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入学早々やらかしてしまった。ちゃんと確認したはずなのに。どうして席を間違えてしまうんだ、僕の馬鹿。
「おい」
ドスのきいた声が降りかかり、僕は顔を上げた。その鬼のような恐ろしい顔付きを見た瞬間、声にならない悲鳴を上げた喉が、ひゅっと掠れた音を立てる。
「そこ、俺の席なんだけど」
慌てて席を立ったその拍子に机の上に置かれていた鞄が落ちる。チャックを開けっぱなしにしていたせいで、中に入っていたものが地面に音を立てて派手に散らばった。
「ご、ごめんなさい!」
心臓がバクバクと音を立てる。冷や汗がブワッとあふれ出し、まだ肌寒い季節だというのに全身が汗ばむのを感じた。
頭の中が真っ白に塗りつぶされていく。怖い、怖い。どうか命だけはお助けを……。そんな言葉が浮かんでは消える。舌がもつれ、乱れた呼吸ではろくに喋ることもできない。
僕は慌てて地面に散らばったものを拾い上げ、胸元に全てを抱えると、ひとつ前の席に座り直した。
近くからヒソヒソと、クラスメイトの喋る声が聞こえてくる。「何かあったの?」「分からないけど、喧嘩でもしてたんじゃない?」「入学初日から?」「かわいそー。あの子、泣きそうになってんじゃん」
その時僕はようやく、視界が涙で歪んでいることに気がついた。外していたイヤホンを急いで付け直し、音量を上げる。見ないでくれ、惨めな僕に、どうか誰も気がつかないでくれ。背中をぎゅっと縮こまらせ、僕は自分の世界に閉じこもる。
昔から、何をやっても駄目だった。勉強も駄目、運動も駄目、おまけに容姿もあんまり良くなくて、いつもミスばっかりしている。
努力をしても報われなくて、だけど努力できることだけが僕の唯一の取り柄だった。それだけは誰にも負けないと思っていた。
人気者になりたいなどと、高望みはしていない。高校に入ったところで沢山友達ができるなんて端から思っていなかった。ただ、僕は平穏な生活を送りたかったんだ。どうして僕はこうも上手くいかないのだろう。
その日の夜、僕は翌日から始まるイジメの日々を想像して枕を濡らしながら眠った。
人はイジメるきっかけさえあればそれで良いんだ。理由なんて後からどうにでも作れるということを、僕は知っていた。だから、翌日戦々恐々としながら教室に向かい、何も起こらずに一日を終えた時、肩透かしを食らったような気持ちになった。
翌日も、その翌日も、僕は誰にも虐められることがなかった。後ろの席の斉藤くんは相変わらず怖いけれど、それでも泣かずにいられたのは、斉藤くんの友達の菊池くんのおかげだろう。
菊池くんはすごく垢抜けた派手な雰囲気の人で、斉藤くんとはタイプが違う、「怖い」人だった。彼は喋る時、相手の目をじっと見つめる。その人の心情を顔から読み取ろうとするみたいに。
僕は最初、菊池くんのことが苦手だった。その思いは日に日に薄れていった。
『細木、ほら』
菊池くんは僕が落とした消しゴムを拾ってくれた。
『なぁ、俺達と一緒に練習しようぜ』
体育の授業の時、チームを組んでくれる仲間がいない僕に声を掛けてくれた。
『これやるよ』
僕にサイダーをくれた。自動販売機で当たったから、なんて、気まぐれの優しさが僕は何より嬉しかった。結局サイダーは姉ちゃんに取られてしまったけど、僕の悲しみを菊池くんは笑い飛ばした。
『そんなこと気にしてたの? 馬鹿だよ、お前って』
僕をからかうようなことを言いながら、凄く優しい表情をしていて、笑顔がとても眩しかった。
*
学校帰りにサイダーを買った。家に帰って少しずつ飲んでいると姉ちゃんに奪われそうになる。慌てて腕の中に隠すと「姉に逆らうなんて生意気だ」と怒られた。
「どうしたのよ急に。あんた、炭酸飲めないんじゃないの」
「飲めないから飲む練習をするんだ」
「何それ、意味分かんない」
「分かんなくて良いよ。とにかくこれは僕のだから」
舌の上でぱちぱちと泡が跳ねる。僕はそれを飲みながら、菊池くんのことを思い出す。
きっと菊池くんは知らないだろう。僕がイヤホンを付けてゲームをするフリをしながら、本当は彼の声に耳を澄ませているということを。
菊池くんは気さくな性格で、男女問わず様々な人と喋っていた。それでも一番喋っている相手は斉藤くんだった。
斉藤くんと喋っている時の菊池くんは声が明るくて、とても楽しそうだ。
どうしてだろう。最近ずっと菊池くんのことを考えてしまう。彼が僕にくれた優しさを思い出し、彼の笑顔を思い出すと、胸がぎゅうっと締め付けられるような痛みを感じる。その痛みは、確かに痛いのだけど、同時に楽しくもあった。まるで、新作のゲームが発売される前日みたいに。心臓がドキドキとして、息をするのも苦しくなる。だけど、菊池くんのことを嫌いになることはない。それどころか、むしろ……。
サイダーを少しずつ飲みながら、ソシャゲにログインする。以前はあんなにハマって長時間やっていたゲームが、今ではほんの一瞬の快楽を満たすためだけに存在する、どこか空虚なものになってしまった。ゲームがつまらないのではない。僕が変わってしまったのだと思う。
女の子のイラストを眺めながら、ため息を吐く。
菊池くんに抱いている思いは、「推し」に対するものに少しだけ似ていて、だけど微妙に違っていた。「推し」を見ている間、僕の心は満たされる。だけど菊池くんと一緒にいる時、僕の心は彼の一挙手一投足に惑わされ、そして物足りないと思う。
いつも一緒にいたい。ずっと喋っていたい。菊池くんの優しさが僕のためだけにあれば良いのに。
……そんなこと、言えるわけがない。結局のところ僕は、彼の沢山のクラスメイトのうちのひとりでしかないんだから。
「おい」
ドスのきいた声が降りかかり、僕は顔を上げた。その鬼のような恐ろしい顔付きを見た瞬間、声にならない悲鳴を上げた喉が、ひゅっと掠れた音を立てる。
「そこ、俺の席なんだけど」
慌てて席を立ったその拍子に机の上に置かれていた鞄が落ちる。チャックを開けっぱなしにしていたせいで、中に入っていたものが地面に音を立てて派手に散らばった。
「ご、ごめんなさい!」
心臓がバクバクと音を立てる。冷や汗がブワッとあふれ出し、まだ肌寒い季節だというのに全身が汗ばむのを感じた。
頭の中が真っ白に塗りつぶされていく。怖い、怖い。どうか命だけはお助けを……。そんな言葉が浮かんでは消える。舌がもつれ、乱れた呼吸ではろくに喋ることもできない。
僕は慌てて地面に散らばったものを拾い上げ、胸元に全てを抱えると、ひとつ前の席に座り直した。
近くからヒソヒソと、クラスメイトの喋る声が聞こえてくる。「何かあったの?」「分からないけど、喧嘩でもしてたんじゃない?」「入学初日から?」「かわいそー。あの子、泣きそうになってんじゃん」
その時僕はようやく、視界が涙で歪んでいることに気がついた。外していたイヤホンを急いで付け直し、音量を上げる。見ないでくれ、惨めな僕に、どうか誰も気がつかないでくれ。背中をぎゅっと縮こまらせ、僕は自分の世界に閉じこもる。
昔から、何をやっても駄目だった。勉強も駄目、運動も駄目、おまけに容姿もあんまり良くなくて、いつもミスばっかりしている。
努力をしても報われなくて、だけど努力できることだけが僕の唯一の取り柄だった。それだけは誰にも負けないと思っていた。
人気者になりたいなどと、高望みはしていない。高校に入ったところで沢山友達ができるなんて端から思っていなかった。ただ、僕は平穏な生活を送りたかったんだ。どうして僕はこうも上手くいかないのだろう。
その日の夜、僕は翌日から始まるイジメの日々を想像して枕を濡らしながら眠った。
人はイジメるきっかけさえあればそれで良いんだ。理由なんて後からどうにでも作れるということを、僕は知っていた。だから、翌日戦々恐々としながら教室に向かい、何も起こらずに一日を終えた時、肩透かしを食らったような気持ちになった。
翌日も、その翌日も、僕は誰にも虐められることがなかった。後ろの席の斉藤くんは相変わらず怖いけれど、それでも泣かずにいられたのは、斉藤くんの友達の菊池くんのおかげだろう。
菊池くんはすごく垢抜けた派手な雰囲気の人で、斉藤くんとはタイプが違う、「怖い」人だった。彼は喋る時、相手の目をじっと見つめる。その人の心情を顔から読み取ろうとするみたいに。
僕は最初、菊池くんのことが苦手だった。その思いは日に日に薄れていった。
『細木、ほら』
菊池くんは僕が落とした消しゴムを拾ってくれた。
『なぁ、俺達と一緒に練習しようぜ』
体育の授業の時、チームを組んでくれる仲間がいない僕に声を掛けてくれた。
『これやるよ』
僕にサイダーをくれた。自動販売機で当たったから、なんて、気まぐれの優しさが僕は何より嬉しかった。結局サイダーは姉ちゃんに取られてしまったけど、僕の悲しみを菊池くんは笑い飛ばした。
『そんなこと気にしてたの? 馬鹿だよ、お前って』
僕をからかうようなことを言いながら、凄く優しい表情をしていて、笑顔がとても眩しかった。
*
学校帰りにサイダーを買った。家に帰って少しずつ飲んでいると姉ちゃんに奪われそうになる。慌てて腕の中に隠すと「姉に逆らうなんて生意気だ」と怒られた。
「どうしたのよ急に。あんた、炭酸飲めないんじゃないの」
「飲めないから飲む練習をするんだ」
「何それ、意味分かんない」
「分かんなくて良いよ。とにかくこれは僕のだから」
舌の上でぱちぱちと泡が跳ねる。僕はそれを飲みながら、菊池くんのことを思い出す。
きっと菊池くんは知らないだろう。僕がイヤホンを付けてゲームをするフリをしながら、本当は彼の声に耳を澄ませているということを。
菊池くんは気さくな性格で、男女問わず様々な人と喋っていた。それでも一番喋っている相手は斉藤くんだった。
斉藤くんと喋っている時の菊池くんは声が明るくて、とても楽しそうだ。
どうしてだろう。最近ずっと菊池くんのことを考えてしまう。彼が僕にくれた優しさを思い出し、彼の笑顔を思い出すと、胸がぎゅうっと締め付けられるような痛みを感じる。その痛みは、確かに痛いのだけど、同時に楽しくもあった。まるで、新作のゲームが発売される前日みたいに。心臓がドキドキとして、息をするのも苦しくなる。だけど、菊池くんのことを嫌いになることはない。それどころか、むしろ……。
サイダーを少しずつ飲みながら、ソシャゲにログインする。以前はあんなにハマって長時間やっていたゲームが、今ではほんの一瞬の快楽を満たすためだけに存在する、どこか空虚なものになってしまった。ゲームがつまらないのではない。僕が変わってしまったのだと思う。
女の子のイラストを眺めながら、ため息を吐く。
菊池くんに抱いている思いは、「推し」に対するものに少しだけ似ていて、だけど微妙に違っていた。「推し」を見ている間、僕の心は満たされる。だけど菊池くんと一緒にいる時、僕の心は彼の一挙手一投足に惑わされ、そして物足りないと思う。
いつも一緒にいたい。ずっと喋っていたい。菊池くんの優しさが僕のためだけにあれば良いのに。
……そんなこと、言えるわけがない。結局のところ僕は、彼の沢山のクラスメイトのうちのひとりでしかないんだから。
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