菓子侍

神笠 京樹

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二、包丁侍水野安左衛門

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「藩主様が国許へお戻りになられた。ついては、その方に特別の務めが仰せ付けられる」
「は」
 と、返事はしたが、伊予松山藩御膳番預り御料理人・水野安左衛門は一体これは何事かと不審の念を隠せなかった。
 なるほど藩主、定行公は長崎での大事な任を終えられて、松山へ御帰城になられた。御帰城になられたからには、以前通りの職務が自分には待っているものだとばかり安左衛門は思っていた。つまり殿のお料理を作るのである。それが自分の役割のはずであった。
 藩主様の長崎での大事な任務というのが具体的にどういう何であったのか、安左衛門にはよくは理解できなかったし、特に興味があるわけでもなかった。彼はただの二人扶持九石取の料理人、包丁侍の端くれである。藩主様の御口に入る御膳を作っているのだから名誉な役職ではあるのだが、いま目の前にいる直属の上役、御膳番水野勘之丞様の下には何人もの包丁侍がいて、同じ勤めに当たっている。ちなみに同じ水野姓を名乗るのは同じ一族だからである。伊予松山藩の上士下士には水野家の一族に連なるものは大勢いた。安左衛門はどちらにせよ、その末席に連なる身に過ぎぬ。
「念の為聞くが、そなた、たると、というものを存じておるか?」
「いえ、全く存じ上げませぬ」
「うむ。そうであろうな。何しろ拙者とて知らぬのだ」
「然様で御座いますか」
「たるとは無理でもな、かすていらならば知っておろう?」
「南蛮菓子のかすていらで御座いますか。それはもちろん、存じております。松山でも、古町の井筒屋が商っておりますな」
 古町は松山城下の一角にある町の名である。城のすぐ近くであった。
「食したることはあるか?」
「残念ながら……失礼ながら拙者如きの禄にては、とてもとても購える価には非ざるものと聞き及んでおりますが」
「うむ。そうだろうな。であるからしてここに、とりあえずまず一棹用意した」
勘之丞は布包を取り出し、安左衛門の前に置いた。
「御下賜に御座いますか」
「いいや。これは、そなたにかすていらについて知ってもらわねばならぬからだ」
安左衛門にも段々と話は見えてきた。
「つまり、拙者に殿にてお召し上がり頂くかすていらを作れとの御下命に御座いましょうか」
「それが、違うから困っておるのだ」
「は」
 話がまた見えなくなった。
「そもそもこれは、奥平様からの御下命なのだ」
「なんと」
 奥平藤左衛門は伊予松山藩の筆頭家老である。筆頭家老からの命令というのは、藩主直々の命令である、というのとほとんど同義であると言えた。そのような命令が自分の元に届くのは、まだ若い安左衛門にとっては初めての経験であった。
「水野安左衛門」
「はっ」
「そなたは、たるとを作れ。これは奥平様の、そして殿の御上意であると心得よ」
「ははっ」
 これも武士のお勤めであるから返事だけは景気よくせざるを得ないが、内心これはえらいことになった、と安左衛門は思っていた。
「恐れながら伺いたき儀が御座います」
「腹蔵なく申してみよ」
「奥平様にては、たるとなるものをご存知なのでしょうか」
「それが、奥平様も知らんそうなのだ」
「……恐れながら」
「いや。皆まで聞かんでよい。言いたい事は分かる。たるとが何なのか知っているのはな、たった一人だけだ。殿だけが、殿たったお一人だけが、実際にそれをお召し上がりになったそうだ。長崎で」
 安左衛門は戦慄した。戦慄の故に問いを重ねずにはいられなかった。
「恐れながら長崎の、いずこにてのことかはお分かりなのでしょうか」
「それがな」
「は」
「南蛮の船の上で、だそうだ」
 安左衛門の戦慄はついに恐懼に変じた。
「まさか……」
「そうよ。こうとなっては、わしもそなたも一蓮托生。その南蛮の未知なるたるとなるもの、見事作りおおせねば、そなただけではなくわしも、この腹で始末を付けねばならぬであろうな」
 安左衛門は自分の身体が宙に浮き、何かこの世のものではなくなったような気がした。安左衛門はまだ若い。彼が生まれてからこちら起こった戦といえば島原の乱くらいなものだし、それにも参戦する機会など当然なかったから、安左衛門は戦を知らぬ世代の侍である。なるほど包丁侍の御役目だとて日頃から命を懸けて邁進しているというつもりはあったのだが、いざ自分の命が現実的に危うきに及ぶというのはかくも浮世を離れた心地のするものか、と安左衛門は思った。
 その夜、帰宅した安左衛門は、まず白無垢に着替えて水垢離をした。身を清めるのである。そして、家人が唖然と見守る前で、おもむろにかすていらを切り分け、まずひと口を食した。
 美味であった。甘露であった。柔く、そしてしっとりとした弾力があった。しかしその味覚の官能を愉しんでおる余裕などは無論ない。全身全霊をかけて、かすていらの味をこの舌に覚えさせねばならぬ。そして、この味を再現できるようにせねばならぬのだ。それだけでも大事だというのに、しかもそれは通過地点に過ぎない。
 筆頭家老の奥平藤左衛門はたるとの現物を賞味してもいなければ見てすらもいないが、流石にもちろん藩主松平定行から話を聞かされてはいる。その最低限の伝聞情報は安左衛門の手元にももたらされていた。なんとなれば、安左衛門の家格では定行から直に言葉を賜るなどは以ての他の事であったから、又聞きに頼るより他どうしようも無かったのである。
 その伝によれば、まずそのたるとなるもの、基本的にはかすていらの生地を用いるのであるという。ただ、並のかすていらと異なる事には、それは巻き物のように巻かれていた。そしてもう一つ、これが非常な難題なのだが、かすていらの生地が、何か酸味と甘味のある黄色のものを巻き込んでいた、というのである。
 なお、結論から言ってしまえばそれは、ジャムであった。はるばるポルトガルから南蛮船に乗せられて運ばれてきた、保存用に砂糖で煮た果実であった。いや、西班牙に産するバレンシアオレンジのジャムであるから、つまりはマーマレードと呼ぶべきであるかも知れない。ただ、17世紀のこの当時、欧州にマーマレードという言葉があったかどうかがまず歴史の闇の彼方の事である。
 英語のマーマレードの語源はポルトガル語のマルメラーダすなわちマルメロのジャムであったというのが通説であるが、その成立時期については今日なお詳らかではない。いずれにせよこれらの事は安左衛門たちには何をどうあがいても到達し得ない情報であるから、分かりやすくジャムという呼称で通すこととしよう。
 さて、安左衛門である。一口食べた後、安左衛門はさらにかすていらを切り分けた。それも、二切れ目を切ったのではない。本来切る向きとは直角に、つまりかすていらの平たい面を水平に切り取ったのである。
そして、試しにそれを巻こうとしてみた。もちろん手運びは慎重であったが、しかし巻くなどという所業を加えるにはあまりにもその井筒屋のかすていらの弾力は少すぎた。途中で折れる。
 二切れ目、今度はさきほどよりも薄く、安左衛門はかすていらを削いだ。そして、さっきよりもさらに慎重な手運びで、まろめようとする。だが、無理であった。かすていらの薄切れは、途中でみりりと折れた。
 三切れ目、もう一度試すかどうか迷ったが、安左衛門は結局それを止めた。明らかに無理だ、ということくらい二回も試せば十分に分かったからである。
さて、少なくとも井筒屋の店頭に並ぶかすていらでは巻き物は作れない、という事は判明した。焼き立てのうちに試せばどうか? 焼き加減や材料の調合を変えてみてはどうか? 疑問は尽きなかったが、そもそも殿の召し上がったたるとなるものが「かすていらで何かを巻いたものである」という伝が真なるか否かを疑う事も出来たから、考えつめればきりがなかった。
 ただ、かすていらそのものではないにしても、かすていらに似たものであることだけは、まず疑いがなかった。藩主定行様は長崎奉行として結構な期間長崎におられた。長崎奉行は幕府の特別な役職であるから、その日々の膳は現地の佐賀藩がこれを担うのだが(だから包丁侍の安左衛門は長崎への同行を命じられる事も無かったのである)、かすていらは佐賀藩の名物であるからして、三日と空けずにかすていらが食膳に並べられたそうなのである。従って、定行にはかすていらについての知識は十分にあったことになる。
 ただ、疑問点も一つあった。たるとがそんなにかすていらに似ているのならば、定行は何故、上の品であるとはいえ食べ慣れたものに似たものであるに過ぎないたるとなるものにそうまでの感銘を受け、自藩にてその再現を試み、安左衛門らに無理難題が降り下ってくるなどという事態が生じるに至ったのか。
 かすていらならば、松山市中でも売られているのである。かすていらに似たものならば、かすていらでいいではないか? 何故、殿はかすていらではなく、たるとをあえて所望するのか? そこにある違いというものは、一体何であるのだろうか。
 まあ、安左衛門がいくら考えても考えただけで分かるものではない。ともあれ、目指すところがかすていらそのものであれ、それに似た別のものであれ、まずかすていらが作れるようになるに越した事はなかった。
 かすていらの製法であれば、もちろん店ごとに門外不出の部分はあるのだろうが、しかし書に記されて出回っている部分もあった。公金を予算として使える立場を与えられた安左衛門は、まずは書物をかき集めてかすていらについて研究を始める事にした。
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