【受賞作】小売り酒屋鬼八 人情お品書き帖

筑前助広

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第一回 鯰のすっぽん煮

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みどりちゃん、こっちに熱いの一本つけてくんなぁ」

 土間席から、酔っ払いの景気のいい声が飛んできた。

「それと、美味しい肴も一つ頼むよ」

 その声に合わせるように、碧は板場から顔を出し、「あいよ」とだけ愛想よく返事をした。
 だが顔を引っ込めると、その表情は一転して曇り、額に浮かんだ汗を左手の甲で拭った。
 繁盛しているのはありがたいのだが、こっちは板前修行なんかしていない素人なのだ。たった一人で板場を切り盛りするのにも限度がある。
 碧は、鍋の中で煮られている大根を皿によそうと、窓の外に目を向けた。
 茜色に染まっていた町並みは、既に夕闇に包まれている。居酒屋であるこの店は、これからが本番だった。
 下野しもつけで十二万石を有する、夜須藩やすはん。その城下、蔵前町くらまえまちにある小売り酒屋〔鬼八きはち〕である。土間に置かれた机の席が六つあるだけの店で、その奥にはいくつかの酒樽が並べられていた。
 この鬼八は、元々は小売りの酒屋だったのだが、去年の春に二代目店主で父親でもある熊吉が、店内の土間や軒先に長床几ながしょうぎを置いて、夜は居酒屋として開くようにしてしまったのだ。しかも店で出す料理はお前が作れと、無責任にも丸投げしたのである。
 どうして急に居酒屋を始めたのかと、その理由を訊いたが、

「なぁに、酒屋だけだとこの先心配でよ」

 と、何の相談もしなかった事を悪びれる様子も無かった。昔から、そんな父親だった。思い立ったら、すぐに動く。こちらの事情もお構いなしに。時には憎たらしいとも思うが、憎み切れないのもまた、父親だからだ。
 兎も角、それからの準備が大変だった。改築しながら商いを続け、いざ料理を出そうとすると、あれが無いだのこれが足りないだの。
 前途多難な始まりだったが、表店という大通りに面した立地と、碧が作る安い料理、そして酒屋が選んだ確かな酒が評判となり、町人だけでなく二本差しも足繁く通うほどになっている。

(そりゃ閑古鳥が鳴くよりはマシだけどさ。これじゃ、息吐く暇もありゃしない)

 そうはぼやいたものの、碧はこの忙しさが嫌いではない。繁盛している証拠であるし、思い出したくない記憶や煩わしいあれこれを忘れさせてくれる。それが今の碧にとって、救いでもあるのだ。
 二年前、碧は夫に捨てられた。婚家を追い出されたのだ。
 相手は西山喜重郎にしやま きじゅうろうという徒士組かちぐみ平士ひらざむらいで、小売り酒屋だけだった鬼八の常連だった。この店で出会って恋に落ち、父の反対を押し切って結ばれたのだが、婚家で待っていたのは義母の容赦ないいじめだった。
 義母は何かにつけ身分差を持ち出しては、碧のやる事なす事に文句をつけ侮辱した。何故、喜重郎との結婚を認めたのか? と、疑問に思うほど、いじめは執拗なものだった。
 碧は無言でそれに耐えたが、結婚から三年後の春に喜重郎から離縁を申し付けられた。理由は、子宝に恵まれなかったからだ。

「嫁して三年子なきは去る、と世間は言うからな。私を恨むなよ」

 それを言われると、何も言えなかった。
 そして碧は、

石女うまづめのお前に何の価値も無い」

 と義母に蔑まれ、婚家を去った。自分の存在を、これまで生きて来た全てを否定されたのだと、泣くしかなかった。
 もう二年前の話だ。今では、喜重郎への愛情はきれいさっぱり消え失せている。縁を切って良かったのだとも思える。それでも癒えない心の傷が、今でも一人の時に現れては疼く。子どもを産めないという、悩みと哀しみもある。それを忘れる為にも、今の忙しさは必要だった。

「あいよ、お待ちどうさま」

 碧は気を取り直し、煮しめた大根と熱燗をお盆に乗せて板場から出た。

「あっ」

 碧の配膳する手が止まった。客の輪の中に入って、酒を飲む熊吉の姿があったのだ。こちとら忙しく立ち回っているというのに、あの陽気な笑みを浮かべている飲兵衛の顔を見ていると、無性に腹が立つ。

「おとっちゃん、何飲んでんだい。少しは手伝っておくれよ」
「こいつぁ、すまねぇ。ちょいと、ほんのちょいとと思ったんだよ」
「ちょいと? ちょいとの酒で、そんな顔が赤くなるもんですか」

 熊吉の顔が、赤黒くなっている。
 父は少しの酒ですぐに赤くなる性質たちであるが、この量は一杯や二杯の量ではない。さては、店の酒をちびちびやっているに違いなかった。

「もう、目を離すとすぐこれなんだから。あっ、まさかその酒」
「へへ」
「へへじゃないわよ。お父ちゃんを飲ませる為に、店やってるわけじゃないのよ」

 すると、常連客達が一斉に笑った。このやり取りは、いつもの事なのだ。いつもの事なのだが、それでも腹が立つ。

「おうおう。しゃんしゃん沸いた茶釜じゃあるめぇし、そう怒んなって。ええ、お客さんも笑っているぜ?」
「お父ちゃんがそうさせているんでしょ。酒代、ちゃんともらいますからね」
「厳しいなぁ、碧ちゃんは。鬼八の大将も形無しだ」

 常連客の一人が囃し立て、熊吉が舌を出し薄くなった頭を掻いた。皆が手を叩いて笑っている。
 父は、蔵前町の名物親父として人気者だった。それでいて、不思議と人望もある。生来の気質か、面倒見がいいのだ。昔は気の荒さで顔役のように振る舞っていたらしいが、今では荒事からきれいさっぱり足を洗い、町の世話役として大小様々な相談に乗っている。
 そんな父を、碧は誇らしく思っている。母は自分を産んですぐに死んだそうだが、父は娘が嫌がるだろうと、後添いも娶らず男手一つで育ててくれたのだ。きっと並みの苦労ではなかったはずである。
 それでも、口喧嘩が絶えない。いや、これが愛情表現でもあると思うのだが、時には本当に歯痒く感じる。

「もう、お酒はこれで仕舞いですよ」

 碧は大根と酒を机に置くと、板場に引っ込んだ。
 がらんとした板場で、碧は深い溜息を吐いた。
 板場だけは立派だった。父が、此処だけは妥協をせずに銭をかけたのだ。炭焼きをする焼き場もあれば、広い竈もある。他にも、料理道具も一応に揃っている。しかし、その殆どを碧は使いこなしていない。
 本職の料理人が見れば、宝の持ち腐れと鼻を鳴らすだろう。自分でも、そう思う。

「疲れた」

 思わず、口から零れていた。
 視線の先には、大量の洗い物が残されている。溜息。もう一度吐いてみたところで、桶に放り込まれた皿の山が減るわけもない。碧は、洗い場へと足を向けた。
 二十七を迎えた碧の身体は、昔のように自由は利かない。ここ最近は、妙に疲れが抜けないのだ。小さい頃から慣れ親しんだ酒屋稼業ならまだしも、慣れない板場の仕事である。料理は得意ではあるが、人に出すものと家族に出すものとはわけが違うし、それだけ神経を使う。
 なのに、父は何の相談もなく居酒屋稼業を始めた。繁盛しているからいいものの、閑古鳥が鳴いていたら目も当てられない。料理を作れと押し付けられた時もそう。何でも勝手過ぎるのだ。

(全く、馬鹿親爺)

 そう思っても、やはり父の頼みは断り切れない。育てて貰った恩と、反対を押し切って夫婦になったものの、出戻りになってしまった娘を黙って受け入れてくれた恩がある。それに、やっぱり破天荒な父が好きなのだ。

「なぁ、碧よう」
 熊吉が、赤ら顔で板場に入ってきた。

「なんだい、お父ちゃん」
「やっぱり、料理人じゃねぇお前ぇに、板場を任せたのは無理だったかねぇ」
「えっ?」

 自分の心を見透かされたようで、碧は洗い物を濯ぐ手を止めた。

「その通りの言葉だよ」
「何よ、藪から棒に」
「俺はお前ぇに、板場は負担じゃねぇかって聞いてんだ」
「まぁ、そりゃあたしは料理人じゃないわよ。色々苦労はしたし、毎日考えながら料理を拵えているわ」
「やっぱりなぁ」

 熊吉が腕を組んで考え込み、碧は洗い物に戻った。

「でも、繁盛しているじゃない」
「まぁ、お前の料理は悪くねぇ」
「ほらね。あたしは大丈夫よ」

 そう言って笑顔を見せると、熊吉が

「そうかい」

 と、だけ言い残して板場を出た。

(何で、あんな事を訊いたのかしら?)

 他に板前を雇うつもりなの? いや、鬼八はまだそんな余裕はない。なら、通いの小女でも雇うのか。
 碧はハッとして、板場を見回した。

(此処は、あたしの場所)

 誰にも奪われたくはない。
 碧は、この広く無駄に立派な板場が、急に大切に思えてきた。

◆◇◆◇◆◇◆◇

六蔵ろくぞうと申しやす」

 背の高い三十路過ぎの男は、低い声で名乗ると、軽く目を伏せた。
 一日の商いを終えて翌日の仕込みに追われていた碧は、熊吉に呼び止められ、一人の背の高い男からの紹介を受けた。
 始めて見る顔だった。近所でも客としても見た事が無い。彫が深く男前だが、何とも言えない翳りがある。
 いきなりの名乗りで話が読めない碧は、困惑の表情を熊吉に向けた。

「碧よう。今日から、この六蔵にうちの板場を任せる事にした」

 と、熊吉が六蔵の肩を軽く叩いた。

「え? この人に?」
「そうだ。店も繁盛してきたし、板前の一人は置くべきと思ってなぁ」

 碧は、十日前の会話を思い出した。なるほど。こうした理由があったのか。そう理解した一方で、碧は憤りも覚えた。

(あたしは大丈夫って言ったのに。それに板場は任せるって言ったのは、お父ちゃんじゃないさ)

 確かに人手は欲しい。だとしても、一言ぐらい事前の断りがあってもいいではないか。
 なのに、父は「決めた」と言って六蔵を連れて来た。素人料理とは言え、店の繁盛には貢献してきた自分に対して、それは余りにも不義理ではないか。そうだ。いつも父はこうなのだ。何をするにも突然で、勝手過ぎる。

「それに、いつまでもお前に頼ってはいかんからなぁ」
「お父ちゃん、あたしは別に……」
「なぁに、この六蔵に板場を任せれば、お前も少しは楽になるだろうよ」
「それは、そうだけどさ」

 確かに仕事が楽になる事はありがたかった。朝から昼過ぎまでは酒屋として働き、夕暮れから店仕舞いの刻限までは板場に立つ。そして、店を閉めれば翌日の仕込み。これは中々の疲労で、気の休まる暇はない。気だけではなく、身体もあちこちで痛い。でも、この忙しさの中で、店を支えているという自負が、今の自分には必要なのだ。

「でも、あたしは板場で働きたいの。そこの、えっと六蔵さんには悪いですけどね」

 そう言って仕込みに戻ろうとした碧を、熊吉が苦笑いで押し止めた。

「まぁまぁ。兎に角、この六蔵の腕を見てくれんか? 儂も一度食った事があるが絶品だったぞ」
「そりゃ、素人に毛が生えたあたしの料理より美味しいでしょうよ。当たり前じゃないさ」
「いいから、いいから。それに、この儂の顔も潰さんでおくれよ」
「もう、仕方ないわね」

 こんな所で中年増が嫌だ嫌だと喚くなんて、恥ずかしいにも程がある。

「いいんですかい? 碧さん」

 六蔵が低い声で言い、碧は顔を少し背けて頷いた。

「では、板場と道具お借りしやす」
「おう。そう言えば、客に貰った鯰がある。それで何か作ってくれ」
「へい」

 六蔵は短い返事をすると、碧に軽く黙礼をして板場に入った。
 愛想は無いが、挨拶も礼も欠かさない。そう悪い男でもないのかもしれない。

「へぇ、立派でございやすね」

 樽に入れられた鯰は、一尺四寸ほどの活きの良いものだった。もう三日泳がせ、泥吐きは終えている。

(見せてもらおうじゃないの……)

 六蔵の隣りに並んだ碧は、この男を試す気持ちになっていた。我ながら嫌な女だとは思うが、急に現れた男に自分の場所を明け渡すほどの度量は持ち合わせていない。

「では、始めさせていただきやす」

 六蔵は鯰の頭を叩いて締め、両眼に通すように目打ちで固定すると、手際よく三枚におろし、適当な大きさに切り分けてていく。その包丁捌きに、碧は思わず見惚れていた。同じ道具を使っているのに、六蔵が使うと舞っているように見えるのだ。

(凄い……)

 碧は、自分では到底太刀打ち出来ない事をすぐに悟った。と、なると六蔵に向けられる挑戦的な視線は試すものから学ぶものに変わり、

「ぬめりは取らないんですか?」

 と、思わず質問していた。

「へい。この後に」

 六蔵は律儀に手を一度止め、そう答えた。
 碧は捌く前に、塩で揉んでぬめりを取る。だが、六蔵は違った。切り分けた身に熱湯をかけ、木べらで取り除いていくのだ。
 それから、鍋に醤油、水、昆布、おろし生姜、そしてたっぷりの酒を入れ鯰を煮ていく。
 酒と醤油、そして微かな生姜の香りが、だだっ広い板場に広がっていく。腕っこきの料理人だけが出せる、確かな香りだ。その中で六蔵は灰汁を頻繁に取り、最後に葱を加えた。

「鯰のすっぽん煮でございやす」

 一足早く土間席で待っていた碧と熊吉に差し出しながら、六蔵が言った。

「どれ」

 最初に熊吉が箸を入れ、続いて碧もその身を口に運んだ。

「ん」

 言葉など、要らなかった。碧は熊吉と顔を見合わせると、お互いにおかめ面のようになっている顔を見て笑った。
 鯰の淡泊な身に、タレの旨味がよく染みている。鯰の身だからこそ、これが出来るのだろう。箸で摘まむと、ほろほろと毀れそうな身を、せっせと口に運ぶ。それを止める事は出来ない。

「酒だなぁ、こりゃ」

 熊吉がそう独り言ちに呟いて立ち上がり、店の奥から銚子を運んできた。

「ほら、また店の酒を」
「お前も欲しそうな顔をしているぜ」
「まぁ、そうだけど……」
父娘おやこ酒と洒落ようじゃねぇか」

 碧は仕方がないという風に頷いた。思えば、こうして二人酒を飲むのも久し振りのような気がする。

「うん、こりゃいい」

 鯰を口に含み、酒で流し込むと熊吉が膝を叩いた。それに続いた碧も、力強く頷いた。確かに、これはいい。美味しいだけではなく、酒にもよく合う。店で出せば、大いに喜ばれるだろう。

「旨えよ、六蔵」

 熊吉が陽気に叫び、得意気な顔を碧に向けた。

「なっ、言っただろう?」
「別にお父ちゃんの手柄じゃないわよ」
「でも連れてきたのは俺だよ。どうだ? 六蔵の腕は」
「ええ。あたしは明日から表に立つわ」

 そう言うと、いつの間に板場に引っ込んでいた六蔵が出てきて、恥ずかし気に

「碧さん……」

 と、その名を呼んだ。

「いいんですかい? あっしのような余所者よそもんに板場を任せて」
「何を言うの。こんなに美味しい物、あたしには作れないわ」
「お話は旦那に聞いておりやす。碧さんがいたからこそ、この店を居酒屋にして、繁盛できたと」
「そんな事ないわ。料理だって修行したわけじゃないし、あたしだって本当は板前を雇いたいって思っていたのよ」
「……」
「いいのよ。六蔵さんの料理を食べていたら、お客さん達の顔が浮かんだの。どんな顔して、六蔵さんの料理を食べるだろって。早く食べさせたいって楽しみになったわ」

 そこまで言うと、六蔵は碧に対し深々と頭を下げた。

「六蔵さん、ちょっと」

 碧は慌てて、六蔵の逞しい肩に手を乗せていた。それを見て、熊吉がにやりと笑む。

「いえ、これも筋ってもんです。あっしは世話になった恩人に、この店の板前になるよう頼まれやした。なので断れちゃ、その恩人に会わせる顔がねぇと思っていたのです」
「いいのよ、六蔵さん。あたしこそ、歓迎するわ」
「だとよ、六蔵。お前さんは今日から鬼八一家だぜ」

 六蔵の鋭い目が一瞬だけ見開き、少しだけ頬を緩めた。

「へい。……お世話になりやす」
「いいの、いいの」

 心から美味しいものを食べた充実感と微かな酔いの中で、碧は久し振りに家族で美味しい物を食べる幸せを感じていた。

〔第一回 了〕
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