛されている。陽だまりのようなあの笑顔は、愛される者ならではのものだった。闇華は、あんなふうに笑えない。
「そうだな。そして何より、先代神竜王に」
「違いない。妾はな、リヒト様。愛し愛されるあの姫が羨ましい。愛しいと、愛する人にそう言えることが、たまらなく羨ましい」
闇華の声は、平坦だ。感情を抑制してのものだと、リヒトは気づいた。
「だからあなたも羨ましい。妹姫に、愛していると言えるあなたが」
闇華の想いは、にいさまを困らせる。だから口にできない。
「あなたは優しいな、アンファ」
「妾が? 優しい?」
何を言っているのだ、と顔を上げた闇華の視界に、輝く光を纏った王子がいた。綺麗な色の瞳が、闇華を見ている。
「あなたの想いに応えられない兄君のお気持ちを、己の気持ちより大切にしている。そうできる人は優しいと、私は思う。私は、相手の気持ちを察することが下手だから」
「リヒト様は、優しいと思うぞ」
少なくとも、いつも相手に誠実であろうとする。空回りだとしても、その真摯な姿勢は貴いと、闇華は思う。
「押しつける優しさは、ただの自己満足だ。むしろ暴力だ。……エルウィージュに、また押しつけてしまった。嫌なことがあると身内に甘える悪癖は、直したいと思っていたのに」
情けない、と吐息に絡めた言葉が漏れる。闇華が沈黙で先を促すと、リヒトは少しずつ話し始めた。
「私の母は――伯爵家の娘なんだ。本来なら、王妃になれる身分ではなかった」
「ああ。聞いたことはある。だが、それは、シルヴィスの父御である先代の大公が後見となることで、解決したのではなかったか?」
「しているとも、していないとも言える。母は、レーエンス伯爵の娘だ。母は亡くなったが、祖父は健在だ。――だから、私が即位したら、レーエンス伯爵は国王の外祖父ということになる。それをよく思わない者もいる」
確か、上から公侯伯子男という身位だったか。その上に王族でもある大公があり、更に上が王家だ。
闇華は、ヴェルスブルクの貴族達をまだあまり知らないが、中ほどの身分の者が、王の外祖父となると、いろいろ面倒なのだろう。
近親婚を繰り返しているシルハーク王家でも、父様の異母姉が産んだにいさまが、従妹でしかない美英様の産んだ香雪兄上より下位に置かれたことに、諸侯達が大騒ぎしたと聞いている。
にいさまの母君は、おじいさまに王女として認知されておらず、また、ご後見が弱かった。もし、にいさまの母君の養父母が、尚書かそれに次ぐくらいの家柄だったら、にいさまが立太子していたはずだ。
「大公家、公爵家や侯爵家の者が、ということか?」
「大公家は、ヴェルスブルクには二つあるが、どちらも、この件は特に問題視していない。シェーンベルク大公は、俗世に関心が薄い。ナルバエス大公家――シルヴィにとっても、レーエンス伯は祖父君だ。五つの公爵家も、似たようなものだと思う。私の妃は、シルハークの王女であるあなたになった。私の子に、自分達の孫娘をと思ってはいるだろうが」
しかし、公爵家の筆頭家格であるラウエンシュタイン家は、跡取りであるアレクシアのお相手が「先代」とはいえ神竜王だ。生まれた子は半神半人となる。成人した時に、神竜か人かを選ぶのだが、もし人であることを捨てられたら、家名が断絶する。
そういうわけで、ラウエンシュタイン家は、未来の王妃を画策する余裕はない。公爵夫妻は、アレクシアに「神竜王陛下にも、こちらでお過ごしいただけるようにする、できるだけ早く帰ってきてくれ」と手紙を書きつづっているらしい。
ならば、他の公爵家が我が娘を王太子妃にと手を挙げるものだが、クルムバッハ公爵家は断絶した。他の公爵家も、「無理に今回婚姻させる必要もない」と、特に焦っていない。最高位の貴族である彼らは、先祖が王家と婚姻しているし、今後も子孫には王族との婚姻の可能性が十分にあるからだ。
「では、問題は――侯爵家か?」
「そうだ。自分達のすぐ下の爵位から、王妃が出た。それだけでも腹立たしいのに、その王妃の子が王太子となり、今度は王となる。己より下位であるはずの伯爵が、王の外祖父となる。それが許せないらしい」
「……そやつらは、阿呆なのか?」
「わからない。アトゥール……宰相でもあるシェーンベルク大公に相談したんだが」
アトゥールの答えは単純明快だった。
――生まれながらに王族である殿下、大公家の跡取りであったシルヴィス、そして私。この国でも屈指の身分を持つ我々に、持たざる者の思考など、わかるはずがありませんね
「なるほど。わかりやすい」
闇華も、シルハークの公主として生まれた。自分より上位の公主は、香華だけだった。父様が、年若い女官達に産ませたたくさんの異母妹達のことは、正直、さほど覚えていない。
「持つ者は、持たざる者の気持ちはわかりづらい。……それで? リヒト様は、何がお嫌だったのだ?」
「……私は、エルウィージュを傷つけたくない。正確には、怒らせたくない」
「リヒト様?」
闇華の疑問に答えるように、リヒトは歩を止めた。そして、振り返る。
「……おいでなのだろう、アトゥール。私の許嫁を存分に眺めた上で、挨拶はできぬとおっしゃるか?」
「いいえ。そのような非礼は、決して」
リヒトの声に応じたのか、闇華達のずっと遠くに、銀細工の青年が姿を見せた。
――エルウィージュが月光の姫なら、この青年は月の神か。
そう思うほど、彼女に似通った雰囲気を纏っている。異母兄であるリヒトより、彼女に親しい。
「アトゥール・ヴァレリー・ルア・シェーンベルクと申します、東の国の姫君」
銀の髪、淡い蒼の瞳。優美な美貌の青年は、ゆったりした口調で自己紹介した。
「シルハーク王女、闇華だ。そなたが、エルウィージュの許嫁か?」
「はい」
そのくらいは知っている、と先制したつもりだが、アトゥールは緩やかに微笑むだけだった。何となく拍子抜けした闇華に、リヒトも溜息をつく。
「ここに来るとは、よほどの急ぎの用か?」
リヒトと闇華の朝の散歩は、王宮の者達には微笑ましく見守られている。それを邪魔する行為には、相応の理由があるのだろうと、リヒトが言外に問うと。
アトゥールは、意外なほどあっさり答えた。
「そうですね、急ぎの用件です。何せ、王太子殿下を廃して、私の姫に即位してほしいという嘆願書が、枢密院に提出されそうですから」
アトゥールの淡々とした言葉に驚いたのは闇華だけで、リヒトは短く「そうか」と答えた。
「私は、嫡出ではあるが、母方はレーエンス伯爵家。エルウィージュは、庶子とされてはいるが、シェイエルン公爵令嬢が産んだ王女だ。血筋なら、エルウィージュの方が次期国王にふさわしい。……そういうことだろう?」
「はい。その上、私の姫は、私と婚約なさった。私なら、王配となるにも問題ない身分ですから」
軽やかに答えながら、アトゥールはゆっくり近づいてくる。闇華は、反射的にリヒトの背中に隠れた。
「アンファ?」
「嫌われてしまいましたか。神竜王姫の末裔の姫君、予知の力でもお持ちでしょうか」
アレクシアのように。
揶揄の中に鋭い棘を含ませて、アトゥールはリヒトに告げた。
「王家の貴い血に、東の血を入れるのかと。神竜王の血を入れたいなら、私の姫が産む王子に、アレクシアの産む姫を娶せればよいと。――そう、画策している者がいます」
「アトゥール。私は回りくどいことは嫌いだ。はっきり言ってほしい」
「バシュラール侯爵家当主、クリストフェル」
その名を聞いた時、リヒトの指先が一気に冷たくなったことを、手を繋いでいた闇華だけが感じた。
「御機嫌麗しく、私の姫」
「御機嫌よう、殿下。結果は如何?」
蔵書室で古書を堪能している婚約者に挨拶すると、前置き抜きで返答を求められた。儚くたおやかな容姿を裏切って、この姫は恐ろしく苛烈だ。
「殿下は、そうか、とだけ。公主が、少しばかりお怒りを浮かべられましたね。バシュラール侯があなたの養父だと申し上げたら、いろいろと察せられたようですが」
エルウィージュから少し離れた場所に座って、アトゥールは事務的に報告した。大公にして宰相たる身がいいように使われているのだが、特に気にしない。女の尻に敷かれた方が、婚姻関係は順調なものだ。
「シェイエルン公爵の動きは?」
「バシュラール侯が口説き落としたようですね」
「娘は王妃の座を逃したけれど、孫娘が女王になれるなら、とお思いなのかしら。我が祖父ながら、愚かでいらっしゃること。お会いしたこともないけれど、バシュラール侯爵とは同類だとわかるわ」
薄く微笑んで、エルウィージュは手元の本を閉じた。薄い水色の双眸が、アトゥールを捕える。
「王となるべき教育を何一つ受けていないわたくしを、血筋だけで女王にとは。担ぐ神輿は軽い方がよいものね」
「リヒト殿下は、行動力がおありですからね。思いがけない行動を取られては困る、といった辺りでしょうか」
闇華との婚約も、シルハークとの和睦を強化する為とはいえ、貴族達には反対意見も散見した。だが、はっきりと反対する者はいなかった(反対だと告げることを押しつけ合っていた)ので、リヒトは手続きを進めたのだ。
「……あの時、膿を出し切らねばならなかったのかしら」
「しかし、患者の体はその大手術に耐えられませんでしたよ」
「ならば滅びろと――わたくしが言ってはいけないのでしょうね。世間知らずならではの傲慢ですもの」
淡く笑って、エルウィージュは立ち上がった。初めて会った時より、消え入りそうな透明感が勝ってきた。
「そもそも、神竜王陛下の前で、皆が王に忠誠を誓ったはずなのに」
「新しい王に、ですね。リヒト殿下個人ではない、と言い逃れるようです」
「薬が強すぎたかしら」
おそらくは、贈収賄の証拠を握っているという脅しが効きすぎた。過ぎた薬は劇薬になる。
「私の姫。如何なさる?」
「わたくし、権謀はもうたくさん。王位など、もっと嫌です」
アトゥールの問いかけに、とらえどころのない笑みを返して、エルウィージュは蔵書室を後にした。
最初は、朝の散歩から始めた。王宮の庭園は、美しく手入れされている。エルウィージュがいた庭園の、野生を残した風情の方が闇華の好みだが、口には出さない。庭師の仕事を奪うことになってしまう。
「アンファ。今日はどちらに行こうか」
「東に、梨の花が咲いていると聞いた。見てみたい」
にいさまの名の花だ。そう答えた闇華に、リヒトは気を悪くした様子もなく、ごく自然に彼女の腕を取ってエスコートしてくれる。
「アンファは、本当に兄君が好きなのだな」
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「私は、エルウィージュを妃にしたいとは思わないな。どれほど愛しくとも、妹は妹だ」
「にいさまにもそう言われた」
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「……そうだな。にいさまは、リヒト様に似ているからな」
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「だが、アンファとエルウィージュは似ていないな。エルウィージュは、もう少し私を慕ってくれないものかと思う。あの子は、アレクシアしか好きではないとわかってはいるが」
「エルウィージュに似ている者なら、二人、知っていなくもない」
闇華の答えに、隣を歩くリヒトが歩を止めた。怪訝そうな翡翠の瞳に、闇華は笑った。
「姿ではないぞ。有り様が似ている」
「有り様?」
「己が定めた一人以外はどうでもいい、という態度がな。亡くなった兄上の側近で、今はにいさまに仕えている蓮汎にそっくりだ」
「あと一人は?」
「シルヴィス。あれも、あなた以外はどうでもいいと思っていよう?」
闇華が指摘すると、リヒトは屈託なく笑った。
「シルヴィは私に甘いが、それは亡くなった母君への愛情でもある。アレクシアに惹かれてもいた。私だけ、ではない」
「未来視の姫は、あなたとエルウィージュ、シルヴィス、それからにいさまにも好かれているのか」
男女問わずに愛されている。陽だまりのようなあの笑顔は、愛される者ならではのものだった。闇華は、あんなふうに笑えない。
「そうだな。そして何より、先代神竜王に」
「違いない。妾はな、リヒト様。愛し愛されるあの姫が羨ましい。愛しいと、愛する人にそう言えることが、たまらなく羨ましい」
闇華の声は、平坦だ。感情を抑制してのものだと、リヒトは気づいた。
「だからあなたも羨ましい。妹姫に、愛していると言えるあなたが」
闇華の想いは、にいさまを困らせる。だから口にできない。
「あなたは優しいな、アンファ」
「妾が? 優しい?」
何を言っているのだ、と顔を上げた闇華の視界に、輝く光を纏った王子がいた。綺麗な色の瞳が、闇華を見ている。
「あなたの想いに応えられない兄君のお気持ちを、己の気持ちより大切にしている。そうできる人は優しいと、私は思う。私は、相手の気持ちを察することが下手だから」
「リヒト様は、優しいと思うぞ」
少なくとも、いつも相手に誠実であろうとする。空回りだとしても、その真摯な姿勢は貴いと、闇華は思う。
「押しつける優しさは、ただの自己満足だ。むしろ暴力だ。……エルウィージュに、また押しつけてしまった。嫌なことがあると身内に甘える悪癖は、直したいと思っていたのに」
情けない、と吐息に絡めた言葉が漏れる。闇華が沈黙で先を促すと、リヒトは少しずつ話し始めた。
「私の母は――伯爵家の娘なんだ。本来なら、王妃になれる身分ではなかった」
「ああ。聞いたことはある。だが、それは、シルヴィスの父御である先代の大公が後見となることで、解決したのではなかったか?」
「しているとも、していないとも言える。母は、レーエンス伯爵の娘だ。母は亡くなったが、祖父は健在だ。――だから、私が即位したら、レーエンス伯爵は国王の外祖父ということになる。それをよく思わない者もいる」
確か、上から公侯伯子男という身位だったか。その上に王族でもある大公があり、更に上が王家だ。
闇華は、ヴェルスブルクの貴族達をまだあまり知らないが、中ほどの身分の者が、王の外祖父となると、いろいろ面倒なのだろう。
近親婚を繰り返しているシルハーク王家でも、父様の異母姉が産んだにいさまが、従妹でしかない美英様の産んだ香雪兄上より下位に置かれたことに、諸侯達が大騒ぎしたと聞いている。
にいさまの母君は、おじいさまに王女として認知されておらず、また、ご後見が弱かった。もし、にいさまの母君の養父母が、尚書かそれに次ぐくらいの家柄だったら、にいさまが立太子していたはずだ。
「大公家、公爵家や侯爵家の者が、ということか?」
「大公家は、ヴェルスブルクには二つあるが、どちらも、この件は特に問題視していない。シェーンベルク大公は、俗世に関心が薄い。ナルバエス大公家――シルヴィにとっても、レーエンス伯は祖父君だ。五つの公爵家も、似たようなものだと思う。私の妃は、シルハークの王女であるあなたになった。私の子に、自分達の孫娘をと思ってはいるだろうが」
しかし、公爵家の筆頭家格であるラウエンシュタイン家は、跡取りであるアレクシアのお相手が「先代」とはいえ神竜王だ。生まれた子は半神半人となる。成人した時に、神竜か人かを選ぶのだが、もし人であることを捨てられたら、家名が断絶する。
そういうわけで、ラウエンシュタイン家は、未来の王妃を画策する余裕はない。公爵夫妻は、アレクシアに「神竜王陛下にも、こちらでお過ごしいただけるようにする、できるだけ早く帰ってきてくれ」と手紙を書きつづっているらしい。
ならば、他の公爵家が我が娘を王太子妃にと手を挙げるものだが、クルムバッハ公爵家は断絶した。他の公爵家も、「無理に今回婚姻させる必要もない」と、特に焦っていない。最高位の貴族である彼らは、先祖が王家と婚姻しているし、今後も子孫には王族との婚姻の可能性が十分にあるからだ。
「では、問題は――侯爵家か?」
「そうだ。自分達のすぐ下の爵位から、王妃が出た。それだけでも腹立たしいのに、その王妃の子が王太子となり、今度は王となる。己より下位であるはずの伯爵が、王の外祖父となる。それが許せないらしい」
「……そやつらは、阿呆なのか?」
「わからない。アトゥール……宰相でもあるシェーンベルク大公に相談したんだが」
アトゥールの答えは単純明快だった。
――生まれながらに王族である殿下、大公家の跡取りであったシルヴィス、そして私。この国でも屈指の身分を持つ我々に、持たざる者の思考など、わかるはずがありませんね
「なるほど。わかりやすい」
闇華も、シルハークの公主として生まれた。自分より上位の公主は、香華だけだった。父様が、年若い女官達に産ませたたくさんの異母妹達のことは、正直、さほど覚えていない。
「持つ者は、持たざる者の気持ちはわかりづらい。……それで? リヒト様は、何がお嫌だったのだ?」
「……私は、エルウィージュを傷つけたくない。正確には、怒らせたくない」
「リヒト様?」
闇華の疑問に答えるように、リヒトは歩を止めた。そして、振り返る。
「……おいでなのだろう、アトゥール。私の許嫁を存分に眺めた上で、挨拶はできぬとおっしゃるか?」
「いいえ。そのような非礼は、決して」
リヒトの声に応じたのか、闇華達のずっと遠くに、銀細工の青年が姿を見せた。
――エルウィージュが月光の姫なら、この青年は月の神か。
そう思うほど、彼女に似通った雰囲気を纏っている。異母兄であるリヒトより、彼女に親しい。
「アトゥール・ヴァレリー・ルア・シェーンベルクと申します、東の国の姫君」
銀の髪、淡い蒼の瞳。優美な美貌の青年は、ゆったりした口調で自己紹介した。
「シルハーク王女、闇華だ。そなたが、エルウィージュの許嫁か?」
「はい」
そのくらいは知っている、と先制したつもりだが、アトゥールは緩やかに微笑むだけだった。何となく拍子抜けした闇華に、リヒトも溜息をつく。
「ここに来るとは、よほどの急ぎの用か?」
リヒトと闇華の朝の散歩は、王宮の者達には微笑ましく見守られている。それを邪魔する行為には、相応の理由があるのだろうと、リヒトが言外に問うと。
アトゥールは、意外なほどあっさり答えた。
「そうですね、急ぎの用件です。何せ、王太子殿下を廃して、私の姫に即位してほしいという嘆願書が、枢密院に提出されそうですから」
アトゥールの淡々とした言葉に驚いたのは闇華だけで、リヒトは短く「そうか」と答えた。
「私は、嫡出ではあるが、母方はレーエンス伯爵家。エルウィージュは、庶子とされてはいるが、シェイエルン公爵令嬢が産んだ王女だ。血筋なら、エルウィージュの方が次期国王にふさわしい。……そういうことだろう?」
「はい。その上、私の姫は、私と婚約なさった。私なら、王配となるにも問題ない身分ですから」
軽やかに答えながら、アトゥールはゆっくり近づいてくる。闇華は、反射的にリヒトの背中に隠れた。
「アンファ?」
「嫌われてしまいましたか。神竜王姫の末裔の姫君、予知の力でもお持ちでしょうか」
アレクシアのように。
揶揄の中に鋭い棘を含ませて、アトゥールはリヒトに告げた。
「王家の貴い血に、東の血を入れるのかと。神竜王の血を入れたいなら、私の姫が産む王子に、アレクシアの産む姫を娶せればよいと。――そう、画策している者がいます」
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その名を聞いた時、リヒトの指先が一気に冷たくなったことを、手を繋いでいた闇華だけが感じた。
「御機嫌麗しく、私の姫」
「御機嫌よう、殿下。結果は如何?」
蔵書室で古書を堪能している婚約者に挨拶すると、前置き抜きで返答を求められた。儚くたおやかな容姿を裏切って、この姫は恐ろしく苛烈だ。
「殿下は、そうか、とだけ。公主が、少しばかりお怒りを浮かべられましたね。バシュラール侯があなたの養父だと申し上げたら、いろいろと察せられたようですが」
エルウィージュから少し離れた場所に座って、アトゥールは事務的に報告した。大公にして宰相たる身がいいように使われているのだが、特に気にしない。女の尻に敷かれた方が、婚姻関係は順調なものだ。
「シェイエルン公爵の動きは?」
「バシュラール侯が口説き落としたようですね」
「娘は王妃の座を逃したけれど、孫娘が女王になれるなら、とお思いなのかしら。我が祖父ながら、愚かでいらっしゃること。お会いしたこともないけれど、バシュラール侯爵とは同類だとわかるわ」
薄く微笑んで、エルウィージュは手元の本を閉じた。薄い水色の双眸が、アトゥールを捕える。
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