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第二十五話茶色の聖母
しおりを挟むラビナが送られた北の修道院は、日が沈むと一日も終わる。無駄な燃料を使わないため、ここには、蝋燭も、ランタンも、灯りを灯す道具は、何もないのだ。
朝は、朝日が上がる前に起き、身を清め、神に祈る。一日、食事は二食。敷地内で野菜を育て、鶏を飼い、自らの糧を得る。
僅かばかり残った野菜は、寄付で行われる炊き出しへ回し、手元に残る物は何もない。
二十年前、夫の暴力から逃れる為に、ここに来たブラウンと呼ばれる女は、静寂の中、繰り返す日々が心を癒やしてくれることを感じていた。
いつか、この人生が朽ち、神の身元へ召し上げられる。それまでの時間を、静寂の中で、人々への奉仕と祈りに捧げられれば良かった。
それが、
「何で、私が、こんなところに、入れられなきゃなんないのよーーーー!」
ラビナという一人の娘の登場により、彼女の日常は打ち破られる。朝は、怒り狂い、夜には、泣き叫ぶ。一体、この細い体に、どれだけのエネルギーを秘めているのか?
「ねぇ、貴女は、何がしたいの?」
「私は、ここを出たい!美味しいものを食べたい!ゆっくり寝たい!見た事もない、何もしてくれない神様に、祈るより、自分がしたい事をしたい!」
『あぁ、煩悩の権化だわ』
本能を垂れ流す少女をうんざりした気分で見ていたが、実は、内心少し羨ましくもあった。
夫の暴力から身を守る為に、ブラウンが声を上げた事はなかった。ただ、嵐が止むのを待ち、そして、逃げた。
彼女にも、夢があった。子供に囲まれ、孫に囲まれ、看取られ、死んでいきたかった。一人、名も知られず、ひっそりと息をする事すら遠慮するような人生を望んでいたわけではない。
思わず、ブラウンは、ラビナを抱きしめた。本能で泣き叫ぶ姿が、赤子の様だったから。
『この娘は、無知なのね。誰からも、してはいけない事、しなければならない事を教えられずに生きてきた。どうやれば、こんなひどい育て方が出来るの…』
哀れみとも、蔑みとも違う。この広い世の中で、一人ぼっちが、二人いた。抱きしめてやらなくて、何をするというのか。
ブラウンが腕に力を入れると、ラビナの叫び声が止み、嗚咽に変わっていった。
「うえっ・・・うぇっっっ・・・・」
彼女達は、冷気が漂う朝、互いの体温を分け合い、他の人間が呼びに来るまで泣いた。
それからの生活は、ラビナにとっては最悪だった。
「ラビナ、それは、こちらへ運んでください」
「はーい」
「『はい』は、短く」
「うぇー」
「その言い方は、周りの方に、笑われますよ」
「周りの方?浮浪者に笑われたって痛くも痒くもないわ」
ラビナが舌を出せば、周りから、
「愛されてんなー、ラビナ」
と揶揄が飛ぶ。
「愛されてるわけないでしょ!虐められてんのよ!」
顔馴染みになった炊き出しに並ぶ人々に、ラビナは、思い切り吠えた。
汚れた衣服。臭い匂い。近寄らないで!って叫び出したい。
だけど、
「ラビナ、ほら、コレを向こうの人に渡しなさい」
ブラウンに椀を差し出され、ラビナは、渋々受け取った。
『ほんと、調子が狂っちゃう。』
彼女の教育係を買って出た女の名は、髪の毛が何処にでもいる茶色だから、ブラウンと付けられた。本名は、本人しか知らない。
彼女以外の修道女は、殆ど口を開かなかった。ただ、粛々と、神に祈り、民に奉仕をするだけ。
それなのに、ブラウンだけが、ラビナに、しつこく説教をしてくる。無視したくても、無視できないくらい、何度も、何度も。
「ねぇ、飽きないの?」
「何にかしら?」
「私にお節介やくこと」
「そうね・・・結構、楽しいわ」
微笑んだブラウンが、ラビナの目には聖母像のように見えた。
ラビナがブラウンにお説教されながら、炊き出しの準備をしていると、小さな騒ぎが起きた。順番を守らない者がいると、時々こうしたことが起きる。彼女は、チラリと怒鳴り声のする方を見たが、ブラウンに呼ばれて走っていった。
その後ろ姿に向って叫ぶ女がいた。
「ラビナ!ラビナよね?ラビナなんでしょ?」
それは、ラビナの母親だった。周りの声が煩すぎて、精一杯張り上げた声も、ラビナの耳に届くことはなかった。
全ての家財を売り払われ、殆どが、焦げ付いていた仕入れ先への支払いに使われてしまった。最後に戻った金は、雀の涙。ドワンゴは、それすら持って逃げた。
彼女の手には、何も残らず、実家も、援助はしてくれなかった。
お腹が空いて並んだ炊き出しで、お椀を配る我が子を見て、天の助けだと思った。
『お腹いっぱい、食べさせて。温かい、寝床も欲しい。ラビナが居れば、人間らしい暮らしに戻れる!』
でも、駆け出そうとした彼女の首根っこを一人の男が掴んだ。
「おい、ババァ!抜け駆けすんのかよ!」
その恐ろしい形相に、腰が砕け、ヘナヘナと地面に座り込んでしまう。
「あ、あ、あの、ラ、ラ、ラビ、ラビ・・・」
回らない口で、娘の名を呼ぼうとしたら、
「愛されてんなー、ラビナ」
配給を待つ別の男が、ラビナに声を掛け、その場に居た皆が、楽しげに、ゲラゲラ笑い出した。
「愛されてるわけないでしょ!虐められてんのよ!」
怒鳴り声とは裏腹な、嬉しそうな顔のラビナ。
『あんな顔、見た事ない…』
彼女の知るラビナは、とりすまし、ツンと鼻を上に向け、衣装と髪型ばかり気にする子供だった。
『あの子は・・・・誰?』
ラビナの母親は、両手で顔を覆って、その場から逃げ出した。恥ずかしくて、情けなくて、虚しくて、闇雲に走り続けた。気付けば、小さな教会の前にいた。
その前でも、配給が行われていた。さっきと違うのは、並んでいるのが子供ばかりなところだ。
パタパタパタ
配給を知らせる幟が、はためいている。そこに描かれた紋章は、天使だった。
『エンジェル家の家紋だわ。』
呆然と見上げていると、配給をもらい終わった姉妹が、こちらに向かって歩いて来た。
「おいひぃねぇ」
胸元に、小さな袋を抱え、口をモゴモゴさせながら、妹が姉を見上げる。
「当たり前でしょ!だって、シャーリー様のクッキーだもの。コレはね、八年も前から、ずーーーーーっと、シャーリ様考案のレシピのままなのよ!」
まるで、自分の事のように、自慢げに胸を張る姉。
『あぁ・・・最初から、勝ち目なんかなかった。』
灰色の髪と灰色の目を持つと言うだけで、蔑んできた女性は、家名に恥じない、天使だった。
一方自分は、娘の笑顔すら引き出せない駄目な親だった。
「ごめんね…ラビナ…」
その後、彼女の姿は、この辺りでは見られなくなった。娘に迷惑を掛けぬよう、どうやら別の場所へと移動したようだった。
しかし、それから毎年、ラビナの居る修道院に小麦の袋が一つ寄進されるようになった。名も告げず、送られるそれは、どこかの食堂でコツコツ皿洗いをする一人の女性が爪の先に火を灯すような質素な生活から捻出した金で買われたものだった。
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