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7話
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大学から帰ってきた慧は、服を着替えることもせずにベッドにうつ伏せで倒れ込んだ。
カノンは留守にしているようで、ここ数日顔を合わせることもなくなった。このところ隣室からの声はめっきり途絶え、睡眠を妨げるものなどないはずなのに、どうにも目が冴えて眠ることができないでいる。夜になると、兄の声と夢里の紅い瞳を思い出し、そわそわと落ち着かなくなってしまうのだ。それに、カノンが面倒事に巻き込まれていないかも心配だった。
数時間ひたすら目を閉じ、何とか眠りにつけたとしても、悪夢を見てすぐに目覚めてしまう。
数日の不眠が祟り、ついに思考をすることすら覚束なくなってしまった慧は、講義を受け終えると真っ直ぐ帰宅した。安物のベッドは大きく軋んだ音を立てて慧を受け止め、泥のようにぬかるんだ意識は、すぐさま夢の世界へと落ちていく。
*
どこからか不規則な足音が聞こえてきて、意識がふっと浮上する。気がつけばカーテンの外は真っ暗に塗りつぶされていた。時間を確認すると、驚いたことに既に日付を超えてしまっている。仮眠に収めるつもりが、かなり長い間眠っていたらしい。
背中を丸めて這い上がるように起き上がり、大きく欠伸をしたところで、ドン、何かがぶつかるような打撃音がした。自分の部屋ではない。すぐ近くの部屋、判然とはしないが、隣から聞こえてきた気がする。
妙な胸騒ぎがして、今度こそ目が冴えた。血相を変え、急ぎ足で外に向かう。外開きの扉を開け、身を乗り出して左右を見た。目を凝らして探すまでもなかった。その人物は地面に倒れ伏していた。
息を呑み、その男に走り寄る。
「……カノンさん!」
鉄錆の匂いが鼻腔を掠めた。夜闇に溶け込むような暗い色の服のせいですぐには気が付かなかったが、その匂いはじっとりと濡れた服から漂っている。まさか、何か事件に巻き込まれて大怪我でもしたのだろうか。
「カノンさん、カノンさんッ! しっかりしてください!」
肩を何度も揺さぶると、ぐったりとして動かなかった体がぴくりと震え、カノンは顔だけを慧の方へと向けた。
伏せていた瞼が開かれ、長い睫毛の下に隠されていた燃えるような紅色と目が遭う。慧はハッと目を瞠り、時が止まったように動きを止めた。
「……え?」
かろうじて震えた声帯が、引き攣れた声を発する。胸がざわざわと激しく波打った。固く閉じていた記憶の扉が、押し寄せる感情の洪水によって蹴破られる。
思い出したのは、子供の頃の記憶。ずっと忘れていたはずの記憶だ。その女性の髪の色、目の色、表情、仕草、声、体躯。そして_____
白く肌理の細かい手が、力強く己を突き飛ばした。ピントが合わない視界の中で、母の体が縦に真っ二つに割れる。生温い血飛沫が四方に飛び散り、慧の全身にかかる。母親の原型を留めた肉塊は暴れるホースのように内臓を撒き散らしながらその場に崩れ落ち、その向こうから、顔面蒼白で動けずにいる幼い兄と、見知らぬ男の姿が現れた。
紅い瞳と目が合う。刃物ひとつ持たないその男は、視線を慧に固定したまま、ゆっくりと近づいてくる。
「……あ、ああ」
慧はその場に尻餅をついた。過去と現在の間で意識が錯綜する。カノンの紅黒い双眸が自分を映し出している。
「なんで……なんであんたが……ッ」
ギフトを使用した時にしか発動しない紅い目を、モラトであるはずのあんたが何故持っている。
掌を地面につき、じりじりと後ずさる。しかし鉛のように重たい体はナメクジが地面を這うような速度でしか動けない。そうしているうちに、カノンは壊れかけの人形のように腕を震わせながら半身を起こし、慧の肩を弱々しく掴んだ。
「_____しようよ」
カノンの小ぶりな唇から、か細い言葉がこぼれる。耳を凝らさなければ聞こえないほどの小さな声だった。しかし、このような時に限って、辺りは静まり返っており、銃声ひとつ聞こえない。
「からだが、あつくて、くるしいんだ」
肩を掴んでいる方とは別の手で、カノンはシャツの胸元を握り締める。
真紅の彩度が増すにつれ、慧の体の芯から、じわじわと熱がせり上がってくる。激しい運動をした後のように心臓が早鐘を撞き、全身が虫を這っているようなむず痒さを覚える。
自身の体に得体の知れぬ怪物が巣食っているような恐ろしさに悲鳴を上げようとして、しかし口内から吐き出されるのは熱い呼気ばかりだ。
「ねえ、えっちしようよ」
もう一度その言葉が聞こえた時、頭の中で、柔らかな糸がふつりと切れるような感覚があった。体が急に軽くなり、自分の意思とは裏腹に勝手に動き始める。いや、最早それが自分の意思なのかそうでないかなど、理性を失った慧には分からないことだった。
カノンを自分の部屋に引きずり込む。先程まで眠っていたベッドに細い体を押し倒し、破るような力強さで服を剥ぐと、ボタンが弾け飛び、吸い込まれるようにどこかに消えていった。そんなことには目もくれず、晒された胸元に噛みつく。
「あっ、あぁ~~ッ♡♡」
まだ触れてもいないのに、芯を持って硬くなっているそれを指で弄り、もう片方を舌で嬲る。何度も交わった仲だが、そこに手をつけるのは初めてだった。男がそこで快感を得られることなど知らなかったのだ。だが、熟れた果実のようなその色はあまりにも目に毒で、視界に入った瞬間、触れずにはいられなかった。
過敏な肉体は、些細な刺激にも如実に反応を示す。指の腹で挟んでいたそこに爪を立て、舐めしゃぶっていた方に歯を立てると、「喘ぐ」と呼ぶには苦痛の滲んだ声を上げ、カノンは全身を震わせた。
胸元に顔を寄せたまま下方に目を向けると、スーツのスラックスの上からでも分かるほどに張り詰めているそこが、血液ではないもので濡れ、嗅ぎ慣れた雄の匂いが辺りに充満している。
直接的な刺激を与えずに絶頂したという事実に、頭に血が昇る。口元を熱いものが垂れる感触があった。手の甲で拭うと、そこは自身の鼻から出た血でべったりと濡れていた。
乾いた笑みを浮かべながら、ベルトを外し、スラックスに手をかける。快楽の余韻に暴れる体を片手で押さえ、下着ごとずり下げると、ぐちゅり、と粘性のある音を慣らしながら、放出された大量の白濁を纏ってなお勃ち上がっている陰茎が露わになる。
「……っはは。カノンさんってほんと、いやらしいですね」
喉に垂れてきた血を唾液と共に飲み込み、人差し指で腹を撫で、ぶちまけられた精液を掬い取る。何度も使い込まれた後孔は、寂しさを塞ぐものを求めてきゅうきゅうと収縮しながら、それでも硬く閉ざされている。
今日はまだ、誰も手を付けていない。今日だけは、自分がこの人の一番になることができるのだ。そう思うと、更に興奮が昂っていくようだった。
一度も触っていない慧のものも、放出を求めてはち切れそうになっている。学生時代に保健の授業で習ったセーフティーセックスの概念など二人の間には存在しない。そこにいるのは、理性を失った哀れな獣達だけだ。
碌に慣らされていないその秘所に、精液で濡れた指を突っ込む。カノンは体を一度震わせたが、息を詰まらせるだけで、一言も何も言わなかった。
*
思えば初めての時も、カノンは決して正常位で繋がろうとはしなかった。カノンから与えられる快楽に追いつくことで精一杯な慧はそのことに気がつきさえしなかった。
だから、初めて顔を向き合わせて交わったこの瞬間、言いようのない多幸感が押し寄せてきて、慧はようやく自身の思いを自覚した。
ああ、そうか。俺はカノンさんのことが好きなんだ。
好き。そう思った瞬間、胸にすとんと落ちるものがあった。モラトの診断を受けてからというものの、人との関わりを意識的に避けていた慧にとって、それは久々に抱いた感情だった。
砂のように乾いていた心に、小さな芽が生まれ、それは自覚と共にみるみるうちに一輪の大きな花を咲かせる。
カノンは、他人に怒れない自分の代わりに、慧の境遇を自分のことのように怒ってくれた。同じモラトだからというのもあるだろうが、差別的な意思を向けるホルダーとは違い、自分に優しく接してくれた。彼にとっては大したことではないかもしれない。だが、それがどんなに嬉しかったことか。
両肩を掴み、覆い被さるような体勢で腰を動かす。カノンは両の紅玉から涙を流しながら、甲高い声を上げて狂いよがる。絶頂する瞬間の瞳の収縮、陶然と辺りを彷徨う視線、あえかに開かれた唇。全て全て、独り占めしてしまいたかった。自分だけのものにしたかった。
慧がそうであるように、カノンにも二人だけのこの時間を楽しんでほしかった。
だけど、カノンの発した言葉が、至福の世界に浸っていた意識を現実へと引き戻す。
「ふーがさん……っ、ぁ、そこぉ……! そこ、もっとぉ、もっと奥までついてぇ……っ♡」
冷や水を全身に浴びせられたようだった。慧はぴたりと動きを止め、カノンの放ったその言葉の意味を理解しようと努める。
朝になってカノンを抱く時、彼の体は常に夜の匂いを纏っていた。自分のものではない、顔も見たことがない男の名前。ずっと、その存在を認知はしていたが、気が付かないふりをしてきた。
だって、当のカノンが、フーガのことを「そういう関係じゃない」と否定したのだから。
そういう関係じゃない。だったら何故、そいつの名前を呼ぶんだ。目の前にいるのは、あんたを抱いているのは俺のはずなのに。
怒りとも悲しみともつかない感情が押し寄せ、胸が張り裂けそうな苦しみを覚えた。
理不尽な出来事に遭遇した時、慧はいつも「仕方ないのだ」と己を慰めてきた。モラトだと判明した途端掌を返したように慧を拒絶した友人達も、父親も、親族も。全ては仕方ないのだと、そう言い聞かせてきた。でも、理性のタガが外れてブレーキを失ってしまった今、その言い訳は通用しそうになかった。
歯を食い縛り、込み上げてくる「何か」に耐える。突然動きを止めた慧を不思議に思ったのか、カノンは何度も瞬きを繰り返し、そうして自分が何を言ったのか気がついたらしい。ハッと目を見開いて、熱を失いつつある瞳で慧を見つめた。
胸の奥から笑いが込み上げてきて、だけどそれは表出されず、慧は引き攣った表情を浮かべることしかできなかった。
カノンが何か喋ろうとするのを遮るように、抽送を再開させる。カノンの喉から下手くそなバイオリンのような掠れた音が落ち、しかし慧が奥を深く突くごとに、それは甘い声へと変わっていく。
波のように訪れる射精感を、腹筋に力を込めることで堪えようとした。継続的に快楽を得られる女性とは違い、男は一度出してしまうと頭が冷めてしまう。
カノンの瞳が赤を失い従来の茶色を取り戻すにつれ、慧の全身を支配していた欲望も、少しずつ収まり始めていた。ここで出してしまえば、訪れるのはきっと底なし沼のように深い悲しみだけだ。
脳内にカノンとの思い出が走馬灯のように駆け巡る。物事を都合よく解釈してくれる頭は今日は上手く機能してくれない。
自分ばかりが勝手に浮かれていた。カノンはただ、そんな自分の反応を見て面白がっていただけなのだ。
残酷な事実に気がつき、また、胸がキリキリと刺すような痛みを抱く。
どんなに我慢をしようと、その時は訪れる。慧は歯を食い縛り、獣のような唸り声を上げながら、カノンの最奥に自身の情熱を叩き込んだ。何度も。
カノンは留守にしているようで、ここ数日顔を合わせることもなくなった。このところ隣室からの声はめっきり途絶え、睡眠を妨げるものなどないはずなのに、どうにも目が冴えて眠ることができないでいる。夜になると、兄の声と夢里の紅い瞳を思い出し、そわそわと落ち着かなくなってしまうのだ。それに、カノンが面倒事に巻き込まれていないかも心配だった。
数時間ひたすら目を閉じ、何とか眠りにつけたとしても、悪夢を見てすぐに目覚めてしまう。
数日の不眠が祟り、ついに思考をすることすら覚束なくなってしまった慧は、講義を受け終えると真っ直ぐ帰宅した。安物のベッドは大きく軋んだ音を立てて慧を受け止め、泥のようにぬかるんだ意識は、すぐさま夢の世界へと落ちていく。
*
どこからか不規則な足音が聞こえてきて、意識がふっと浮上する。気がつけばカーテンの外は真っ暗に塗りつぶされていた。時間を確認すると、驚いたことに既に日付を超えてしまっている。仮眠に収めるつもりが、かなり長い間眠っていたらしい。
背中を丸めて這い上がるように起き上がり、大きく欠伸をしたところで、ドン、何かがぶつかるような打撃音がした。自分の部屋ではない。すぐ近くの部屋、判然とはしないが、隣から聞こえてきた気がする。
妙な胸騒ぎがして、今度こそ目が冴えた。血相を変え、急ぎ足で外に向かう。外開きの扉を開け、身を乗り出して左右を見た。目を凝らして探すまでもなかった。その人物は地面に倒れ伏していた。
息を呑み、その男に走り寄る。
「……カノンさん!」
鉄錆の匂いが鼻腔を掠めた。夜闇に溶け込むような暗い色の服のせいですぐには気が付かなかったが、その匂いはじっとりと濡れた服から漂っている。まさか、何か事件に巻き込まれて大怪我でもしたのだろうか。
「カノンさん、カノンさんッ! しっかりしてください!」
肩を何度も揺さぶると、ぐったりとして動かなかった体がぴくりと震え、カノンは顔だけを慧の方へと向けた。
伏せていた瞼が開かれ、長い睫毛の下に隠されていた燃えるような紅色と目が遭う。慧はハッと目を瞠り、時が止まったように動きを止めた。
「……え?」
かろうじて震えた声帯が、引き攣れた声を発する。胸がざわざわと激しく波打った。固く閉じていた記憶の扉が、押し寄せる感情の洪水によって蹴破られる。
思い出したのは、子供の頃の記憶。ずっと忘れていたはずの記憶だ。その女性の髪の色、目の色、表情、仕草、声、体躯。そして_____
白く肌理の細かい手が、力強く己を突き飛ばした。ピントが合わない視界の中で、母の体が縦に真っ二つに割れる。生温い血飛沫が四方に飛び散り、慧の全身にかかる。母親の原型を留めた肉塊は暴れるホースのように内臓を撒き散らしながらその場に崩れ落ち、その向こうから、顔面蒼白で動けずにいる幼い兄と、見知らぬ男の姿が現れた。
紅い瞳と目が合う。刃物ひとつ持たないその男は、視線を慧に固定したまま、ゆっくりと近づいてくる。
「……あ、ああ」
慧はその場に尻餅をついた。過去と現在の間で意識が錯綜する。カノンの紅黒い双眸が自分を映し出している。
「なんで……なんであんたが……ッ」
ギフトを使用した時にしか発動しない紅い目を、モラトであるはずのあんたが何故持っている。
掌を地面につき、じりじりと後ずさる。しかし鉛のように重たい体はナメクジが地面を這うような速度でしか動けない。そうしているうちに、カノンは壊れかけの人形のように腕を震わせながら半身を起こし、慧の肩を弱々しく掴んだ。
「_____しようよ」
カノンの小ぶりな唇から、か細い言葉がこぼれる。耳を凝らさなければ聞こえないほどの小さな声だった。しかし、このような時に限って、辺りは静まり返っており、銃声ひとつ聞こえない。
「からだが、あつくて、くるしいんだ」
肩を掴んでいる方とは別の手で、カノンはシャツの胸元を握り締める。
真紅の彩度が増すにつれ、慧の体の芯から、じわじわと熱がせり上がってくる。激しい運動をした後のように心臓が早鐘を撞き、全身が虫を這っているようなむず痒さを覚える。
自身の体に得体の知れぬ怪物が巣食っているような恐ろしさに悲鳴を上げようとして、しかし口内から吐き出されるのは熱い呼気ばかりだ。
「ねえ、えっちしようよ」
もう一度その言葉が聞こえた時、頭の中で、柔らかな糸がふつりと切れるような感覚があった。体が急に軽くなり、自分の意思とは裏腹に勝手に動き始める。いや、最早それが自分の意思なのかそうでないかなど、理性を失った慧には分からないことだった。
カノンを自分の部屋に引きずり込む。先程まで眠っていたベッドに細い体を押し倒し、破るような力強さで服を剥ぐと、ボタンが弾け飛び、吸い込まれるようにどこかに消えていった。そんなことには目もくれず、晒された胸元に噛みつく。
「あっ、あぁ~~ッ♡♡」
まだ触れてもいないのに、芯を持って硬くなっているそれを指で弄り、もう片方を舌で嬲る。何度も交わった仲だが、そこに手をつけるのは初めてだった。男がそこで快感を得られることなど知らなかったのだ。だが、熟れた果実のようなその色はあまりにも目に毒で、視界に入った瞬間、触れずにはいられなかった。
過敏な肉体は、些細な刺激にも如実に反応を示す。指の腹で挟んでいたそこに爪を立て、舐めしゃぶっていた方に歯を立てると、「喘ぐ」と呼ぶには苦痛の滲んだ声を上げ、カノンは全身を震わせた。
胸元に顔を寄せたまま下方に目を向けると、スーツのスラックスの上からでも分かるほどに張り詰めているそこが、血液ではないもので濡れ、嗅ぎ慣れた雄の匂いが辺りに充満している。
直接的な刺激を与えずに絶頂したという事実に、頭に血が昇る。口元を熱いものが垂れる感触があった。手の甲で拭うと、そこは自身の鼻から出た血でべったりと濡れていた。
乾いた笑みを浮かべながら、ベルトを外し、スラックスに手をかける。快楽の余韻に暴れる体を片手で押さえ、下着ごとずり下げると、ぐちゅり、と粘性のある音を慣らしながら、放出された大量の白濁を纏ってなお勃ち上がっている陰茎が露わになる。
「……っはは。カノンさんってほんと、いやらしいですね」
喉に垂れてきた血を唾液と共に飲み込み、人差し指で腹を撫で、ぶちまけられた精液を掬い取る。何度も使い込まれた後孔は、寂しさを塞ぐものを求めてきゅうきゅうと収縮しながら、それでも硬く閉ざされている。
今日はまだ、誰も手を付けていない。今日だけは、自分がこの人の一番になることができるのだ。そう思うと、更に興奮が昂っていくようだった。
一度も触っていない慧のものも、放出を求めてはち切れそうになっている。学生時代に保健の授業で習ったセーフティーセックスの概念など二人の間には存在しない。そこにいるのは、理性を失った哀れな獣達だけだ。
碌に慣らされていないその秘所に、精液で濡れた指を突っ込む。カノンは体を一度震わせたが、息を詰まらせるだけで、一言も何も言わなかった。
*
思えば初めての時も、カノンは決して正常位で繋がろうとはしなかった。カノンから与えられる快楽に追いつくことで精一杯な慧はそのことに気がつきさえしなかった。
だから、初めて顔を向き合わせて交わったこの瞬間、言いようのない多幸感が押し寄せてきて、慧はようやく自身の思いを自覚した。
ああ、そうか。俺はカノンさんのことが好きなんだ。
好き。そう思った瞬間、胸にすとんと落ちるものがあった。モラトの診断を受けてからというものの、人との関わりを意識的に避けていた慧にとって、それは久々に抱いた感情だった。
砂のように乾いていた心に、小さな芽が生まれ、それは自覚と共にみるみるうちに一輪の大きな花を咲かせる。
カノンは、他人に怒れない自分の代わりに、慧の境遇を自分のことのように怒ってくれた。同じモラトだからというのもあるだろうが、差別的な意思を向けるホルダーとは違い、自分に優しく接してくれた。彼にとっては大したことではないかもしれない。だが、それがどんなに嬉しかったことか。
両肩を掴み、覆い被さるような体勢で腰を動かす。カノンは両の紅玉から涙を流しながら、甲高い声を上げて狂いよがる。絶頂する瞬間の瞳の収縮、陶然と辺りを彷徨う視線、あえかに開かれた唇。全て全て、独り占めしてしまいたかった。自分だけのものにしたかった。
慧がそうであるように、カノンにも二人だけのこの時間を楽しんでほしかった。
だけど、カノンの発した言葉が、至福の世界に浸っていた意識を現実へと引き戻す。
「ふーがさん……っ、ぁ、そこぉ……! そこ、もっとぉ、もっと奥までついてぇ……っ♡」
冷や水を全身に浴びせられたようだった。慧はぴたりと動きを止め、カノンの放ったその言葉の意味を理解しようと努める。
朝になってカノンを抱く時、彼の体は常に夜の匂いを纏っていた。自分のものではない、顔も見たことがない男の名前。ずっと、その存在を認知はしていたが、気が付かないふりをしてきた。
だって、当のカノンが、フーガのことを「そういう関係じゃない」と否定したのだから。
そういう関係じゃない。だったら何故、そいつの名前を呼ぶんだ。目の前にいるのは、あんたを抱いているのは俺のはずなのに。
怒りとも悲しみともつかない感情が押し寄せ、胸が張り裂けそうな苦しみを覚えた。
理不尽な出来事に遭遇した時、慧はいつも「仕方ないのだ」と己を慰めてきた。モラトだと判明した途端掌を返したように慧を拒絶した友人達も、父親も、親族も。全ては仕方ないのだと、そう言い聞かせてきた。でも、理性のタガが外れてブレーキを失ってしまった今、その言い訳は通用しそうになかった。
歯を食い縛り、込み上げてくる「何か」に耐える。突然動きを止めた慧を不思議に思ったのか、カノンは何度も瞬きを繰り返し、そうして自分が何を言ったのか気がついたらしい。ハッと目を見開いて、熱を失いつつある瞳で慧を見つめた。
胸の奥から笑いが込み上げてきて、だけどそれは表出されず、慧は引き攣った表情を浮かべることしかできなかった。
カノンが何か喋ろうとするのを遮るように、抽送を再開させる。カノンの喉から下手くそなバイオリンのような掠れた音が落ち、しかし慧が奥を深く突くごとに、それは甘い声へと変わっていく。
波のように訪れる射精感を、腹筋に力を込めることで堪えようとした。継続的に快楽を得られる女性とは違い、男は一度出してしまうと頭が冷めてしまう。
カノンの瞳が赤を失い従来の茶色を取り戻すにつれ、慧の全身を支配していた欲望も、少しずつ収まり始めていた。ここで出してしまえば、訪れるのはきっと底なし沼のように深い悲しみだけだ。
脳内にカノンとの思い出が走馬灯のように駆け巡る。物事を都合よく解釈してくれる頭は今日は上手く機能してくれない。
自分ばかりが勝手に浮かれていた。カノンはただ、そんな自分の反応を見て面白がっていただけなのだ。
残酷な事実に気がつき、また、胸がキリキリと刺すような痛みを抱く。
どんなに我慢をしようと、その時は訪れる。慧は歯を食い縛り、獣のような唸り声を上げながら、カノンの最奥に自身の情熱を叩き込んだ。何度も。
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