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後日談
1-5 Side T
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嗚咽の止まったクロエが、顔を上げた。泣いて腫れた瞼は、隠しようもないけれどー
「…すみません、トキさん。…こんな、泣いちゃって。」
恥ずかし気に笑う瞳に、先ほどのぞかせた不安や痛みは見えない。そのことに安堵し、軽く背を叩いてその身を離す。
途端―彼らにしては我慢した方だとは思うが―、それまで沈黙を守っていた野次馬達が騒ぎ出した。
「ってかさぁ、お前、マジでわかんなかったわけ?」
「流石にどうかと思うよ?その鈍さは…。致命的じゃない?よく生きてられるよね?」
「…だって、ルナール達もずっと番じゃないって言ってたじゃない。ユーグは何も言わないし…。…あの、そう言えば、私が番だって、ユーグが言ったの?」
「…正確には、『言って』はないけどね。まぁ、そんなとこ。」
「んなのなくても、流石にもう分かんだろうがよ。お前、そんだけ団長のニオイさせといて。もう、どっぷり団長の、」
「ガットォ!?言い方―っ!」
羞恥に、一瞬で首や腕まで真っ赤に染めたクロエを見て、鼻で笑う二人。確かに、自分たち獣人であれば、「それだけされておいて」という感覚なのだが、人間には理解の及び難い範囲なのだろう、クロエの瞳が確かめるように周囲に向けられる。それを受けたアセナが、嫌そうに眉をひそめた。
「…私だって、それくらい気づいてたわ。」
「え?…アセナさん、でも、気づくの?初対面でも?」
「アセナでいい。…別に、初対面とか関係ないわよ。そこまでユーグのニオイさせてる女なんて、今までいなかったんだから。」
「…ニオイってそんなに…」
わかるものなのかと問うてくる瞳に頷き返す。
「…じゃあ、あの、最近、マリーヌさん達にも全然絡まれなくなったのって…」
「気づいたからだろうね。君が番だってこと。」
「…でも、マリーヌさん、あれだけユーグに執着してたのに、…ですか?」
「うん、それでも。ユーグの番は君、それが全てだから。」
だから、あの女は敗北を認めた。相手が番、獣人にとってはそれだけで十分、あの女にとっても、これ以上ないほどの降伏理由になる、のだけれど―
「…」
「…納得いかない?まだ不安?」
安堵させるための言葉に、それでもどこか複雑な表情を残すクロエに嘆息する。正確には、彼女にこんな顔をさせてしまう男の怠慢に。
「あのね、クロエ。」
こんなこと、本当は口出しなんてしたくない。だからと言って傍観し、結果クロエに逃げられてしまったら、苦労するのはユーグ、ではなく、自分自身。火を見るよりも明らかな事実に、できる対策はとっておきたいから―
「ユーグとマリーヌの間には、元から何もないよ。」
「え…?」
「マリーヌは、元々、ダグのお気に入りだったんだ。だから、ユーグはマリーヌに関しては不干渉。何もしない。ユーグに、自分の養父が抱いてる娼婦を抱く趣味は無いからね。」
ただ、この街における黒猫の館の重要性、生涯、番を得ることのなかったダグにマリーヌが与えたもの、そういったことを考慮して、あの女は放っておかれただけ。
(…それも、今までは、だけどね。)
番として囲うクロエに手を出せば、ユーグは今度こそ容赦しないだろう。
マリーヌに、次は無い―
「じゃあ、あの、本当に、ユーグは…」
「うん。…まぁ、ユーグが清廉潔白だなんてことは言わないよ?ただ、少なくとも、マリーヌが違うっていうのは本当。」
断言すれば、クロエの瞳から止まったはずの涙が溢れだした。
「…あれ?何でだろう?全然、全然、悲しいとかじゃないんですよ?けど、何でか…」
歪んだ笑顔を浮かべるクロエに手を伸ばそうとして、寸でで止めた。
(…遅いよ。)
店の外、近づく気配。来るのなら、もっと早くに来て欲しかった。クロエの瞳が涙で腫れる前に。
(これじゃあ、俺たちが泣かしたみたい、なんだけど…)
「…いらっしゃい、ユーグ。」
「…」
開いた扉、現れた男の視線は一人に注がれたまま、周囲には目もくれず、その一人に歩み寄った。
「…」
「ユーグ…、あの、えっと、これはね…」
流れる涙の理由をクロエが口にする、その間も与えずに、懐の内に己の半身を隠し込む男。
「…」
「…泣いてるのは、お前のせいだからね。」
無言の圧を向けてくるユーグに、それだけは言っておく。
それから―
「…クロエ。」
「あ、はい!」
ユーグの腕の中、あれだけ泣かされておきながら、それでも結局、幸せそうに笑う彼女に、最大限のお節介と忠告を―
「わかってると思うけど、…発情期だから。」
「え?」
「もうすぐ、獣人の発情期。…もちろん、ユーグもだからね?」
「え…?あ、え?でも、去年は…」
聡い彼女の瞳に浮かんだ焦りと怯え。彼女の見上げる眼差しに、ユーグが告げるのは無情な言葉。
「…忠告はした。」
(言ってたね…)
―覚悟はしておけ、加減は出来ない
「…受け入れた、だろ?」
「えっ!あれは!えっ!?そういうことになるの!?」
怯えより、焦りが増したクロエに、ユーグが嗤う―
腕の中の獲物を一瞬で抱え上げ、店の階段へと消えていくユーグ。後に、クロエの制止と抵抗の声だけを残して。
見送った男の背に、アセナの呟きが零れ落ちた。
「…え?嘘でしょ?…誰あれ?」
「本当に、ね。」
季節によるものなのか、彼女の存在ゆえなのか。
ユーグの、今まで見せたことのない程の機嫌の良さ。それが、これから共に恋の季節を迎えるクロエにとっての幸福と成り得るのかどうか。あとはもう、彼ら次第―
(終)
「…すみません、トキさん。…こんな、泣いちゃって。」
恥ずかし気に笑う瞳に、先ほどのぞかせた不安や痛みは見えない。そのことに安堵し、軽く背を叩いてその身を離す。
途端―彼らにしては我慢した方だとは思うが―、それまで沈黙を守っていた野次馬達が騒ぎ出した。
「ってかさぁ、お前、マジでわかんなかったわけ?」
「流石にどうかと思うよ?その鈍さは…。致命的じゃない?よく生きてられるよね?」
「…だって、ルナール達もずっと番じゃないって言ってたじゃない。ユーグは何も言わないし…。…あの、そう言えば、私が番だって、ユーグが言ったの?」
「…正確には、『言って』はないけどね。まぁ、そんなとこ。」
「んなのなくても、流石にもう分かんだろうがよ。お前、そんだけ団長のニオイさせといて。もう、どっぷり団長の、」
「ガットォ!?言い方―っ!」
羞恥に、一瞬で首や腕まで真っ赤に染めたクロエを見て、鼻で笑う二人。確かに、自分たち獣人であれば、「それだけされておいて」という感覚なのだが、人間には理解の及び難い範囲なのだろう、クロエの瞳が確かめるように周囲に向けられる。それを受けたアセナが、嫌そうに眉をひそめた。
「…私だって、それくらい気づいてたわ。」
「え?…アセナさん、でも、気づくの?初対面でも?」
「アセナでいい。…別に、初対面とか関係ないわよ。そこまでユーグのニオイさせてる女なんて、今までいなかったんだから。」
「…ニオイってそんなに…」
わかるものなのかと問うてくる瞳に頷き返す。
「…じゃあ、あの、最近、マリーヌさん達にも全然絡まれなくなったのって…」
「気づいたからだろうね。君が番だってこと。」
「…でも、マリーヌさん、あれだけユーグに執着してたのに、…ですか?」
「うん、それでも。ユーグの番は君、それが全てだから。」
だから、あの女は敗北を認めた。相手が番、獣人にとってはそれだけで十分、あの女にとっても、これ以上ないほどの降伏理由になる、のだけれど―
「…」
「…納得いかない?まだ不安?」
安堵させるための言葉に、それでもどこか複雑な表情を残すクロエに嘆息する。正確には、彼女にこんな顔をさせてしまう男の怠慢に。
「あのね、クロエ。」
こんなこと、本当は口出しなんてしたくない。だからと言って傍観し、結果クロエに逃げられてしまったら、苦労するのはユーグ、ではなく、自分自身。火を見るよりも明らかな事実に、できる対策はとっておきたいから―
「ユーグとマリーヌの間には、元から何もないよ。」
「え…?」
「マリーヌは、元々、ダグのお気に入りだったんだ。だから、ユーグはマリーヌに関しては不干渉。何もしない。ユーグに、自分の養父が抱いてる娼婦を抱く趣味は無いからね。」
ただ、この街における黒猫の館の重要性、生涯、番を得ることのなかったダグにマリーヌが与えたもの、そういったことを考慮して、あの女は放っておかれただけ。
(…それも、今までは、だけどね。)
番として囲うクロエに手を出せば、ユーグは今度こそ容赦しないだろう。
マリーヌに、次は無い―
「じゃあ、あの、本当に、ユーグは…」
「うん。…まぁ、ユーグが清廉潔白だなんてことは言わないよ?ただ、少なくとも、マリーヌが違うっていうのは本当。」
断言すれば、クロエの瞳から止まったはずの涙が溢れだした。
「…あれ?何でだろう?全然、全然、悲しいとかじゃないんですよ?けど、何でか…」
歪んだ笑顔を浮かべるクロエに手を伸ばそうとして、寸でで止めた。
(…遅いよ。)
店の外、近づく気配。来るのなら、もっと早くに来て欲しかった。クロエの瞳が涙で腫れる前に。
(これじゃあ、俺たちが泣かしたみたい、なんだけど…)
「…いらっしゃい、ユーグ。」
「…」
開いた扉、現れた男の視線は一人に注がれたまま、周囲には目もくれず、その一人に歩み寄った。
「…」
「ユーグ…、あの、えっと、これはね…」
流れる涙の理由をクロエが口にする、その間も与えずに、懐の内に己の半身を隠し込む男。
「…」
「…泣いてるのは、お前のせいだからね。」
無言の圧を向けてくるユーグに、それだけは言っておく。
それから―
「…クロエ。」
「あ、はい!」
ユーグの腕の中、あれだけ泣かされておきながら、それでも結局、幸せそうに笑う彼女に、最大限のお節介と忠告を―
「わかってると思うけど、…発情期だから。」
「え?」
「もうすぐ、獣人の発情期。…もちろん、ユーグもだからね?」
「え…?あ、え?でも、去年は…」
聡い彼女の瞳に浮かんだ焦りと怯え。彼女の見上げる眼差しに、ユーグが告げるのは無情な言葉。
「…忠告はした。」
(言ってたね…)
―覚悟はしておけ、加減は出来ない
「…受け入れた、だろ?」
「えっ!あれは!えっ!?そういうことになるの!?」
怯えより、焦りが増したクロエに、ユーグが嗤う―
腕の中の獲物を一瞬で抱え上げ、店の階段へと消えていくユーグ。後に、クロエの制止と抵抗の声だけを残して。
見送った男の背に、アセナの呟きが零れ落ちた。
「…え?嘘でしょ?…誰あれ?」
「本当に、ね。」
季節によるものなのか、彼女の存在ゆえなのか。
ユーグの、今まで見せたことのない程の機嫌の良さ。それが、これから共に恋の季節を迎えるクロエにとっての幸福と成り得るのかどうか。あとはもう、彼ら次第―
(終)
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