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帰りたくないわ
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世界は曇って見えるくらいが、ちょうどいい。
それが、先日晴れて社会人となり、騎士団で事務員として働きだしたロディネの座右の銘である。
実際、今まさにロディネの目は曇っていた。
視線はさ迷い、見える景色がぐるぐると回っている。思考回路はすでに酒場の中で停止して久しく、「ほら、もっと飲んで」と言う声が職場の先輩達のものだという事くらいは認識できていたが、途中から自分のグラスに何が入っているのかよく分からなかったものである。
「あなた、かなり飲まされていたみたいだけど、大丈夫? 家まで送ろうか」
店を出た後、職場の女性達が声をかけたが、それを聞いたロディネは一気に背筋が伸びた。
――――我が家は、困るわ!
その思いで、血の気と一緒に、酔いが奇跡的に引いた。一時的に、だが。
「問題ありません。私、強くなったので!」
――――そうよ、心を強く持つのよ。三年越しの『恋』は終わってしまったけれど、人生が終わるわけじゃないんだから、きっと悪い事ばかりじゃないわ。
実際には、ロディネの言っている事と考えている事に大きな乖離があったが、哀しい事に、必死で自分を律したせいで声ははっきりと通っている。あげくに無駄に姿勢が良く、屋外は薄暗くて顔色も定かではなかったので、おおよそ彼女が泥酔しているように見えない。
当然ながら、同僚たちは新入りが酒に強いのだと解釈し、しかも何故だか鬼気迫る気配も察した。よほど家に近寄られたくないらしい。もしかしたら、良い人がいるのかもしれないとも思い、
「そ、そう⋯⋯じゃあ、また来週ね」
と、一応声をかけつつ、一同は散開した。
解放されたロディネは、一人ゆっくりと夜の街を歩きだした。頭にはもう飲み会や職場のことなどわずかでも残っていない。家の事を思い出してしまったせいで、ただただ胸が苦しく、切ない。
一昨日までは帰るのが楽しみで仕方が無かったのに、昨日の『別れ』が、ロディネの心をどん底まで突き落とし、本日に至っている。今日一日、無事に仕事を終えたのが奇跡と思えるほどで、明日は休みだったが、ちっとも嬉しくない。
――――家になんて帰りたくないわ⋯⋯。
足取りは重い。気分は沈む一方で、一瞬だけ取り戻したはずの理性がまたしても怪しくなっていく。眼鏡をつけているはずだというのに、視界が定まらない。本音を言えば声を上げて泣きたいくらいだったが、昨日の夜、もうすでに泣いたので我慢する。
なんとか前を見ようとして、街中に目を向けた。
夜の繁華街で主要な広い路ということもあって、人通りはそれなりにあった。千鳥足の者や、店先で寝転んでいびきをかいている酔っ払いもいたが、仲睦まじく身を寄せ合っている恋人達も多い。繁華街の奥まったところには、いわゆる一夜を共にする《休憩処》もあるからだ。
恋人達をめくるめく世界へ誘うように、街の壁の至る所に沢山のポスターが貼ってある。
そして、一組の恋人達が誘われるようにそれを指さし、親し気に話をしながら、奥へと向かっていくのがロディネにも見えた。
見えてしまった。
衝撃のあまり、びくりと身体が電撃に打たれたように跳ね、ロディネのまともな意識はさらに遠のく。
――――こんな、むごいことってあるのかしら⋯⋯。どうして、ここに⋯⋯。
だが、悪い事は重なるもので、ロディネがよそ見をしたせいで、眼前に迫る街路樹に激突して、頭をしたたか打ち、その場に尻もちをついてしまった。
――――ああ、もう、どうでもいいわ⋯⋯。
朦朧とする意識の中で、ロディネがやけくそのように呟いて、完全に《理性》を手離した時。
「おい、大丈夫か」
低音の、優しい男の声がした。
大丈夫じゃないと言いたかったが、今、誰彼構わず噛みつく気力はない。しかも、街路樹に激突したせいで、眼鏡がどこかに吹っ飛んで、相手の顔はもちろんのこと容姿もはっきりしなかった。
ロディネは酷い近眼で、眼鏡をしないと風呂にも入れないほどだ。目先の数センチまでしか物は見えず、当然ながら声をかけてきた者がどこの誰かも分からない。
頭を打ったせいなのか、酔いがもっと回ったせいなのか、頭も痛くて思考が働かず、とりあえず「はい」と答えるのがやっとだ。眠いと思ったが、「寝るな」とどこからともなくまた声がして、瞼をこじ開けた。
――――そうね⋯⋯家に帰らなくちゃ⋯⋯嫌だけど。
重い心身に鞭打ちつつも、ありがたいことに何故か家に向かって、引っ張られていく感覚がする。
これは私の帰巣本能というやつだろうかと、ぼんやりと考えていると、扉が勝手に開いた。灯りもついた。自動で家主を迎え入れてくれるなんて、我が家は進化したと、酔っ払いは妙な方向に感心する。
――――でも、あなた、そんな努力は不要なものなのよ⋯⋯。ここには、今、見てはいけないものがあるんだから⋯⋯。
短い廊下を進みながら嘆き、部屋の入口に立つと、やはり視界に真っ先に飛び込んできて、ロディネは泣きたくなった。
やはり《彼》の名残があった。数々の思い出の品もある。悲しい終わりを迎えたからと言って、手放せるものではない。付き合いは、三年前からだ。ずっと彼の事を応援してきたし、お金もたくさん使った。
でも、報われることはなかった。
悔しくて、哀しくて。
とうとう我慢できず、ロディネは思いの丈を目の前の《男》に叫んだ。
まさか、その相手が彼ではなく、雲の上の存在であった上役の騎士団長だったなんて。
しかも、《彼》そっくりの《男》だったなんて。
思うわけがない。
それが、先日晴れて社会人となり、騎士団で事務員として働きだしたロディネの座右の銘である。
実際、今まさにロディネの目は曇っていた。
視線はさ迷い、見える景色がぐるぐると回っている。思考回路はすでに酒場の中で停止して久しく、「ほら、もっと飲んで」と言う声が職場の先輩達のものだという事くらいは認識できていたが、途中から自分のグラスに何が入っているのかよく分からなかったものである。
「あなた、かなり飲まされていたみたいだけど、大丈夫? 家まで送ろうか」
店を出た後、職場の女性達が声をかけたが、それを聞いたロディネは一気に背筋が伸びた。
――――我が家は、困るわ!
その思いで、血の気と一緒に、酔いが奇跡的に引いた。一時的に、だが。
「問題ありません。私、強くなったので!」
――――そうよ、心を強く持つのよ。三年越しの『恋』は終わってしまったけれど、人生が終わるわけじゃないんだから、きっと悪い事ばかりじゃないわ。
実際には、ロディネの言っている事と考えている事に大きな乖離があったが、哀しい事に、必死で自分を律したせいで声ははっきりと通っている。あげくに無駄に姿勢が良く、屋外は薄暗くて顔色も定かではなかったので、おおよそ彼女が泥酔しているように見えない。
当然ながら、同僚たちは新入りが酒に強いのだと解釈し、しかも何故だか鬼気迫る気配も察した。よほど家に近寄られたくないらしい。もしかしたら、良い人がいるのかもしれないとも思い、
「そ、そう⋯⋯じゃあ、また来週ね」
と、一応声をかけつつ、一同は散開した。
解放されたロディネは、一人ゆっくりと夜の街を歩きだした。頭にはもう飲み会や職場のことなどわずかでも残っていない。家の事を思い出してしまったせいで、ただただ胸が苦しく、切ない。
一昨日までは帰るのが楽しみで仕方が無かったのに、昨日の『別れ』が、ロディネの心をどん底まで突き落とし、本日に至っている。今日一日、無事に仕事を終えたのが奇跡と思えるほどで、明日は休みだったが、ちっとも嬉しくない。
――――家になんて帰りたくないわ⋯⋯。
足取りは重い。気分は沈む一方で、一瞬だけ取り戻したはずの理性がまたしても怪しくなっていく。眼鏡をつけているはずだというのに、視界が定まらない。本音を言えば声を上げて泣きたいくらいだったが、昨日の夜、もうすでに泣いたので我慢する。
なんとか前を見ようとして、街中に目を向けた。
夜の繁華街で主要な広い路ということもあって、人通りはそれなりにあった。千鳥足の者や、店先で寝転んでいびきをかいている酔っ払いもいたが、仲睦まじく身を寄せ合っている恋人達も多い。繁華街の奥まったところには、いわゆる一夜を共にする《休憩処》もあるからだ。
恋人達をめくるめく世界へ誘うように、街の壁の至る所に沢山のポスターが貼ってある。
そして、一組の恋人達が誘われるようにそれを指さし、親し気に話をしながら、奥へと向かっていくのがロディネにも見えた。
見えてしまった。
衝撃のあまり、びくりと身体が電撃に打たれたように跳ね、ロディネのまともな意識はさらに遠のく。
――――こんな、むごいことってあるのかしら⋯⋯。どうして、ここに⋯⋯。
だが、悪い事は重なるもので、ロディネがよそ見をしたせいで、眼前に迫る街路樹に激突して、頭をしたたか打ち、その場に尻もちをついてしまった。
――――ああ、もう、どうでもいいわ⋯⋯。
朦朧とする意識の中で、ロディネがやけくそのように呟いて、完全に《理性》を手離した時。
「おい、大丈夫か」
低音の、優しい男の声がした。
大丈夫じゃないと言いたかったが、今、誰彼構わず噛みつく気力はない。しかも、街路樹に激突したせいで、眼鏡がどこかに吹っ飛んで、相手の顔はもちろんのこと容姿もはっきりしなかった。
ロディネは酷い近眼で、眼鏡をしないと風呂にも入れないほどだ。目先の数センチまでしか物は見えず、当然ながら声をかけてきた者がどこの誰かも分からない。
頭を打ったせいなのか、酔いがもっと回ったせいなのか、頭も痛くて思考が働かず、とりあえず「はい」と答えるのがやっとだ。眠いと思ったが、「寝るな」とどこからともなくまた声がして、瞼をこじ開けた。
――――そうね⋯⋯家に帰らなくちゃ⋯⋯嫌だけど。
重い心身に鞭打ちつつも、ありがたいことに何故か家に向かって、引っ張られていく感覚がする。
これは私の帰巣本能というやつだろうかと、ぼんやりと考えていると、扉が勝手に開いた。灯りもついた。自動で家主を迎え入れてくれるなんて、我が家は進化したと、酔っ払いは妙な方向に感心する。
――――でも、あなた、そんな努力は不要なものなのよ⋯⋯。ここには、今、見てはいけないものがあるんだから⋯⋯。
短い廊下を進みながら嘆き、部屋の入口に立つと、やはり視界に真っ先に飛び込んできて、ロディネは泣きたくなった。
やはり《彼》の名残があった。数々の思い出の品もある。悲しい終わりを迎えたからと言って、手放せるものではない。付き合いは、三年前からだ。ずっと彼の事を応援してきたし、お金もたくさん使った。
でも、報われることはなかった。
悔しくて、哀しくて。
とうとう我慢できず、ロディネは思いの丈を目の前の《男》に叫んだ。
まさか、その相手が彼ではなく、雲の上の存在であった上役の騎士団長だったなんて。
しかも、《彼》そっくりの《男》だったなんて。
思うわけがない。
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