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第二章 戌騎士は、今日もお怒りです
借用書
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台所で夕食の支度を始めていたシグバードは、途中で手を止めると居間に戻った。ソファーの上で身体を丸くしているビアンカを見つめ、穏やかな寝顔に表情を緩めた。
そして、肩からずり落ちかけている毛布を直してやると、彼女が少し身動きした。
「ん⋯⋯シグ⋯⋯?」
「まだだ。寝ていて良いぞ」
こくりと小さくうなずいて、またすうすうと寝息を立てるビアンカはいっそ無防備だ。
一人暮らしの男の家で平然と寝られるのは、彼女の自分への信頼があるからだとシグバードは理解している。
婚約破棄を巡って激しい喧嘩をした後、ビアンカは一時期シグバードを避けたこともあった。手を貸そうとしても嫌がられ、食事も睡眠時間も削る彼女の世話を焼こうとしても断られた。
自分から破棄を申し出た事への負い目もあるのだろうが、会話をしていても他人行儀なものになっていた頃を思えば、今は気楽な幼馴染の関係にまで戻っていることだけでも大きな進歩だ。
聖都に来て周りに知り合いが誰も居ない不安もあるようで、食事に誘えば応じてくれるようにもなっている。
睡眠時間も増えた事で、髪や肌艶はだいぶ良くなって、近ごろは顔色が良いことも彼の安心材料だ。
借金返済も、もう少しだ――そう思い、必死で色々と堪えているわけだが、寝惚けた彼女が『シグ』と昔の愛称で呼んでくれるのは、至福の時でもあった。
テーブルに所狭しと置かれた沢山の料理を二人で食べ終えて、片付けを済ませると、いつものようにシグバードはビアンカを向かいの部屋の前まで送って行った。
目と鼻の先なのだから送らなくて良いとビアンカが言っても、『聖都の夜は物騒だ』と断言されると、居住歴の短いビアンカはうなずかざるを得ない。
「じゃあな。また明日、出勤する時に声をかける」
そう短く告げて帰ろうとした彼を、ビアンカは迷った末に呼び止めた。
「明日は⋯⋯お休みをもらったから、職場にはいかないわ」
「ん?」
「お金を⋯⋯返しに行くの。これで終わるわ」
彼との婚約破棄の原因となった親の借金に、ようやく返済の目途がたった。だからといって、婚約話を蒸し返そうなんて都合の良い事は思っていない。自分から申し出たことであるし、そんな事を思って良いはずがない。
ただ、今も何かと気遣ってくれるシグバードに、もう心配いらないと伝えるだけだ。それならば、彼も不自然に思わないだろう。
秘めた自分の恋心に蓋をして、ビアンカは出来るだけ端的に伝えた。彼は言葉だけ、そのまま受け取ってくれればいいとも願った。
ここで婚約の話をまた蒸し返されたら、きっとまた喧嘩になるし、泣いてしまう気がした。
無意識に身構えていたビアンカは、頭を軽くぽんぽんと叩かれて、目を見張る。恐る恐る彼を見上げると、穏やかな笑みが瞳に映った。
「シグバード⋯⋯?」
「一人でよく頑張ったな」
「⋯⋯うん」
シグバードの言葉は、子供の頃からずっと心に染みる。思えば、逃げた両親に代わって、一人で借金返済をしようと決めたのも、完済できれば彼の足を引っ張らずに済むと思ったからだ。
幼い頃から何かと問題ばかり起こしていた両親がいても、彼と結ばれると信じてしまったことは、果たして正しかったのか、間違っていたのか。
「明日の夕食はお前の好きな物を作ってやる」
「待って。明日こそ手伝うわ」
途端に渋い顔をした彼に、ビアンカは心の底から笑った。そんな彼女を見たシグバードも微笑んで頷くと、お休みと短く告げて、廊下を歩いて行った。
ビアンカはそのまま部屋に入ろうと扉を開けた時。
「待ってるからな」
シグバードの声が聞こえて息を呑み、思わず視線を向けたが、彼はそのまま歩き去って行った。
ビアンカは零れ落ちかけた涙を拭い、高鳴る胸を押さえて、今度こそ部屋へと入った。
翌日の昼過ぎ、ビアンカは聖都の喫茶店へと赴いた。外観からしていかにも貧乏人お断りと言わんばかりだが、借金の貸主である『申』の一族の青年ランスが指定してきたのだから仕方がない。
時間よりも少し前に店に着いて、店内に案内されて待っていたビアンカだが、とても居心地が悪い。
粗末な服を着ているせいで、どうにも浮いている自覚がある。
しかも、ランスは自分が指定した時間から一時間も遅くやって来て、全く悪びれずに着席したのを見て、いじめ倒すのが趣味だと言う彼の目論みを察した。
国境警備隊にいるときも何かにつけて絡んできて、必ずビアンカに嫌味を投げつけてきた男らしい態度だ。
だが、それも今日までだと、ビアンカはぐっと我慢して、挨拶もそこそこに鞄の中から今月分の給料の大半を入れた袋を取り出して、ランスの前に置いた。
「これで最後の支払いです!」
大声を出すべき場所ではないと分かっていたが、両親が借金を残して蒸発して以来、必死で働いて返済を続けてきただけに、ついつい感情がこもる。
だが、ランスは全く表情一つ変えず、控えていた秘書に金額を確認させると、懐から借用書を取り出した。
「確かに全額受け取りました。これはお渡しします」
「あぁ、よかっ――」
「ところで、こちらの支払いもして頂けるのでしょうか」
「こちら⋯⋯?」
目を瞬くビアンカに、彼はにっこりと笑って、懐から更にもう一通出してきた。
文面を目で追ってみれば、どこをどう見ても借用書である。
借りたのはビアンカの母親であった。
「は⁉」
「今完済していただいたのは、貴方のお父様のものです。お母様も少々用立てして欲しいとおっしゃっていたものですから⋯⋯」
「ま、待ってください。母も借金をしていたなんて、初耳です!」
「いいえ? 私は『貴女のご両親の借金を返してください』とちゃんと申し上げたはずです」
「⋯⋯⋯⋯っ」
ビアンカは顔から血の気が引いていくのが分かった。確かにそう言われた記憶があったからだ。
その時見せられたのは父の名前の書かれた借用書だけだったし、両親は一緒に逃げてしまったから、よもや別々に借りているとは思わなかったのだ。
新たに降ってわいた借用書を見てみれば、金額は父の借金とほぼ同額だった。
――――一体どれだけ借りて遊んだのよ⋯⋯。
ビアンカは泣きたくなった。
そして、肩からずり落ちかけている毛布を直してやると、彼女が少し身動きした。
「ん⋯⋯シグ⋯⋯?」
「まだだ。寝ていて良いぞ」
こくりと小さくうなずいて、またすうすうと寝息を立てるビアンカはいっそ無防備だ。
一人暮らしの男の家で平然と寝られるのは、彼女の自分への信頼があるからだとシグバードは理解している。
婚約破棄を巡って激しい喧嘩をした後、ビアンカは一時期シグバードを避けたこともあった。手を貸そうとしても嫌がられ、食事も睡眠時間も削る彼女の世話を焼こうとしても断られた。
自分から破棄を申し出た事への負い目もあるのだろうが、会話をしていても他人行儀なものになっていた頃を思えば、今は気楽な幼馴染の関係にまで戻っていることだけでも大きな進歩だ。
聖都に来て周りに知り合いが誰も居ない不安もあるようで、食事に誘えば応じてくれるようにもなっている。
睡眠時間も増えた事で、髪や肌艶はだいぶ良くなって、近ごろは顔色が良いことも彼の安心材料だ。
借金返済も、もう少しだ――そう思い、必死で色々と堪えているわけだが、寝惚けた彼女が『シグ』と昔の愛称で呼んでくれるのは、至福の時でもあった。
テーブルに所狭しと置かれた沢山の料理を二人で食べ終えて、片付けを済ませると、いつものようにシグバードはビアンカを向かいの部屋の前まで送って行った。
目と鼻の先なのだから送らなくて良いとビアンカが言っても、『聖都の夜は物騒だ』と断言されると、居住歴の短いビアンカはうなずかざるを得ない。
「じゃあな。また明日、出勤する時に声をかける」
そう短く告げて帰ろうとした彼を、ビアンカは迷った末に呼び止めた。
「明日は⋯⋯お休みをもらったから、職場にはいかないわ」
「ん?」
「お金を⋯⋯返しに行くの。これで終わるわ」
彼との婚約破棄の原因となった親の借金に、ようやく返済の目途がたった。だからといって、婚約話を蒸し返そうなんて都合の良い事は思っていない。自分から申し出たことであるし、そんな事を思って良いはずがない。
ただ、今も何かと気遣ってくれるシグバードに、もう心配いらないと伝えるだけだ。それならば、彼も不自然に思わないだろう。
秘めた自分の恋心に蓋をして、ビアンカは出来るだけ端的に伝えた。彼は言葉だけ、そのまま受け取ってくれればいいとも願った。
ここで婚約の話をまた蒸し返されたら、きっとまた喧嘩になるし、泣いてしまう気がした。
無意識に身構えていたビアンカは、頭を軽くぽんぽんと叩かれて、目を見張る。恐る恐る彼を見上げると、穏やかな笑みが瞳に映った。
「シグバード⋯⋯?」
「一人でよく頑張ったな」
「⋯⋯うん」
シグバードの言葉は、子供の頃からずっと心に染みる。思えば、逃げた両親に代わって、一人で借金返済をしようと決めたのも、完済できれば彼の足を引っ張らずに済むと思ったからだ。
幼い頃から何かと問題ばかり起こしていた両親がいても、彼と結ばれると信じてしまったことは、果たして正しかったのか、間違っていたのか。
「明日の夕食はお前の好きな物を作ってやる」
「待って。明日こそ手伝うわ」
途端に渋い顔をした彼に、ビアンカは心の底から笑った。そんな彼女を見たシグバードも微笑んで頷くと、お休みと短く告げて、廊下を歩いて行った。
ビアンカはそのまま部屋に入ろうと扉を開けた時。
「待ってるからな」
シグバードの声が聞こえて息を呑み、思わず視線を向けたが、彼はそのまま歩き去って行った。
ビアンカは零れ落ちかけた涙を拭い、高鳴る胸を押さえて、今度こそ部屋へと入った。
翌日の昼過ぎ、ビアンカは聖都の喫茶店へと赴いた。外観からしていかにも貧乏人お断りと言わんばかりだが、借金の貸主である『申』の一族の青年ランスが指定してきたのだから仕方がない。
時間よりも少し前に店に着いて、店内に案内されて待っていたビアンカだが、とても居心地が悪い。
粗末な服を着ているせいで、どうにも浮いている自覚がある。
しかも、ランスは自分が指定した時間から一時間も遅くやって来て、全く悪びれずに着席したのを見て、いじめ倒すのが趣味だと言う彼の目論みを察した。
国境警備隊にいるときも何かにつけて絡んできて、必ずビアンカに嫌味を投げつけてきた男らしい態度だ。
だが、それも今日までだと、ビアンカはぐっと我慢して、挨拶もそこそこに鞄の中から今月分の給料の大半を入れた袋を取り出して、ランスの前に置いた。
「これで最後の支払いです!」
大声を出すべき場所ではないと分かっていたが、両親が借金を残して蒸発して以来、必死で働いて返済を続けてきただけに、ついつい感情がこもる。
だが、ランスは全く表情一つ変えず、控えていた秘書に金額を確認させると、懐から借用書を取り出した。
「確かに全額受け取りました。これはお渡しします」
「あぁ、よかっ――」
「ところで、こちらの支払いもして頂けるのでしょうか」
「こちら⋯⋯?」
目を瞬くビアンカに、彼はにっこりと笑って、懐から更にもう一通出してきた。
文面を目で追ってみれば、どこをどう見ても借用書である。
借りたのはビアンカの母親であった。
「は⁉」
「今完済していただいたのは、貴方のお父様のものです。お母様も少々用立てして欲しいとおっしゃっていたものですから⋯⋯」
「ま、待ってください。母も借金をしていたなんて、初耳です!」
「いいえ? 私は『貴女のご両親の借金を返してください』とちゃんと申し上げたはずです」
「⋯⋯⋯⋯っ」
ビアンカは顔から血の気が引いていくのが分かった。確かにそう言われた記憶があったからだ。
その時見せられたのは父の名前の書かれた借用書だけだったし、両親は一緒に逃げてしまったから、よもや別々に借りているとは思わなかったのだ。
新たに降ってわいた借用書を見てみれば、金額は父の借金とほぼ同額だった。
――――一体どれだけ借りて遊んだのよ⋯⋯。
ビアンカは泣きたくなった。
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