もう一度、君だけに恋を

神城葵

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 その夜、玲のスマホが鳴ったのは午前零時を回った頃だった。知らない番号だ。玲は一度無視したが、すぐにまたかかってきた。

「……はい?」
『おまえ、今どこにいる』

 低く重い、氷のような声。
 月嶺隆司りゅうじ──玲の父、月嶺コンツェルン総帥だった。

「自宅です」
『今から来い。車を向かわせる』
「明日でも──」
『今だ』

 電話は一方的に切られた。玲は溜息をついて着替え、コートを羽織った。迎えの黒いセダンは、マンションのエントランスで待っていた。
 運転手は無言で、助手席には父の秘書、内海が座っている。碌な用件ではなさそうだと思いながら後部座席に座ると、車は夜の首都高を抜け、超高級住宅街に向かった。
 月嶺家の本邸──玲が物心ついた頃から「家」と呼ぶにはあまりにも広すぎる屋敷だ。桜と花見した時は、あんなに心が躍る場所だったのに。
 夜遅くの帰宅にも、使用人達が丁寧に出迎える。父は書斎にいるらしい。
 重厚なマホガニーの扉が閉まる音が、背後で鈍く響く。書斎の中では、暖炉の火が赤く揺れていた。
 隆司は、革の肘掛け椅子に深く腰掛け、琥珀色の液体をグラスで揺らしている。六十歳を過ぎても、背筋は真っ直ぐで、眼光は鋭い。

「座れ」

 玲は無言で向かいの椅子に腰を下ろした。沈黙が続く中、静寂を破ったのは隆司だった。

「朝比奈桜という女だな」

 玲のこめかみが、ぴくりと動いた。父の声音に、好意的なものはまったくない。

「いつからだ」
「十ヶ月前に再会して、正式に付き合い始めたのは──」
「そんなことは聞いていない」

 グラスがテーブルに置かれる音が冷たく響いた。

「いつから、おまえがそんな下らないことに時間を割いているのかと聞いている」

 玲は息を呑んだ。父は、すべて知っていた。
 桜の勤務先、住所、家族構成、大学時代の交際の事実まで。
 玲がどれだけ慎重に隠そうとしても、父の手が届かない場所など、この国に存在しない。

「俺の個人的な交際です」
「個人的?」

 隆司が鼻で笑った。

「おまえは月嶺家の長男だ。個人的なことなど、一つもない」
「それは──」
「反論は許さん」

 声は低く、しかし絶対的だった。命じることにだけ慣れた、傲慢な声だ。

「その女は、おまえには相応しくない」
「……どこが、ですか」
「すべてだ」

 隆司は一枚のファイルを机上に滑らせた。

「父親は地方公務員、母親はパート。兄弟なし。資産は──まあ、普通のサラリーマン家庭だ。おまえが次期総帥として迎えるべき相手ではない」

 玲はファイルを手に取らず、父を見据えた。

「俺は、桜と結婚するつもりです」

 初めて、隆司の目が細められた。暖炉の火が、ぱちりと爆ぜる。

「結婚?」
「はい」
「ふざけるな」

 声に怒気が宿った。父の視線は、鋭さを通り越えて剣呑なほどだ。

「おまえは来年四月、正式に副社長に就任する。三年後には社長、いずれは総帥だ。その時に横に並ぶ女が、あんな平凡な家の娘でどうする」
「平凡で何が悪いんですか」
「月嶺の家に相応しくない」
「俺は、月嶺の名より、桜を選びます」

 一瞬、書斎の空気が凍った。父はゆっくりと立ち上がる。背が高く、威圧感は衰えていない。

「おまえは、自分の立場がわかっているのか」
「わかっています」
「なら、別れろ」
「嫌です」

 答えは即答だった。父の目が、初めて本当の怒りに染まる。

「玲」

 低い声で名前を呼び捨てられた。幼い頃から、これを聞いた時は絶対に従わなければならなかった。

「おまえは月嶺家の長男として生まれた。それが運命だ。個人的な恋愛など、許されない」
「俺は、もう決めた」
「決めた?」
「桜と、生きていくって」
「馬鹿な」

 父は吐き捨てるように言った。

「おまえにとって、その女がどれだけの価値があると思っている? おまえが捨てるものの重さがどれほどのものか、わかっているのか?」

 玲はゆっくりと立ち上がった。父を見下ろす形で、静かに告げる。

「桜は、俺のすべてです」
「…………」
「俺が捨てられるものなんて、もう何もありません」

 暖炉の火が、最後に大きく爆ぜた。父が深く息を吐く。
 それ以上は話し合う余地すらなく、玲は無言のまま書斎を出た。アプリでタクシーを手配して、自宅に帰ることにした。ここは玲の実家だし自室もあるが、やすらげる場所ではなくなっていた。

 ──桜。

 会いたい。彼女以外、何もいらない。
 そう思うことすら許されないのだろうか。
 父がこのまま諦めるとは思えない。対策を考えないと、また桜と離れることになりかねない。
 それだけは、耐えられない。
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