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最終章 天暗の仔
第二回 復讐するは――(後編)
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雄勝城に呼び出された。
羽合が刺客に襲われて、十日後の事だ。
雄勝城本丸御殿の一間。裃姿の雷蔵を、上座の忠通は笑顔で迎え入れた。
「ご尊顔を拝し、恐悦……」
平伏しそこまで言うと、
「よいよい」
と、言葉を遮った。
「堅苦しい挨拶は抜きじゃ」
「はっ」
忠通は、当年七十になる老傑で、当世には珍しく白く長い髭を蓄えている。まるで深山幽谷から出でた漢土の仙人を思わせるものがあり、〔太公望〕と渾名されるのも頷ける。
「こっちへ参れ」
忠通は立ち上がり、雷蔵を縁側へ招いた。
そこからは、立派な庭が見える。冬を目の前にしたこの季節では、どんなものも寂しいものに見えてしまうが、春になれば花々が盛大に咲き、庭園を埋め尽くすのだろう。
(しかし、忠通様に花は似合わぬな……)
と、内心で苦笑した。
忠通は、大きな男なのだ。老齢だが身体も逞しくあり、今でも弓馬を嗜んでいるという。初めて面会した時は、想像とは違った姿に驚いたものだ。並んで座っても、雷蔵より頭一つ大きい。そんな男が花など似合うはずがない。
「羽合が襲われたそうだの」
「はい。刺客は趙教殿の用心棒になりすましておりました」
「ふむ。中々気が抜けんのう」
「ですが、趙教殿も手を打ってくださっています」
あれから趙教は寮の出入りを厳しくし、食客の選別も見直している。それでも、利重との決着をつけぬ限りは、刺客は現れ続けるであろう。
「どうじゃ、雷蔵。雄勝に骨を埋めぬか?」
唐突に、忠通が話題を変えた。
「その儀につきましては……」
「羽合は、うちで面倒を見る。上士として迎え入れるつもりじゃ。あの男の才は得難い」
「羽合様は亡き利景公の薫陶を受けた、秀才でございます。きっと忠通様の片腕になる事でしょう」
「あの者には期待しておる。だが、儂は強欲でのう。お前も欲しいのじゃ」
「……」
「宝暦から続いた勤王騒動も、ひと段落がついた。これからは、諸藩がこぞって藩政改革に取り組む時代になるじゃろう。しかし、儂はその成果が出るまで生きてないじゃろうし、そこまで長生きしとうない」
雷蔵は黙って話を聞いた。
「儂の次は、孫の百太郎じゃ。為政者としての筋は悪くないが、少々気弱でなぁ。そこが心配なのじゃよ」
忠通には、文部介忠継という跡継ぎがいたが、世子のまま病死した。故にその嫡男である百太郎が世子となっている。まだ十三と若いが、名君の片鱗は見えているらしい。
「どうか、百太郎を支えてやってくれんか」
忠通が軽く頭を下げた。
狡い。と、雷蔵は思った。時の将軍から太公望と呼ばれ、諸侯からも信頼厚い男が頭を下げた。これを断れるはずがあろうか。
「頭を上げてくださいませ、忠通様」
「駄目かの」
「お気持ちは、嬉しく思います。忠通様に仕官を望まれるなど、武士として無上の喜びです。ですが、まず復讐があるのです。私が仮に別の人生を歩むにしても、全ては利重を斬ってからの事。私の一命は、栄生家に道具にされ続けた一族の無念を晴らす為にあるのです」
「揺るがんのか」
「毛ほどにも」
すると、忠通は闊達に笑った。
「そうか、ならばもう止めまいて」
「申し訳ございません」
「よい。さて、この事をお前に伝えるかどうか悩んだが、決心しているのなら伝えようと思う」
「聞きましょう」
「静照院殿が利重に再嫁するそうじゃ。それにより、常寿丸が正式に世子となった」
「何ですと」
雷蔵は思わず声を荒げた。
「江戸に放っている密偵からの報告だ。義妹との婚姻は逆縁であるが、これには実家の京極や老中の田沼だけでなく、家治公も乗り気だ。もう覆せぬな」
返す言葉が無かった。怒りで血が沸き、眩暈すら覚える。利重。何という暴挙をしてくれたのか。その座を奪うだけでなく、妻子すら奪い取るとは。
雷蔵は、無言のまま立ち上がっていた。
「行くのかの?」
「はい。申し訳ございませんが、私は」
「よいよい。本懐を遂げて参れ」
と、忠通が銭の入った袋を差し出した。
「これから先は手を貸せぬ。故に銭を幾らでも貸そう」
雷蔵は両手で受け取ると、その場に平伏した。
「だがな、死のうなどと思うなよ。お前は儂に銭を返さねばならぬ。だから、必ず生きて帰って参れ」
不意に熱いものが溢れ出した。雷蔵は、それを否定するように伏せた目を閉じた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
屋敷に戻ると、羽合と趙教、そして奉公人に別れの挨拶を交わした。
趙教は最後まで雄勝に残るように説得してきたが、羽合がそれを止めた。
「全てを終わらせてこい」
羽合は、それ以上何も言おうとしなかった。
引き止めを諦めた趙教が、選別に銭と黒羅紗洋套を雷蔵に贈った。忠通に借りた銭を合わせれば、軍資金には不自由しないだろう。黒羅紗洋套は、夜露を凌ぐのには最適だ。
その夜は食堂で別れの宴が催された。集まったのは、趙教や羽合の他に懇意にしていた食客や奉公人達だ。趙教は別れを惜しみ、珍しく酒が過ぎた羽合が、陽気に舞って笑いを誘った。
翌朝、払暁間もなく目を覚ました。昨夜の宴が尾を引いたのか、寮内はまだ寝静まっている。
雷蔵は、素早く旅装を整えた。筒袖に野袴。手甲、脚絆、塗笠。全て、返り血が目立たぬよう、黒を基調にしたものでまとめた。そして、黒羅紗洋套を纏う。ここまで黒で揃えれば、まるで影のようだ。
「一身の黒は、ご心情を現しているんですかねぇ」
居室を出ると、声を掛けられた。貞助である。鼠顔の小男も中間風であるが、同じく旅装だった。
「お待ちしておりましたぜ」
貞助が顔を上げると、前歯を剥き出して嗤った。
「何とまぁ、見計らったように戻ってくる男だな」
「へへへ。あっしは雷蔵さんの相棒ですからね。雷蔵ある所に貞助あり」
「勝手にしろよ」
「それに、あっしにも添田様の仇討ちがございますしね」
「まぁ、お前にも理由はあるか」
「お、そのお刀は、清記様のでございやすね」
と、貞助が雷蔵の腰に目をやった。
扶桑正宗を佩いたのは久し振りだった。雄勝では、安物の無銘を使っていたのである。復讐を為すには、この刀の他には無い。
父の刀。平山宗家嫡流だけが継承する銘刀。そう思えば、腰の重みも違ってくる。
二人だけで寮を出た。この門出は地獄への一里塚。見送りなどいない方がいい。
「おっと、お別れが惜しい方がいらっしゃいますぜ」
そう言って足を止めたのは、西馬音内村を出てすぐを流れる川に差し掛かった所だった。
男がいた。行く手を阻むように立っている。
「雷蔵さんは、意外とご友人が多いようで」
男は、絵師の廬江長之助だった。一剣を腰に差し、剣呑な氣を発している。
「私は友人にした覚えはないがな」
「へへ。雷蔵さんの友人は、あっしだけでしたね」
そう言う貞助を無視して、雷蔵は前に出た。
「説明してもらいましょうか」
「悪いね。これも仕事なんだ」
蘆江は、口の端を緩めて言った。
「絵師ではなかったのですか?」
「絵師だよ。だが、そうした一族でもあるのだ」
「そうですか」
「飲み込みがいいね」
「私も同じですから」
「なら、話は早い」
蘆江が、一刀を抜き払った。
「羽合様を襲ったのも、あなたの仲間ですか?」
「俺の依頼は、お前を監視し斬る事だけだ。あの者は別口で雇われたのだろう」
「雇い主は?」
「言うかよ」
雷蔵は愚問をした事を喰いつつも、扶桑正宗を抜いた。雇い主を聞いた所で、利重を斬るという事は変わりはしないのだ。
「景気づけに、バシッと斬り捨ててやりやしょうぜ」
と、囃す貞助に、雷蔵は舌打ちをした。
この男から発する禍々しい殺気は、ただ者ではない事を物語っている。
(出発そうそう、骨のある相手だ)
雷蔵は黒羅紗洋套の前を払い、扶桑正宗に手を掛けた。
羽合が刺客に襲われて、十日後の事だ。
雄勝城本丸御殿の一間。裃姿の雷蔵を、上座の忠通は笑顔で迎え入れた。
「ご尊顔を拝し、恐悦……」
平伏しそこまで言うと、
「よいよい」
と、言葉を遮った。
「堅苦しい挨拶は抜きじゃ」
「はっ」
忠通は、当年七十になる老傑で、当世には珍しく白く長い髭を蓄えている。まるで深山幽谷から出でた漢土の仙人を思わせるものがあり、〔太公望〕と渾名されるのも頷ける。
「こっちへ参れ」
忠通は立ち上がり、雷蔵を縁側へ招いた。
そこからは、立派な庭が見える。冬を目の前にしたこの季節では、どんなものも寂しいものに見えてしまうが、春になれば花々が盛大に咲き、庭園を埋め尽くすのだろう。
(しかし、忠通様に花は似合わぬな……)
と、内心で苦笑した。
忠通は、大きな男なのだ。老齢だが身体も逞しくあり、今でも弓馬を嗜んでいるという。初めて面会した時は、想像とは違った姿に驚いたものだ。並んで座っても、雷蔵より頭一つ大きい。そんな男が花など似合うはずがない。
「羽合が襲われたそうだの」
「はい。刺客は趙教殿の用心棒になりすましておりました」
「ふむ。中々気が抜けんのう」
「ですが、趙教殿も手を打ってくださっています」
あれから趙教は寮の出入りを厳しくし、食客の選別も見直している。それでも、利重との決着をつけぬ限りは、刺客は現れ続けるであろう。
「どうじゃ、雷蔵。雄勝に骨を埋めぬか?」
唐突に、忠通が話題を変えた。
「その儀につきましては……」
「羽合は、うちで面倒を見る。上士として迎え入れるつもりじゃ。あの男の才は得難い」
「羽合様は亡き利景公の薫陶を受けた、秀才でございます。きっと忠通様の片腕になる事でしょう」
「あの者には期待しておる。だが、儂は強欲でのう。お前も欲しいのじゃ」
「……」
「宝暦から続いた勤王騒動も、ひと段落がついた。これからは、諸藩がこぞって藩政改革に取り組む時代になるじゃろう。しかし、儂はその成果が出るまで生きてないじゃろうし、そこまで長生きしとうない」
雷蔵は黙って話を聞いた。
「儂の次は、孫の百太郎じゃ。為政者としての筋は悪くないが、少々気弱でなぁ。そこが心配なのじゃよ」
忠通には、文部介忠継という跡継ぎがいたが、世子のまま病死した。故にその嫡男である百太郎が世子となっている。まだ十三と若いが、名君の片鱗は見えているらしい。
「どうか、百太郎を支えてやってくれんか」
忠通が軽く頭を下げた。
狡い。と、雷蔵は思った。時の将軍から太公望と呼ばれ、諸侯からも信頼厚い男が頭を下げた。これを断れるはずがあろうか。
「頭を上げてくださいませ、忠通様」
「駄目かの」
「お気持ちは、嬉しく思います。忠通様に仕官を望まれるなど、武士として無上の喜びです。ですが、まず復讐があるのです。私が仮に別の人生を歩むにしても、全ては利重を斬ってからの事。私の一命は、栄生家に道具にされ続けた一族の無念を晴らす為にあるのです」
「揺るがんのか」
「毛ほどにも」
すると、忠通は闊達に笑った。
「そうか、ならばもう止めまいて」
「申し訳ございません」
「よい。さて、この事をお前に伝えるかどうか悩んだが、決心しているのなら伝えようと思う」
「聞きましょう」
「静照院殿が利重に再嫁するそうじゃ。それにより、常寿丸が正式に世子となった」
「何ですと」
雷蔵は思わず声を荒げた。
「江戸に放っている密偵からの報告だ。義妹との婚姻は逆縁であるが、これには実家の京極や老中の田沼だけでなく、家治公も乗り気だ。もう覆せぬな」
返す言葉が無かった。怒りで血が沸き、眩暈すら覚える。利重。何という暴挙をしてくれたのか。その座を奪うだけでなく、妻子すら奪い取るとは。
雷蔵は、無言のまま立ち上がっていた。
「行くのかの?」
「はい。申し訳ございませんが、私は」
「よいよい。本懐を遂げて参れ」
と、忠通が銭の入った袋を差し出した。
「これから先は手を貸せぬ。故に銭を幾らでも貸そう」
雷蔵は両手で受け取ると、その場に平伏した。
「だがな、死のうなどと思うなよ。お前は儂に銭を返さねばならぬ。だから、必ず生きて帰って参れ」
不意に熱いものが溢れ出した。雷蔵は、それを否定するように伏せた目を閉じた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
屋敷に戻ると、羽合と趙教、そして奉公人に別れの挨拶を交わした。
趙教は最後まで雄勝に残るように説得してきたが、羽合がそれを止めた。
「全てを終わらせてこい」
羽合は、それ以上何も言おうとしなかった。
引き止めを諦めた趙教が、選別に銭と黒羅紗洋套を雷蔵に贈った。忠通に借りた銭を合わせれば、軍資金には不自由しないだろう。黒羅紗洋套は、夜露を凌ぐのには最適だ。
その夜は食堂で別れの宴が催された。集まったのは、趙教や羽合の他に懇意にしていた食客や奉公人達だ。趙教は別れを惜しみ、珍しく酒が過ぎた羽合が、陽気に舞って笑いを誘った。
翌朝、払暁間もなく目を覚ました。昨夜の宴が尾を引いたのか、寮内はまだ寝静まっている。
雷蔵は、素早く旅装を整えた。筒袖に野袴。手甲、脚絆、塗笠。全て、返り血が目立たぬよう、黒を基調にしたものでまとめた。そして、黒羅紗洋套を纏う。ここまで黒で揃えれば、まるで影のようだ。
「一身の黒は、ご心情を現しているんですかねぇ」
居室を出ると、声を掛けられた。貞助である。鼠顔の小男も中間風であるが、同じく旅装だった。
「お待ちしておりましたぜ」
貞助が顔を上げると、前歯を剥き出して嗤った。
「何とまぁ、見計らったように戻ってくる男だな」
「へへへ。あっしは雷蔵さんの相棒ですからね。雷蔵ある所に貞助あり」
「勝手にしろよ」
「それに、あっしにも添田様の仇討ちがございますしね」
「まぁ、お前にも理由はあるか」
「お、そのお刀は、清記様のでございやすね」
と、貞助が雷蔵の腰に目をやった。
扶桑正宗を佩いたのは久し振りだった。雄勝では、安物の無銘を使っていたのである。復讐を為すには、この刀の他には無い。
父の刀。平山宗家嫡流だけが継承する銘刀。そう思えば、腰の重みも違ってくる。
二人だけで寮を出た。この門出は地獄への一里塚。見送りなどいない方がいい。
「おっと、お別れが惜しい方がいらっしゃいますぜ」
そう言って足を止めたのは、西馬音内村を出てすぐを流れる川に差し掛かった所だった。
男がいた。行く手を阻むように立っている。
「雷蔵さんは、意外とご友人が多いようで」
男は、絵師の廬江長之助だった。一剣を腰に差し、剣呑な氣を発している。
「私は友人にした覚えはないがな」
「へへ。雷蔵さんの友人は、あっしだけでしたね」
そう言う貞助を無視して、雷蔵は前に出た。
「説明してもらいましょうか」
「悪いね。これも仕事なんだ」
蘆江は、口の端を緩めて言った。
「絵師ではなかったのですか?」
「絵師だよ。だが、そうした一族でもあるのだ」
「そうですか」
「飲み込みがいいね」
「私も同じですから」
「なら、話は早い」
蘆江が、一刀を抜き払った。
「羽合様を襲ったのも、あなたの仲間ですか?」
「俺の依頼は、お前を監視し斬る事だけだ。あの者は別口で雇われたのだろう」
「雇い主は?」
「言うかよ」
雷蔵は愚問をした事を喰いつつも、扶桑正宗を抜いた。雇い主を聞いた所で、利重を斬るという事は変わりはしないのだ。
「景気づけに、バシッと斬り捨ててやりやしょうぜ」
と、囃す貞助に、雷蔵は舌打ちをした。
この男から発する禍々しい殺気は、ただ者ではない事を物語っている。
(出発そうそう、骨のある相手だ)
雷蔵は黒羅紗洋套の前を払い、扶桑正宗に手を掛けた。
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