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第四章 末路

第六回 光陰(前編)

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 雲の欠片すらない、晴れ渡る青空だった。
 春晴れである。ここ最近は、晴天に恵まれていた。気候も穏やかで、百姓達も今年の作柄には期待しているようである。
 裃姿の雷蔵と清記は、槍持・供侍・草履取りと、大仰な供廻りで建寺花村を出た。
 こうした供廻りを連れて歩くのは、雷蔵にとって初めての事である。幼い頃から、供廻りを連れて歩く父の姿を憧れを込めて眺めていた。だがいざ自分がとなると、些か気恥ずかしいものがある。道々での視線を嫌でも集めてしまうからだ。

(嫌だな、こういうのは)

 宇美津への旅は、二人きりだった。いつかは、一人で旅をしたいと憧れるほど、旅というものが好きになった。故に、このような仰々しい供廻りは、窮屈に感じる。独りの方が気楽でいい。

「胸を張れ」

 と、清記が不意に口を開いた。

「慣れぬだろうがな」
「はい。初めての事ですので」
「気持ちは判る。しかし公式ともならば、格式や慣例も無視できぬものだ」
「頭では判っているのですが」
「慣れるしかない」
「……」
武張ぶばってはいかん。しかし、代官としての威厳も忘れてはならぬのだ」
「はい」
「民はお前の自信の無さを見ているぞ」

 父の跡目を継ぐという事への不安を、見透かされていた。この父は、何でも知っているのだ。と、最近よく思う。

(恐ろしい人だ)

 それは、雷蔵が抱く父への偽りざる感情である。父への親しみよりも、恐怖が勝る。決して怒鳴ったり、暴力を振るったりする事は無い。それだけに、機嫌が読み取れずに恐ろしく思えるのだ。
 城下に入ると、人の往来が激しさを増した。武士や町人だけでなく、百姓の姿まである。
 市が立っていた。寺の門前や寺壁に沿って売り物が並べられ、商人が威勢のいい売り文句を口にしている。今日は特に安売りをしているのだろう、客は我先にと贖っていた。

「今日は十日だな」

 清記が、その様子に目をやりながら言った。

「すると、今日は妙国市みょうこくのいちが立つ日ですね」
「この賑わいは、その為か」

 毎月十日は、妙国寺の門前で市が立つ。俗に、妙国市と呼ばれているこの市は、貧しい者でも買えるよう、かなりの安価で物が売られていた。これは妙国寺が貧者救済の為に行っているもので、安価で売る分、商人に掛かる税を藩は安くしているという。建花寺村の市も、この妙国市を真似て始めたものらしく、その開催も妙国市を避けて行われている。
 雷蔵は、その市を横目で眺めながら通り過ぎた。

富者ふじゃの勤めだな)

 と、雷蔵は感心した。
 富める者は、貧しい者を助ける義務があると考えている。だが、それを実践している富者は少ない。殆どの者が、より富もうとして貧者から搾取し、私腹を肥やしている。そうした商人や役人を、旅で多く見てきた。言語道断の所業であり、そうはなるまいと思ったものだ。
 妙国寺の門前を過ぎて武家地に入ると、暫くして堀と石垣が見えてきた。
 夜須城である。
 濃い黒色の、四層五階の天守が陽を浴びている。
 二十六万石の牙城にして、東北諸藩の侵攻から江戸を守る藩屏。

(いつ見ても美しいものだ)

 雷蔵は、その威容を見上げて思った。
 この城塞は、徳河家に弓引いた賊将の居城だった。それを神君の命により栄生氏が攻め滅ぼすと、その居城を与えられ、改修に改修を重ねて現在の形にしたという。
 緊張していた。〔麒麟児〕と呼ばれる主君・栄生左近衛権少将利景に初めて会うのだ。自分の膝が震えているのを感じ、雷蔵はそれを止めるかのように、奥歯を噛み締めた。
 雷蔵は、御年二十六になる主君を、心から敬愛していた。
 生来の病弱ながら、積極的に藩政改革に取り組んでいる。その姿勢に感銘を受けたのだ。特に、長く藩内に寄生していた無能な名門武士の既得権益を取り上げ、能力主義を実施して藩内の風通しを良くした事も素晴らしい業績だと思った。
 三郎助によれば、この名君を慕う大名は多く、身体さえ丈夫ならば幕閣の中枢にいるだろうと囁かれているらしい。

(胸を張って仕えられる主君だ)

 と、それを聞いた雷蔵は強く思ったものだ。崇拝に値する主君を戴く。それほど恵まれている武士が、この世にどれだけおろうか。
 雷蔵が勤王の志士を斬っているのも、利景の命令だからこそという側面もある。勿論、有無を言わさぬ父の命令ではあるが、この名君を少しでも助けられると思えば剣の奮い甲斐もある。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 二の丸御殿。その控えの間で、暫く待たされた。

「緊張するか?」

 清記に訊かれた。

「多少」
「真剣で斬り合うよりましだろう」
「そうかもしれませんが、私は何を言うべきか。何と返すべきか、と思うと」
「訊かれた事にだけ答えればよい。お殿様は、そう難しい御方でもないのだ」
「……」

 使い番が現れ、謁見する表書院に案内された。そこでは、二人の男が左右に端座していた。
 右の男は、初めて見る顔だ。左の学者風の男は、相賀舎人。見紛いようもない、あの男だ。

「久しぶりだな、内住代官」

 右側の男が言った。
 中肉中背。頭には幾分かの白髪が混じり、日焼けした顔には、深い皺が見て取れた。歳は五十路を過ぎたぐらいだろう。

「腕の見事さは衰え知らず。刺客としても郡政を預かる代官としても」
「お褒めいただき、嬉しゅうございます」

 清記が平伏したので、雷蔵もそれに続いた。

「先日はご協力ありがとうございます。助かりました」

 次に、相賀が口を開いた。

「なんの。これも、お役目なれば」
「相変わらず、働き者なのですな。平山殿は」

 と、苦笑する。

「この若者が、ご子息ですか?」

 清記から、目で合図された。雷蔵は再び平伏した後、名を告げた。

「私は、中老の相賀舎人。真崎の件については世話になった」
「いえ」

 相賀。初めて、真面に言葉を交わす。今まで何度か顔を見ている。その内の一回は命を救った。それでも初めてだと思うと、妙な気分だった。

「宇美津でも活躍したと聞いた。こんな少年がと驚いたが、夜須侍として誇らしくもある」
「父の助力があってこそ。私は半人前でございます」
「うむ。謙虚で、善い心掛けだ。今後も存分に働いてもらうぞ」

 雷蔵は静かに頭を下げた。

「流石は平山清記の後継者」

 そう言ったのは、右側の男だった。そして、立ち上がると、雷蔵の目の前に来た。

「剣を使うにしては、細いな」

 二の腕を掴まれた。一頻り揉まれる。雷蔵はどう反応していいか判らず、目を伏せたままにした。

「暗い瞳をしているのが些か気になるが、御手先役を継ぐ宿命とあれば、そうなるのも仕方あるまい」

 返答に困った。何と言うべきか。そもそも、この男は誰なのだ?

「添田甲斐という」

 雷蔵の心中を見透かしたよに、男が言った。

「お前は誰だ? と、思ったであろう? だから答えた。儂は添田甲斐」

 添田は、皮肉混じりの笑みを見せた。

(この方が)

 利景を教え導いた、学問の師。そして、相賀と共に利景の改革を推し進め、能力のみで執政にまで登り詰めた非名門の逸材。つまり、この二人が藩政改革の両輪という事だ。
 そうしていると、小姓が若々しい声が、栄生左近衛権少将利景の御成りを告げた。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 雷蔵は、深く平伏した。何者かが上座に座った。その様子は見えないが、気配で判る。

(利景公だ)

 雷蔵は息を飲んだ。
 今、目の前には心から敬愛する主君がいるのだ。上座に向けた頭頂に、熱すら感じる。
 利景が、実父・栄生利永さこうとしながの病死に伴い、その名跡を継いだのは十二年前。雷蔵が五歳の時だ。
 末子であった利景は、同母兄の又一郎利之またいちろう としゆきと流血を伴た跡目争いに勝利し、藩主の座に就いた。しかし、当時十四歳だった利景は、犬山梅岳の飾り物に過ぎなかったという。しかし少しずつ有能な人材を集めると、梅岳を追放。そして藩政改革に乗り出した。それは藩内を揺るがす衝撃で猛烈な反発もあったが、添田甲斐や相賀舎人など利景が密かに見出した人材の力で押さえつけた。父はその時も働いたと言っていた。
 利景はやるべき事を、最も適した時期に固い決意を以て断行したのである。それ以降、夜須の雰囲気は変わったという話をよく耳にする。
 家門でなく能力によって登用し、藩内の風通しが良くなったからであろう。だから、身分が低くても腐らず役目に励む。結果さえ残せば、出世する機会があるからだ。
 その全てを指揮した利景が、今目の前にいる。

「面を上げよ」

 声が聞こえた。濁りがない、透き通る声だ。
 胸が高鳴る。脚が、手が、腰が、奥歯さえも震える。

「はっ」

 雷蔵は、ゆっくりと顔を上げた。そこには細面の、胸を突くほど青く白い顔があった。

「ほう……。そちが、噂の平山雷蔵か」

 利景は、そう言うと笑みを浮かべた。

「私が、左近衛権少将である」

 雷蔵は、再び平伏した。

直答じきとうを許す」
「内住代官平山清記が長子、平山雷蔵でございます」

 雷蔵は、身を固くして再び平伏した。

「おい、私は神でも仏でもないのだ。そう緊張するな」

 利景が苦笑し、添田と相賀が笑い声を挙げた。

「此度は、元服の挨拶に参りました」
「そうか。そんな歳か」

 父に言われた通りの口上を、雷蔵は述べた。利景はそれを聞いて頷いてくれている。

「お前の武功は耳にしている。宇美津での働きは実に見事。そして、真崎を始末した事で夜須勤王党も瓦解したに等しい。全てはお前と清記の尽力によるものだ」
「ありがたき幸せ」

 親子の声が重なった。

「うむ。お前達のような者を家臣に抱えているのは、誇らしく頼もしい限りだ」
「そのようなお言葉……」

 身体の芯から、熱くなった。過分なる言葉だ。もし目の前に利景がいなければ、飛び跳ねて喜んだであろう。

「雷蔵よ」

 そう言った利景が、激しく咳き込んだ。

「殿」

 すかざず、添田が声を掛ける。

「大事ない」

 脇息きょそくにもたれながら、利景は気遣う添田を手で制した。

「すまぬな。私は見ての通り虚弱だ。麒麟児と呼ばれているらしいが、これでは形無しだ」

 咳を止めた利景だが、胸から微かな喘鳴が聞こえた。

「私にはやるべき事が山のようにある。しかし、残された命数はそう長くはないだろう。だからだ、雷蔵。私を助けて欲しい」
「そんな」

 思わず、悲痛な声を挙げた。そのような弱音は聞きたくない。これからも、自分は主君の為に、剣を奮いたいのだ。

「気弱な事を申されないでくだされ」

 清記が言った。雷蔵もそうだ、と頷く。

「嘘は付きたくないのだ。何事にもな」

 利景は、清記から雷蔵に視線を向けた。病弱な利景には思えない、鋭い視線。雷蔵は背筋を伸ばした。

「今までに何人斬った?」
「覚えていません。しかし、二十は斬っていると思います」
「そうか……。覚えてないほどか。どおりで暗い眼をしている」

 役目で斬った人数は覚えてはいた。しかし、宝如寺の賊徒を相手にした頃から、数えるのを止めた。

「そうさせたのは、私なのだな。そして、これからもお前には汚い役目をさせるだろう。役目柄、表沙汰に出来ぬし何の名誉も無い。武士としては悲しい限りと同情する。しかし、これも民の安寧の為だ。お前には何もしてやれんが、私は片時も忘れぬ。そして、この胸に焼き付けておく。死ぬその瞬間までだ」
「はい」
「私も戦おう。お前と共に。その証をお前に捧げる」

 と、利景は小姓に目で合図をした。

「受け取るがよい」

 小姓が進み出て雷蔵の前に差し出したのは、ひと振りの刀だった。

関舜水八虎せきしゅんすいはちとらである」
「関舜水、と」
「手に取れ」
「はい」

 ずしりと重い。灰色の鞘は、鉄製になっている。

「抜け」

 雷蔵は頷くと、ゆっくりと引き抜いた。

「これは」

 雷蔵は、その切れ長の眼をいっぱいに見開いた。
 黒。禍々しいほどに、刀身が黒いのだ。そしてその黒が、刃紋の猛烈な白さを際立たせている。

「どうだ? 黒刃の刀とは洒落ておろう」
「これほどの業物を、私に」

 雷蔵は、その刀身に魅入ってしまっていた。
 二尺八寸ほど。厚身で、反りは浅い。この泰平の世には似つかわしくない、戦場刀である。

(不思議だ……)

 初めて手に持ったというのに、何年も使い続けたかのように手に馴染む。吸い付いてくる、そんな感覚があった。

「この刀は、名工・関翁俊の作。私も鎚を持って少し打たせてもらったよ」
「殿、御自ら?」
「ああ。私の想い、願いを込めてね。次代の御手先役に授ける為に」

 言葉が出なかった。お目通りだけでも光栄だった。労いの言葉を掛けられ事には、無上の喜びを感じた。その上、殿の御手製の業物の下賜かしである。

「これを床の間に飾って、『我が家の家宝に』などとは考えるではないぞ」
「ですが、このような銘刀を」
「使え、雷蔵。民の為に。天下泰平の為に。折れるまで使え。この刀は、私がお前と共に戦っている証なのだ」

 雷蔵は、刀を納めると平伏した。

「使わせて頂きます。この刀で、殿の前に立ちはだかる全てを斬り伏せます」
「その意気だ、雷蔵。ただ私が憎いからと、牛馬のように酷使せんでくれよ。なぁ、清記」
「その時は、私が殿にご報告いたしましょうぞ」

 珍しい父の冗談に、利景が力無く一笑した。
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