3 / 3
知りたい気持ち
しおりを挟む
「おはよう。変わりは無い?」
ブルルと鼻を鳴らし、頭をすり寄せてくるフィーナの頬を優しく撫でる。
朝のブラッシングをしながら体調のチェックをしたあと、食事を摂らせて馬房から庭園に離し、その間に厩舎の掃除をすることが、ゼノフィリアスの日課だった。
この国の王子ともあろう人が、馬小屋の掃除などやめてくれと何度ライオネルに叱られても、好きでやってるんだから邪魔しないでくれと突っぱね、やっと彼が小言を言うことを諦めたのがつい最近の事だ。
その様子をアナベルは他人事のようにケタケタと笑って見ているものだから、余計にライオネルの導火線に火が付き、周りのものたちは幾度も、とばっちりを喰らっている。被害者は主にライオネルの隊の部下たちだ。そういった日の訓練メニューは、やたらとハードになるらしい。
他の使用人たちはいつもの光景だとばかりに、その光景を微笑ましく見ていたが、奔放すぎる王子にライオネル自身は、心労でどうにかなりそうだと小言が尽きないでいた。
「おはよう、クリス」
「ゼノフィリアス王子、おはようございます。」
“ルオント“の敷地内にある室内庭園に入り温室の扉を開けると、薬草の採取を行なっていた宮廷薬剤師見習いのクリストフ・ドナが、こちらを見上げる。
なるべく自然な環境で治療をするために、軽傷の保護動物たちは外の庭で放し飼いをしている。室内庭園では、もうすぐ自然に帰せそうな子や、経過観察中の子の治療を主に行い、病状の重いものはゼノの診療所に併設されている病室で、ゼノが寝泊まりしながら世話をすることもあった。
「コルッカの実、育ったかな?少し分けて欲しいんだけど。それと、おすすめのハーブある?」
「はい、さっき採ったばっかりですので、お好きなだけ!··············彼女は·····まだ目を覚まさないんですね?」
言われて眉尻を下げ微笑む。
あの半獣の少女を拾ってから4日目の朝だった。しかし彼女の目が覚める気配はまだない。
宮廷の薬師たちの中でも、まだごく一部の人間にしか彼女の存在を話してはいない。半獣は存在自体が珍しく、ゼノのように初めて見るものも多い。そのため、いらぬ騒動を引き起きしかねないからだ。
彼女の目が覚めない今は、もうしばらく静かにしておいてあげたかった。
クリスは薬草学を熟知していて、まだ薬師見習いながらもその知識量は皆から一目を置かれるほどだった。
ゼノはよく彼から薬草を分けてもらっている。最近では眠っている彼女が安心するように、そして早く目覚めてもらえるようにと、安らぎの効果があるハーブや花を聞いては、部屋に置いていたのだった。
室内庭園で過ごしている動物たちの怪我の経過を診てから、それぞれに食事を与える。
朝の掃除は既にクリスが行ってくれていたので、礼を述べ、もらったコルッカの実とハーブ、いくつかの薬草を抱え、隠れ家へ向かった。
なるべく音を立てないように部屋に入ると、さっそくキッチンへ向かう。
先ほどのコルッカの実で足りなくなった薬を作るのだ。
実を潰して汁を出し、種と皮をわける。棚にあるいくつかの薬草と汁を煎じる。それを冷ますと傷によく効く薬ができる。
全て薬室長のアナベルから教え込まれた事だった。
煮立った薬を冷まそうと容器に入れ、少し息をつく。ふと、奥の部屋へ視線を向けた。
ゼノはここを隠れ家として、朝から晩まで動物たちの世話をし、遊び、薬草や医療について学んでいる。
必要なあれこれを小屋に運び入れ、次第にここで過ごす時間が多くなっていた。
同じ敷地内とは言え、あまりにも城を不在にする王子に彼を溺愛する双子の姉たちは彼を心配し、恋しがった。
自分の食事もそこそこで、動物たちのために動いてしまう彼にせめて、夜だけは城でちゃんと食事を摂るようにと言い付けが出たのだ。
それからというもの、容体の思わしくない動物がいない限り夜は城で過ごしていたが、最近は専らこの隠れ家に入り浸っている。
奥の部屋と繋がる扉をそっと開けると、彼用のベットが一つ。
ゼノが、主に重傷の患者を看るために置いたものだったが、今、そこには彼女が眠っている。
銀色の耳と尻尾を持つ半獣の少女。
あの日からずっと眠り続けていて、未だその意識が戻る様子はない。
当初は顔も酷く殴られて、片目は目蓋も開けられない程腫れていたが、薬が効いたのか徐々にそれも引いてきているようだ。
彼女はどんな瞳の色をしているのだろうか。
どんな声で話して、どんな風に喋るのだろうか?
そもそも、半獣はヒトの言葉がわかるのか····?
もしかしたら半獣専用の言葉があるのだろうか?
初めて対峙する生物に最初こそ好奇心が優ったが、今ははやく起きている彼女が見たくて、話をしてみたくて、たまらなかった。
まだ目覚めぬ少女に対して、ゼノはその想いを募らせていったのだった。
サイドテーブルへ先程のハーブを飾ると、その優しい香りが鼻腔に広がり、胸の高鳴りが凪いだ気がした。
━━━━━━━━━━━
カビ臭い路地を進んだ先にある、古ぼけた看板の店に入る。
もう何年も油の刺していない扉はギイィと耳障りな音を立てた。
「いらっしゃい、······なんだ。またあんたか。」
狼獣人の店主は、チラリと客を見るなり、不躾な態度でその客を出迎えた。
「何度来たって同じさね。売れるものはない。」
濁声を響かせ、キッパリとそう言うなり乱暴に広げた新聞に視線を落とす。
「入り用でして。あとこれだけ、何とか用立てて欲しいのですが。」
客の男は、指を2本立てて店主に問う。
黒い外套に身を包み、フードを深く被り顔を隠しているため表情は確認できないが、その喋り口調はひどく穏やかで、どこか気品さえも感じ取れるようだった。
王都から少し離れた西側に位置する街。
その街の市場にある一軒の酒場は、とても人当たりの良い店主が切り盛りをしている。
一見なんの変哲もないその“至極“普通のバーには、ある秘密があった。
ある曜日の、ある時間に‘’合言葉“と、店主が欲する“あるもの“を提示した者のみが入ることを許される扉がある。
その扉をくぐり地下へ続く階段を降りると、そこにはその街には存在しないはずの、もう一つの市場があった。
ここはいわゆる“闇市場“と呼ばれる場所で、表沙汰にはできないような商品の販売や、違法な武器や輸入品などの取引を行っていた。
憲兵たちの目を掻い潜るため、闇商人たちはなんの変哲もない酒場の隠された地下通路に店を出し、取引場所としていた。
そのため秘密が漏れることのないよう、時間や曜日、提示するものを細かく決め取引相手を慎重に選別していたのだった。
そんな悪行が蔓延る陰湿な雰囲気の場所に、その男の存在は少し異様な気さえもする。
「2!? 2なんてとんでもない。無理だね。」
強い口調で声を荒げた店主に、男は僅かばかり溜息をこぼした。
仕方ないとばかりに肩をすくめ、自身の外套に手を差し入れる。
「前金として、受け取ってもらえませんか?」
男は懐からいくつか札束を出し、カウンターに置く。
店主は一瞬ギョッとするも、チラチラと金と新聞を交互に見て視線を泳がせる。
「ダメダメ、こんな金じゃ動けないね。···あんた知らないのか? ここ3、4日前から急に憲兵団が動き出したって話。 お陰でうちのも何人かやられちまってね、今ごろ奴らは檻の中よ。…まったくとんだヘマをしてくれた。これじゃあ聞いての通り、商売にならん。」
悪態をつきつつも、客の様子を伺うように、金ばかりではなく男の方へも視線を向ける。
男はまた溜息をつきながら、
「いいですか?これはあくまで“前金“です。 用意してくれたらこの3倍お出ししますよ。」
「······さっ!? ·········し、しかし·········言ったろ?何人か捕まったって。現実的に人員不足で····。」
店主の目が一瞬輝きに満ちるも、すぐにしゅんとその尻尾はしな垂れてしまった。先ほどまでの横柄な態度とは打って変わって、しゃがれ声でバツが悪そうにモゴモゴと話す。
目の前の金を前に、実に、それはもう実に残念そうな店主を見下ろし、男はこれ見よがしにまた、小さくはぁとため息をこぼすと、持ってきていた革製の鞄を店主に広げて見せる。
中には大量の札束が詰め込まれていた。
「残念です。実は…もしも足りなかった分として今これだけ手元にあるのですが·········。仕方ないですね、前金も全て、これらは持って帰るとしましょう·········。では、また。」
「ま、待ってくれ!!」
男がカウンターに置かれた札束をカバンの中へ詰めようとすると、店主は勢いよく立ち上がり、その手を止めた。
男は掴まれた腕を見やり、フードの奥でニヤリと口角を上げる。
「···········わかったよ、ただし、時間をくれ。すぐには無理だ。·····人員の確保と、憲兵団の網を掻い潜る手立てが必要だからな。」
「········1ヶ月のうちにせめて1はお願いしますよ。」
「1ヶ月!?短すぎる! 元々そんなに頻繁に捕まるような種族じゃないんだぞあいつらは!1年で1匹捕まえられたらいい方さ!あんたも知ってるだろう!?」
「·········仕方ないですね。では半年以内に。ひと月でも早く差し出してくれたら、…そうですね、ボーナスをあげますよ。しかし、1日でも遅れたら減額していきます。どうです?」
「半年以内に1匹だと·········?」
「いいえ、半年以内に2匹ですよ。 それ相応な金額を提示しているはずです。できなければ他へ行くまでですが······もちろん、やってくれますよね?」
店主は一瞬襲い掛かりそうな目の色を男に見せたが、剥き出しそうな狼の牙をグッと押し隠し一言、「わかった」と呟く。
それを聞いた男は口元の笑みを深くすると、手にしていた札束を再びカウンターに置いて、「では良い報告を期待していますよ。」と去り際に店主に優しく投げかけ、錆び付い扉をまたギィと鳴らして店を後にした。
店主は男が店を出て行くと、扉に向かって舌打ちをし酒瓶を投げつけた。
━━━━━━━━━━━
本当は、優しい声が何度も聞こえていた。何度も語りかけてくれていた。
けれども起き上がる気力が無くて、もういっそのこと、このまま海底に沈むように、静かに眠り込んでしまいたかった。
こんなにゆっくり眠るのは初めてかも知れない。
夜はいつも冷たく、暗く、怖いものだったから。
それでも何度も何度も語りかけてくる声に、不思議と嫌悪感はなくて。なぜだか暖かく感じるそれに、ほんの少し応えてみたくなった。
まるで引き寄せられるかのように、沈んでいた意識が徐々にはっきりとしてくる。
腕がふわふわと浮いているような、そんな違和感を感じた。
瞼を開けたいが、重たくてなかなか開けられない。
朝なのだろうか。窓からの日差しが少し目に辛い。
黒い影が見える。自分の腕に何かを巻きつけている。
なに?
しぱしぱと心許ない瞬きを何回か試し、ぼんやりとした意識の中でその影を見つめる。
すると影は段々と人型を保ち、こちらに気がつく。
「やあ、起きたね。まだ動かないで、傷が開くから。」
黒の中に深い青が混じった色の瞳をした、顔立ちの良い青年がこちらを見おろしている。
ぼーっとする頭と、はっきりしない視界の中で何も考えられずにいると、「少し身体を診せてね。」と、体温や心音などの確認を終えた後、彼は「待ってて。」と言い残し部屋から出ていってしまった。
ぽつんとひとり部屋に残され、視線だけを動かして辺りを見回す。
柔らかな笑みを向ける青年と、腕に巻かれた純白の包帯。柔らかなベッドに暖かい毛布。
まだ覚醒し切れていない頭で考えを巡らせるが、何故自分がこの状況になっているのか全く理解できずにいる。
知らない場所に知らない匂い。
色々な薬品と薬草と、枕元に飾られている可愛らしい花のいい香り。
包帯を巻かれている左腕は折れているのか、固定されて上手く動かせない。
右腕に施された点滴の雫が、ポタポタと規則正しく落ちている。
「~~~~~っはあぁーーー。」
パタンと後ろ手で閉めた扉に寄りかかり、ゼノは声にならない息をつく。
待ち望んでいた少女の目覚めに、心臓が早鐘を打つ。
自分の態度はおかしくなかっただろうか?変なことは言っていないよな?
なんだか二人きりの空間がいたたまれなくてすぐに部屋から出てきてしまったけど·····知らない男が腕に包帯を巻いて体を診るなんでマズっかったかな。医療をかじってるくらい言えばよかったかも·········
と、悶々とした想いが次々と浮かんで訳もなく不安に苛まれる。
額に手を当てて、少し考え深呼吸をした後、
アナベルを呼ぼう·····と、ふらふらとした足取りで部屋の窓を開けた。
窓台には、小さな鉢植えにピンク色の花が咲いている。その花弁をひとつ取り、掌に乗せ花弁送りの呪文を唱えた。宮廷内の薬室長室か調合室か温室か図書室か····城の中にはいるものの、場所までは定まっていないアナベルを呼ぶ際の連絡手段としていたものだ。
ふっ、と呪文を唱えて息をかければ、花弁はその風に乗って、意思を伝えたい人の元へ行く。
······のだが、ゼノはそれを思いとどまり、窓を閉めた。
ブルルと鼻を鳴らし、頭をすり寄せてくるフィーナの頬を優しく撫でる。
朝のブラッシングをしながら体調のチェックをしたあと、食事を摂らせて馬房から庭園に離し、その間に厩舎の掃除をすることが、ゼノフィリアスの日課だった。
この国の王子ともあろう人が、馬小屋の掃除などやめてくれと何度ライオネルに叱られても、好きでやってるんだから邪魔しないでくれと突っぱね、やっと彼が小言を言うことを諦めたのがつい最近の事だ。
その様子をアナベルは他人事のようにケタケタと笑って見ているものだから、余計にライオネルの導火線に火が付き、周りのものたちは幾度も、とばっちりを喰らっている。被害者は主にライオネルの隊の部下たちだ。そういった日の訓練メニューは、やたらとハードになるらしい。
他の使用人たちはいつもの光景だとばかりに、その光景を微笑ましく見ていたが、奔放すぎる王子にライオネル自身は、心労でどうにかなりそうだと小言が尽きないでいた。
「おはよう、クリス」
「ゼノフィリアス王子、おはようございます。」
“ルオント“の敷地内にある室内庭園に入り温室の扉を開けると、薬草の採取を行なっていた宮廷薬剤師見習いのクリストフ・ドナが、こちらを見上げる。
なるべく自然な環境で治療をするために、軽傷の保護動物たちは外の庭で放し飼いをしている。室内庭園では、もうすぐ自然に帰せそうな子や、経過観察中の子の治療を主に行い、病状の重いものはゼノの診療所に併設されている病室で、ゼノが寝泊まりしながら世話をすることもあった。
「コルッカの実、育ったかな?少し分けて欲しいんだけど。それと、おすすめのハーブある?」
「はい、さっき採ったばっかりですので、お好きなだけ!··············彼女は·····まだ目を覚まさないんですね?」
言われて眉尻を下げ微笑む。
あの半獣の少女を拾ってから4日目の朝だった。しかし彼女の目が覚める気配はまだない。
宮廷の薬師たちの中でも、まだごく一部の人間にしか彼女の存在を話してはいない。半獣は存在自体が珍しく、ゼノのように初めて見るものも多い。そのため、いらぬ騒動を引き起きしかねないからだ。
彼女の目が覚めない今は、もうしばらく静かにしておいてあげたかった。
クリスは薬草学を熟知していて、まだ薬師見習いながらもその知識量は皆から一目を置かれるほどだった。
ゼノはよく彼から薬草を分けてもらっている。最近では眠っている彼女が安心するように、そして早く目覚めてもらえるようにと、安らぎの効果があるハーブや花を聞いては、部屋に置いていたのだった。
室内庭園で過ごしている動物たちの怪我の経過を診てから、それぞれに食事を与える。
朝の掃除は既にクリスが行ってくれていたので、礼を述べ、もらったコルッカの実とハーブ、いくつかの薬草を抱え、隠れ家へ向かった。
なるべく音を立てないように部屋に入ると、さっそくキッチンへ向かう。
先ほどのコルッカの実で足りなくなった薬を作るのだ。
実を潰して汁を出し、種と皮をわける。棚にあるいくつかの薬草と汁を煎じる。それを冷ますと傷によく効く薬ができる。
全て薬室長のアナベルから教え込まれた事だった。
煮立った薬を冷まそうと容器に入れ、少し息をつく。ふと、奥の部屋へ視線を向けた。
ゼノはここを隠れ家として、朝から晩まで動物たちの世話をし、遊び、薬草や医療について学んでいる。
必要なあれこれを小屋に運び入れ、次第にここで過ごす時間が多くなっていた。
同じ敷地内とは言え、あまりにも城を不在にする王子に彼を溺愛する双子の姉たちは彼を心配し、恋しがった。
自分の食事もそこそこで、動物たちのために動いてしまう彼にせめて、夜だけは城でちゃんと食事を摂るようにと言い付けが出たのだ。
それからというもの、容体の思わしくない動物がいない限り夜は城で過ごしていたが、最近は専らこの隠れ家に入り浸っている。
奥の部屋と繋がる扉をそっと開けると、彼用のベットが一つ。
ゼノが、主に重傷の患者を看るために置いたものだったが、今、そこには彼女が眠っている。
銀色の耳と尻尾を持つ半獣の少女。
あの日からずっと眠り続けていて、未だその意識が戻る様子はない。
当初は顔も酷く殴られて、片目は目蓋も開けられない程腫れていたが、薬が効いたのか徐々にそれも引いてきているようだ。
彼女はどんな瞳の色をしているのだろうか。
どんな声で話して、どんな風に喋るのだろうか?
そもそも、半獣はヒトの言葉がわかるのか····?
もしかしたら半獣専用の言葉があるのだろうか?
初めて対峙する生物に最初こそ好奇心が優ったが、今ははやく起きている彼女が見たくて、話をしてみたくて、たまらなかった。
まだ目覚めぬ少女に対して、ゼノはその想いを募らせていったのだった。
サイドテーブルへ先程のハーブを飾ると、その優しい香りが鼻腔に広がり、胸の高鳴りが凪いだ気がした。
━━━━━━━━━━━
カビ臭い路地を進んだ先にある、古ぼけた看板の店に入る。
もう何年も油の刺していない扉はギイィと耳障りな音を立てた。
「いらっしゃい、······なんだ。またあんたか。」
狼獣人の店主は、チラリと客を見るなり、不躾な態度でその客を出迎えた。
「何度来たって同じさね。売れるものはない。」
濁声を響かせ、キッパリとそう言うなり乱暴に広げた新聞に視線を落とす。
「入り用でして。あとこれだけ、何とか用立てて欲しいのですが。」
客の男は、指を2本立てて店主に問う。
黒い外套に身を包み、フードを深く被り顔を隠しているため表情は確認できないが、その喋り口調はひどく穏やかで、どこか気品さえも感じ取れるようだった。
王都から少し離れた西側に位置する街。
その街の市場にある一軒の酒場は、とても人当たりの良い店主が切り盛りをしている。
一見なんの変哲もないその“至極“普通のバーには、ある秘密があった。
ある曜日の、ある時間に‘’合言葉“と、店主が欲する“あるもの“を提示した者のみが入ることを許される扉がある。
その扉をくぐり地下へ続く階段を降りると、そこにはその街には存在しないはずの、もう一つの市場があった。
ここはいわゆる“闇市場“と呼ばれる場所で、表沙汰にはできないような商品の販売や、違法な武器や輸入品などの取引を行っていた。
憲兵たちの目を掻い潜るため、闇商人たちはなんの変哲もない酒場の隠された地下通路に店を出し、取引場所としていた。
そのため秘密が漏れることのないよう、時間や曜日、提示するものを細かく決め取引相手を慎重に選別していたのだった。
そんな悪行が蔓延る陰湿な雰囲気の場所に、その男の存在は少し異様な気さえもする。
「2!? 2なんてとんでもない。無理だね。」
強い口調で声を荒げた店主に、男は僅かばかり溜息をこぼした。
仕方ないとばかりに肩をすくめ、自身の外套に手を差し入れる。
「前金として、受け取ってもらえませんか?」
男は懐からいくつか札束を出し、カウンターに置く。
店主は一瞬ギョッとするも、チラチラと金と新聞を交互に見て視線を泳がせる。
「ダメダメ、こんな金じゃ動けないね。···あんた知らないのか? ここ3、4日前から急に憲兵団が動き出したって話。 お陰でうちのも何人かやられちまってね、今ごろ奴らは檻の中よ。…まったくとんだヘマをしてくれた。これじゃあ聞いての通り、商売にならん。」
悪態をつきつつも、客の様子を伺うように、金ばかりではなく男の方へも視線を向ける。
男はまた溜息をつきながら、
「いいですか?これはあくまで“前金“です。 用意してくれたらこの3倍お出ししますよ。」
「······さっ!? ·········し、しかし·········言ったろ?何人か捕まったって。現実的に人員不足で····。」
店主の目が一瞬輝きに満ちるも、すぐにしゅんとその尻尾はしな垂れてしまった。先ほどまでの横柄な態度とは打って変わって、しゃがれ声でバツが悪そうにモゴモゴと話す。
目の前の金を前に、実に、それはもう実に残念そうな店主を見下ろし、男はこれ見よがしにまた、小さくはぁとため息をこぼすと、持ってきていた革製の鞄を店主に広げて見せる。
中には大量の札束が詰め込まれていた。
「残念です。実は…もしも足りなかった分として今これだけ手元にあるのですが·········。仕方ないですね、前金も全て、これらは持って帰るとしましょう·········。では、また。」
「ま、待ってくれ!!」
男がカウンターに置かれた札束をカバンの中へ詰めようとすると、店主は勢いよく立ち上がり、その手を止めた。
男は掴まれた腕を見やり、フードの奥でニヤリと口角を上げる。
「···········わかったよ、ただし、時間をくれ。すぐには無理だ。·····人員の確保と、憲兵団の網を掻い潜る手立てが必要だからな。」
「········1ヶ月のうちにせめて1はお願いしますよ。」
「1ヶ月!?短すぎる! 元々そんなに頻繁に捕まるような種族じゃないんだぞあいつらは!1年で1匹捕まえられたらいい方さ!あんたも知ってるだろう!?」
「·········仕方ないですね。では半年以内に。ひと月でも早く差し出してくれたら、…そうですね、ボーナスをあげますよ。しかし、1日でも遅れたら減額していきます。どうです?」
「半年以内に1匹だと·········?」
「いいえ、半年以内に2匹ですよ。 それ相応な金額を提示しているはずです。できなければ他へ行くまでですが······もちろん、やってくれますよね?」
店主は一瞬襲い掛かりそうな目の色を男に見せたが、剥き出しそうな狼の牙をグッと押し隠し一言、「わかった」と呟く。
それを聞いた男は口元の笑みを深くすると、手にしていた札束を再びカウンターに置いて、「では良い報告を期待していますよ。」と去り際に店主に優しく投げかけ、錆び付い扉をまたギィと鳴らして店を後にした。
店主は男が店を出て行くと、扉に向かって舌打ちをし酒瓶を投げつけた。
━━━━━━━━━━━
本当は、優しい声が何度も聞こえていた。何度も語りかけてくれていた。
けれども起き上がる気力が無くて、もういっそのこと、このまま海底に沈むように、静かに眠り込んでしまいたかった。
こんなにゆっくり眠るのは初めてかも知れない。
夜はいつも冷たく、暗く、怖いものだったから。
それでも何度も何度も語りかけてくる声に、不思議と嫌悪感はなくて。なぜだか暖かく感じるそれに、ほんの少し応えてみたくなった。
まるで引き寄せられるかのように、沈んでいた意識が徐々にはっきりとしてくる。
腕がふわふわと浮いているような、そんな違和感を感じた。
瞼を開けたいが、重たくてなかなか開けられない。
朝なのだろうか。窓からの日差しが少し目に辛い。
黒い影が見える。自分の腕に何かを巻きつけている。
なに?
しぱしぱと心許ない瞬きを何回か試し、ぼんやりとした意識の中でその影を見つめる。
すると影は段々と人型を保ち、こちらに気がつく。
「やあ、起きたね。まだ動かないで、傷が開くから。」
黒の中に深い青が混じった色の瞳をした、顔立ちの良い青年がこちらを見おろしている。
ぼーっとする頭と、はっきりしない視界の中で何も考えられずにいると、「少し身体を診せてね。」と、体温や心音などの確認を終えた後、彼は「待ってて。」と言い残し部屋から出ていってしまった。
ぽつんとひとり部屋に残され、視線だけを動かして辺りを見回す。
柔らかな笑みを向ける青年と、腕に巻かれた純白の包帯。柔らかなベッドに暖かい毛布。
まだ覚醒し切れていない頭で考えを巡らせるが、何故自分がこの状況になっているのか全く理解できずにいる。
知らない場所に知らない匂い。
色々な薬品と薬草と、枕元に飾られている可愛らしい花のいい香り。
包帯を巻かれている左腕は折れているのか、固定されて上手く動かせない。
右腕に施された点滴の雫が、ポタポタと規則正しく落ちている。
「~~~~~っはあぁーーー。」
パタンと後ろ手で閉めた扉に寄りかかり、ゼノは声にならない息をつく。
待ち望んでいた少女の目覚めに、心臓が早鐘を打つ。
自分の態度はおかしくなかっただろうか?変なことは言っていないよな?
なんだか二人きりの空間がいたたまれなくてすぐに部屋から出てきてしまったけど·····知らない男が腕に包帯を巻いて体を診るなんでマズっかったかな。医療をかじってるくらい言えばよかったかも·········
と、悶々とした想いが次々と浮かんで訳もなく不安に苛まれる。
額に手を当てて、少し考え深呼吸をした後、
アナベルを呼ぼう·····と、ふらふらとした足取りで部屋の窓を開けた。
窓台には、小さな鉢植えにピンク色の花が咲いている。その花弁をひとつ取り、掌に乗せ花弁送りの呪文を唱えた。宮廷内の薬室長室か調合室か温室か図書室か····城の中にはいるものの、場所までは定まっていないアナベルを呼ぶ際の連絡手段としていたものだ。
ふっ、と呪文を唱えて息をかければ、花弁はその風に乗って、意思を伝えたい人の元へ行く。
······のだが、ゼノはそれを思いとどまり、窓を閉めた。
0
この作品は感想を受け付けておりません。
あなたにおすすめの小説
行き場を失った恋の終わらせ方
当麻月菜
恋愛
「君との婚約を白紙に戻してほしい」
自分の全てだったアイザックから別れを切り出されたエステルは、どうしてもこの恋を終わらすことができなかった。
避け続ける彼を求めて、復縁を願って、あの日聞けなかった答えを得るために、エステルは王城の夜会に出席する。
しかしやっと再会できた、そこには見たくない現実が待っていて……
恋の終わりを見届ける貴族青年と、行き場を失った恋の中をさ迷う令嬢の終わりと始まりの物語。
※他のサイトにも重複投稿しています。
初恋だったお兄様から好きだと言われ失恋した私の出会いがあるまでの日
クロユキ
恋愛
隣に住む私より一つ年上のお兄さんは、優しくて肩まで伸ばした金色の髪の毛を結ぶその姿は王子様のようで私には初恋の人でもあった。
いつも学園が休みの日には、お茶をしてお喋りをして…勉強を教えてくれるお兄さんから好きだと言われて信じられない私は泣きながら喜んだ…でもその好きは恋人の好きではなかった……
誤字脱字がありますが、読んでもらえたら嬉しいです。
更新が不定期ですが、よろしくお願いします。
幼い頃に、大きくなったら結婚しようと約束した人は、英雄になりました。きっと彼はもう、わたしとの約束なんて覚えていない
ラム猫
恋愛
幼い頃に、セリフィアはシルヴァードと出会った。お互いがまだ世間を知らない中、二人は王城のパーティーで時折顔を合わせ、交流を深める。そしてある日、シルヴァードから「大きくなったら結婚しよう」と言われ、セリフィアはそれを喜んで受け入れた。
その後、十年以上彼と再会することはなかった。
三年間続いていた戦争が終わり、シルヴァードが王国を勝利に導いた英雄として帰ってきた。彼の隣には、聖女の姿が。彼は自分との約束をとっくに忘れているだろうと、セリフィアはその場を離れた。
しかし治療師として働いているセリフィアは、彼の後遺症治療のために彼と対面することになる。余計なことは言わず、ただ彼の治療をすることだけを考えていた。が、やけに彼との距離が近い。
それどころか、シルヴァードはセリフィアに甘く迫ってくる。これは治療者に対する依存に違いないのだが……。
「シルフィード様。全てをおひとりで抱え込もうとなさらないでください。わたしが、傍にいます」
「お願い、セリフィア。……君が傍にいてくれたら、僕はまともでいられる」
※糖度高め、勘違いが激しめ、主人公は鈍感です。ヒーローがとにかく拗れています。苦手な方はご注意ください。
※『小説家になろう』様『カクヨム』様にも投稿しています。
〈完結〉【書籍化・取り下げ予定】「他に愛するひとがいる」と言った旦那様が溺愛してくるのですが、そういうのは不要です
ごろごろみかん。
恋愛
「私には、他に愛するひとがいます」
「では、契約結婚といたしましょう」
そうして今の夫と結婚したシドローネ。
夫は、シドローネより四つも年下の若き騎士だ。
彼には愛するひとがいる。
それを理解した上で政略結婚を結んだはずだったのだが、だんだん夫の様子が変わり始めて……?
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
最愛の番に殺された獣王妃
望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。
彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。
手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。
聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。
哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて――
突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……?
「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」
謎の人物の言葉に、私が選択したのは――
過去に戻った筈の王
基本二度寝
恋愛
王太子は後悔した。
婚約者に婚約破棄を突きつけ、子爵令嬢と結ばれた。
しかし、甘い恋人の時間は終わる。
子爵令嬢は妃という重圧に耐えられなかった。
彼女だったなら、こうはならなかった。
婚約者と結婚し、子爵令嬢を側妃にしていれば。
後悔の日々だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる