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第二幕:化身との契約
2-5:出せない想い
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三日間、シュトリカと話をしていない。だが、夜はアーベに体を乗っ取られ、彼女と淫蕩に耽ってばかりだ。体はどこか気怠く、心も惨めだった。自ら調合した液体状の滋養薬を飲んで、ため息をつく。
アーベは昼間、表に出ない。それは己のためではなく、シュトリカが体で奉仕しているからだろう。そんなことくらいわかる。だからこそ、余計に無力さがこみあげてくるのだ。
二人の交わりを、何度見せつけられたことか。アーベは非道の限りを尽くしている。シュトリカの胎に、体中に欲を放ち、彼女の全てを汚すことおびただしい。
執務室で書類をあらかた片づけ、サミーが入れてくれた香草の茶を飲みながら、また大きく息を吐く。ソファに座るディーンと目が合った。
「今朝だけで十数回はため息をついておられますな、陛下」
「そんなにだったかい。わざわざ数えなくてもいいよ」
「失礼ながら、少し苛ついておられる模様。何か不手際がありましたかな」
「いや、君はよくやってくれている。感謝しているよ。議会の準備も順調だしね」
「それならばいいのですが。陛下が苛立つなど、珍しいこともあると思いましてな」
ディーンの言葉に苦笑だけを漏らし、小さく頭を振った。温和で、清廉潔白なる王――そんなものは偽りだ。今も頭の中にはシュトリカの嬌声、艶美な様がよぎるし、もう一人の己、アーベに対して烈火の如き怒りがふつふつとこみ上げて止まない。
「政務に精を出すのは結構。それは歓迎すべきこと、なればこそ御身を案じて頂きたい」
「ありがとう、ディーン。今日の分は……もう終わってしまったかな」
「は。ここ数日、仕事は捗りましたゆえ。少し、ゆるりとされてはいかがですかな」
「……そうさせてもらおうか。じゃあ、後は頼んだよ」
ディーンの気遣いがありがたい。それから、少しシュトリカの体力が気になって、机にあった滋養薬の小瓶を隠し持ち、室内から出た。そこで丁度、サミーと出会う。
「失礼致しました、陛下。今、お茶の代わりを持とうと思ったのですが」
「それはディーンにやってほしい。その、シュトリカは……元気かな」
「少し疲れ気味かと。陛下、女性の体は繊細です。どうかお忘れにならないで下さいませ」
「……うん。わかっては、いるんだ」
そうとしか答えられなかった。まさかシュトリカが、己のために呪いの化身と毎晩抱き合っている、などとは口が裂けても言えない。
「今、彼女はどこに?」
「本日、シュトリカ嬢の勉学はお休みにさせて頂きました。今は離れで、ご自分の部屋を確認なさっている頃でしょう」
「離れだね。ありがとう、サミー」
サミーはまだ何かを言いたげだったが、ただ一礼するとワゴンを押し、執務室へと入っていった。それを見届けてから、離れに行くため外への通路を歩いて行く。
彼女は変わらず、シュトリカの身支度などの面倒を見ている。無惨な情交の後始末も、サミーが担当だ。疲労しきったシュトリカを見て、軽い忠言を飛ばしてきたのだろう。
でも、そうさせるのは私ではない――虚しさを振り切り、懐に入れた小瓶を握りしめた。
連日雨が続いていたが、今日は晴天だ。空気は澄み渡り、心を解きほぐしてくれる。
一体、シュトリカと何を話せばいいのか、そんなことはわからない。ただ、会って優しい時間を共有したい、そう思う。もっともっとシュトリカのことを知りたいと感じるのは、やはり独占欲から来るものなのだろうか。
相変わらず見事に整えられた庭園を過ぎ去り、小さな離れ、一階建ての館に辿り着く。離れの館は白亜ではなく、黒が基調となっていた。下手をすれば貴族の館より大きいそこは、歴代の王たちが愛人を囲うために作ったからだとされている。
煉瓦造りの道を歩けば、退屈そうにあくびをしていた見回りの親衛隊たちが慌てて背筋を正す。苦笑し、鷹揚に手を振った。今は他のことはどうでもいい。ただ、シュトリカに早く会いたかった。
離れは針葉樹の森が近くにあり、白樺の鮮やかな色と館の対比が眩しい。本館よりも小さな庭園、イヌマキに囲まれた四阿を通り過ぎようとしたとき、楽しそうな話し声が聞こえた。
「ほうら、どうぞご覧じろ。水の蝶の戯れです」
「凄い……魔術って、そんなこともできるんですね」
シュトリカの声だった。それと、コルの。無邪気なシュトリカの笑い声に、体が強張る。
そっとイヌマキの影から四阿を見た。シュトリカの周りには蝶がいて、それらは全て水でできている。水色、藍色、緑。それに囲まれたシュトリカは、心からの笑顔を浮かべていた。蝶が揺らめき、たゆたうように舞えば舞うほど、その微笑みは深くなっていく。
「風と水を使えば、ね。簡単にこんな風に遊べちゃうんですよ」
「コルは魔術の扱いが上手なんですね。風と水、一度に両方使えるなんて、凄いです」
「シュトリカ嬢は? どんな魔術を使うんですか?」
「え、っと……」
「何をしているんだい」
思わず固い声が出た。瞬間、影から現れたこちらを振り返るシュトリカとコルは、驚いた顔をしている。
「あ、陛下。今ちょっと、遊んでます」
「うん。それは見てわかるかな。君が仕事を放り投げていることも」
「あ……あの、ごめんなさい。わたしがコルに、お願いしたんです……」
シュトリカはうつむき、つと顔を逸らす。そこに笑顔の残りは一片も見られない。それがなぜか腹立たしく、しかし現在まともに、魔術を扱えないことを悔いた。
呪いさえなければ、もっと奇麗なものを見せることができたのに――競うような思いが駆け巡る。
それを努めて表に出さないように微笑み、柵に手をかけた。
「シュトリカ、離れの部屋を見に行くのではなかったのかな?」
「は、はい……後で行こうと思っていました……」
「そのために僕がいたんですよ。まあ、護衛としては当然ですよね」
「遊んでいたのに、かい? 全く、才能を見せびらかすような真似をして」
「固いですねえ。シュトリカ嬢の元気がなかったから、気分転換させようと思ったのに」
コルが指を鳴らせば、たゆたっていた蝶たちが水滴となり、大気に溶け消えていく。
「その役目は私で間に合っているよ。さあ、シュトリカ。一緒に部屋へ行こう」
「……はい」
シュトリカは素直に立ち上がり、うつむかせていた顔を上げた。
「ありがとうございました、コル。奇麗でした、とても」
「いつでも言って下さいよ。こんなの、すぐにできますからね」
コルが手を振れば、シュトリカは微かに笑む。紺碧のドレス、その端を持ってエンファニオのもとへと小さな階段を降りてきた。
「コル、君はもう下がって構わない。皆と共に、離れの見回りをお願いするよ」
「仰せつかりました、っと。それじゃあ仕事に戻りますか」
言うが早いか、コルは柵を跳び越えて離れの方へと走っていく。驚嘆すべき速さだ。身体能力では敵いそうにないな、そう思って苦笑する。
「陛下……?」
「なんでもないよ、シュトリカ。同い年の瞬発力に嫉妬しただけだ」
「ふふっ、陛下でも、嫉妬なんてなさるんですね」
柔らかいシュトリカの手を握り、切ない気持ちを抑えこむ。嫉妬なら、毎晩している。そう言いたかった。
だが、アーベの話題なんて持ち出したくなかったし、口にすればこみ上げる嫉みが暴走しそうで恐ろしく、話を素早く切り替えた。
「なんの話を、コルとはしていたのかな」
「……戦場のお話しを聞いていました」
「そんな血生臭い話を、どうして?」
離れに向かい、ゆったりと並んで歩きながら、シュトリカを見下ろす。シュトリカは遠く、ここではないどこかを見つめていた。たまに見せる、あの諦めたかのような顔で。
「雑技団にいたとき、いろんな町を見て回りました。ベルカスターにポラート、両方の。国境付近の町はとても、酷くて……歌っても、団員が踊っても、皆……笑いませんでした。病も流行るからって、あまり、長居はできなかったんですけど……でもわたし、あそこじゃいつも、何もできないのが悔しくて……」
シュトリカがこちらを見た。少し、潤んだ瞳で。
「陛下は、国を仲良くさせるために、頑張ってらっしゃるんですよね? もうあんな酷い場所、増えたりしませんよね?」
「……そうだね。難しいけれど、早くポラートとは和睦したいと考えているよ。町もそうだ。復興には時間がかかるかもしれない。でも、救護院のものを手配したりしている」
「そう、陛下が頑張ってくれるから……わたしもきっと、頑張れるんだと思います」
シュトリカの「頑張れる」という意味が夜伽のことだと、直感で理解した。決して自ら、望んでアーベに抱かれているのではない。心を許しているわけではない――そう考えると、胸の奥底が暖かくなるのを感じた。同時に、安堵もした。
「優しいね、シュトリカ。こんな私に、君は本当に、優しすぎる」
「や、優しいのは陛下です。いつも……こんな手を握ってくれるし……ここの人も、み、皆さんよくしてくれます。優しい世界です、ここは。だから、守りたいんです」
シュトリカの微笑みに、つられて唇を上げる。でも、と心の片隅でなにかが頭をもたげた。本当に守りたいのは国より、民より、シュトリカ自身だ――浅ましい考え、王という身分には不相応な気持ちが膨れ上がり、心臓を鷲掴みにされる気持ちになる。
「やはり私は、王となるべきではなかったかもしれない……」
「な、何か言いましたか?」
「いや……独り言だよ。さあ、シュトリカ。ここが離れだ。部屋を案内しよう」
いつの間にか、離れの扉前まで来ていた。扉も漆喰でできた黒だ。金の縁取りがされた扉を開け、中に入る。ごく僅かな使用人が清掃のため、行き来しているのが見えた。
先王であった父はここを使っていない。一人の女性、すなわち母だけを愛した。側近に何かあった際に、と愛人を作るよう勧められたらしいが、蹴ったと笑いながら話してくれたことを思い出す。
結局、単なる遊び場になっていた離れに来るのは久しぶりだ。使用人の一人に話を聞けば、シュトリカの部屋は一番奥、最も広い部屋であるらしいことがわかった。
赤い絨毯が敷かれた通路を行き、部屋の中に入る。
「……あの……ここ、いつものお部屋より広い、ような」
「まだ、広い部屋には慣れないかい?」
「は、はい……ちょっと緊張しちゃいます」
「議会は三日間を予定している。その間の辛抱だから。もちろんサミーもつけるよ」
うなずくシュトリカが、一歩踏み出して辺りを見回す。紅のタペストリー、絵画などの調度品には埃一つない。天蓋付きの寝台もより大きく、二人寝ても余るほどだ。
「こっちに来て話をしよう、シュトリカ。ここ数日、君の歌も聞いていないし」
シュトリカは窓から見える景色や、見慣れないものに戸惑っているようだった。微笑み、ソファに座ってシュトリカを手招く。
シュトリカはちょっと迷った様子で、ソファの端に座る。大分距離が空いたから、詰め寄るように近付いた。手を伸ばし、その短い金髪に触れてみる。
「へ、陛下?」
「大分、艶が戻ったね。柔らかくて触り心地がいい。……少しの間、撫でてもいいかな」
「わ、わたしの……髪でいいなら……」
くすぐったそうにシュトリカが笑う。その笑顔が、もっと見たい。笑顔も、泣き顔も、艶やかな蕩けた顔も、全てがほしい。夜、激しく肌を交えるものにはない優しい感触を、しばらくの間堪能した。シュトリカは心地よさげに目を閉じる。口付けを待つかのように。
馬鹿な――と勝手な思いこみをせせら笑う。こんなに心を許してくれている女性に対し、けだもののような無様な様を見せるのか。そう、理性では思うのに。
「ん……」
頭上から頬、それから首へと手が、勝手に滑った。ぴくりと無意識的にだろう、シュトリカの体が跳ねる。愛撫に慣れた肌だ――慣れさせてしまった、体だ。
「シュトリカ……私の名前を、呼んでほしい」
「陛下?」
うっすらと開いた瞳と目が合う。首のレース部分、そこに隠された愛撫の赤痣を見つけ、頭に血が上る。それでも激情を抑えこみ、シュトリカの頬を両手で挟みこんだ。
「エンファニオ、と。呼んでみては、くれないだろうか」
「で、でも」
「いいから。君の声で、私の名を呼んでほしい」
シュトリカの頬に朱が差す。視線が逸らされ、下に向けられてから、しばらくして。
「エ、エンファニオ……様……」
「こっちを見て、もう一度。ちゃんと私を見てくれ。シュトリカ」
「……エンファニオ様……」
その小さな唇で名前を呼ばれたとき、潤んだ瞳が自分を射貫いたとき、理性が壊れた。
そっと、怖がらせないように顔を近付ける。顎を持ち、力強く片手を背中に回した。
唇同士が触れ合った瞬間、そこだけが熱くなる。思い切り深く強く、口付けする。温室のときとは違い、シュトリカは抵抗しなかった。後頭部を支え、舌を絡める。おずおずと差しこまれる舌を吸い、甘く感じるシュトリカの口腔内を貪った。
一体どのくらい、そうしていただろう。体全体を抱きしめ、その温もりを味わいながら、シュトリカの唾液を啜り続けた。
これ以上は、だめだ――シュトリカの体を労ろうと思ったのに、とそこでようやく、滋養薬のことを思い出す。体を火照らせるシュトリカを抱きしめたまま、滋養薬の瓶を片手でとりだした。
「これは滋養の薬だ。多分、夜……楽になると思う。今から口移しで飲ませるよ、いいね?」
惚けた、というより蕩けた顔で、シュトリカは素直に、小さくうなずいた。瓶の中身を己の口に含む。そして、再びゆっくり、シュトリカと唇を重ねていく。薬が零れないように、少しずつシュトリカが薬を嚥下していくのを見ながら。
このまま抱きたい。ドレスを剥がして、体中についているだろう赤痣を、上からかき消してしまいたい――欲望が泥のような感情になって渦を巻く。だが、シュトリカの体力やアーベのことを考えると、それは許されないことだ。
今は大人しく眠ってはいるが、アーベが昼間、勝手にシュトリカの体を『エンファニオ』が抱いたと知れば、きっと激怒することだろう。シュトリカとの約束すら反故にする可能性もある。それはシュトリカの努力や献身を、こちらが踏み潰すようなものだ。
だから、今は口付けだけで耐える。誰かに罵られても、嘲笑われても、シュトリカの心はきっと己にあると、そう信じているから。
アーベは昼間、表に出ない。それは己のためではなく、シュトリカが体で奉仕しているからだろう。そんなことくらいわかる。だからこそ、余計に無力さがこみあげてくるのだ。
二人の交わりを、何度見せつけられたことか。アーベは非道の限りを尽くしている。シュトリカの胎に、体中に欲を放ち、彼女の全てを汚すことおびただしい。
執務室で書類をあらかた片づけ、サミーが入れてくれた香草の茶を飲みながら、また大きく息を吐く。ソファに座るディーンと目が合った。
「今朝だけで十数回はため息をついておられますな、陛下」
「そんなにだったかい。わざわざ数えなくてもいいよ」
「失礼ながら、少し苛ついておられる模様。何か不手際がありましたかな」
「いや、君はよくやってくれている。感謝しているよ。議会の準備も順調だしね」
「それならばいいのですが。陛下が苛立つなど、珍しいこともあると思いましてな」
ディーンの言葉に苦笑だけを漏らし、小さく頭を振った。温和で、清廉潔白なる王――そんなものは偽りだ。今も頭の中にはシュトリカの嬌声、艶美な様がよぎるし、もう一人の己、アーベに対して烈火の如き怒りがふつふつとこみ上げて止まない。
「政務に精を出すのは結構。それは歓迎すべきこと、なればこそ御身を案じて頂きたい」
「ありがとう、ディーン。今日の分は……もう終わってしまったかな」
「は。ここ数日、仕事は捗りましたゆえ。少し、ゆるりとされてはいかがですかな」
「……そうさせてもらおうか。じゃあ、後は頼んだよ」
ディーンの気遣いがありがたい。それから、少しシュトリカの体力が気になって、机にあった滋養薬の小瓶を隠し持ち、室内から出た。そこで丁度、サミーと出会う。
「失礼致しました、陛下。今、お茶の代わりを持とうと思ったのですが」
「それはディーンにやってほしい。その、シュトリカは……元気かな」
「少し疲れ気味かと。陛下、女性の体は繊細です。どうかお忘れにならないで下さいませ」
「……うん。わかっては、いるんだ」
そうとしか答えられなかった。まさかシュトリカが、己のために呪いの化身と毎晩抱き合っている、などとは口が裂けても言えない。
「今、彼女はどこに?」
「本日、シュトリカ嬢の勉学はお休みにさせて頂きました。今は離れで、ご自分の部屋を確認なさっている頃でしょう」
「離れだね。ありがとう、サミー」
サミーはまだ何かを言いたげだったが、ただ一礼するとワゴンを押し、執務室へと入っていった。それを見届けてから、離れに行くため外への通路を歩いて行く。
彼女は変わらず、シュトリカの身支度などの面倒を見ている。無惨な情交の後始末も、サミーが担当だ。疲労しきったシュトリカを見て、軽い忠言を飛ばしてきたのだろう。
でも、そうさせるのは私ではない――虚しさを振り切り、懐に入れた小瓶を握りしめた。
連日雨が続いていたが、今日は晴天だ。空気は澄み渡り、心を解きほぐしてくれる。
一体、シュトリカと何を話せばいいのか、そんなことはわからない。ただ、会って優しい時間を共有したい、そう思う。もっともっとシュトリカのことを知りたいと感じるのは、やはり独占欲から来るものなのだろうか。
相変わらず見事に整えられた庭園を過ぎ去り、小さな離れ、一階建ての館に辿り着く。離れの館は白亜ではなく、黒が基調となっていた。下手をすれば貴族の館より大きいそこは、歴代の王たちが愛人を囲うために作ったからだとされている。
煉瓦造りの道を歩けば、退屈そうにあくびをしていた見回りの親衛隊たちが慌てて背筋を正す。苦笑し、鷹揚に手を振った。今は他のことはどうでもいい。ただ、シュトリカに早く会いたかった。
離れは針葉樹の森が近くにあり、白樺の鮮やかな色と館の対比が眩しい。本館よりも小さな庭園、イヌマキに囲まれた四阿を通り過ぎようとしたとき、楽しそうな話し声が聞こえた。
「ほうら、どうぞご覧じろ。水の蝶の戯れです」
「凄い……魔術って、そんなこともできるんですね」
シュトリカの声だった。それと、コルの。無邪気なシュトリカの笑い声に、体が強張る。
そっとイヌマキの影から四阿を見た。シュトリカの周りには蝶がいて、それらは全て水でできている。水色、藍色、緑。それに囲まれたシュトリカは、心からの笑顔を浮かべていた。蝶が揺らめき、たゆたうように舞えば舞うほど、その微笑みは深くなっていく。
「風と水を使えば、ね。簡単にこんな風に遊べちゃうんですよ」
「コルは魔術の扱いが上手なんですね。風と水、一度に両方使えるなんて、凄いです」
「シュトリカ嬢は? どんな魔術を使うんですか?」
「え、っと……」
「何をしているんだい」
思わず固い声が出た。瞬間、影から現れたこちらを振り返るシュトリカとコルは、驚いた顔をしている。
「あ、陛下。今ちょっと、遊んでます」
「うん。それは見てわかるかな。君が仕事を放り投げていることも」
「あ……あの、ごめんなさい。わたしがコルに、お願いしたんです……」
シュトリカはうつむき、つと顔を逸らす。そこに笑顔の残りは一片も見られない。それがなぜか腹立たしく、しかし現在まともに、魔術を扱えないことを悔いた。
呪いさえなければ、もっと奇麗なものを見せることができたのに――競うような思いが駆け巡る。
それを努めて表に出さないように微笑み、柵に手をかけた。
「シュトリカ、離れの部屋を見に行くのではなかったのかな?」
「は、はい……後で行こうと思っていました……」
「そのために僕がいたんですよ。まあ、護衛としては当然ですよね」
「遊んでいたのに、かい? 全く、才能を見せびらかすような真似をして」
「固いですねえ。シュトリカ嬢の元気がなかったから、気分転換させようと思ったのに」
コルが指を鳴らせば、たゆたっていた蝶たちが水滴となり、大気に溶け消えていく。
「その役目は私で間に合っているよ。さあ、シュトリカ。一緒に部屋へ行こう」
「……はい」
シュトリカは素直に立ち上がり、うつむかせていた顔を上げた。
「ありがとうございました、コル。奇麗でした、とても」
「いつでも言って下さいよ。こんなの、すぐにできますからね」
コルが手を振れば、シュトリカは微かに笑む。紺碧のドレス、その端を持ってエンファニオのもとへと小さな階段を降りてきた。
「コル、君はもう下がって構わない。皆と共に、離れの見回りをお願いするよ」
「仰せつかりました、っと。それじゃあ仕事に戻りますか」
言うが早いか、コルは柵を跳び越えて離れの方へと走っていく。驚嘆すべき速さだ。身体能力では敵いそうにないな、そう思って苦笑する。
「陛下……?」
「なんでもないよ、シュトリカ。同い年の瞬発力に嫉妬しただけだ」
「ふふっ、陛下でも、嫉妬なんてなさるんですね」
柔らかいシュトリカの手を握り、切ない気持ちを抑えこむ。嫉妬なら、毎晩している。そう言いたかった。
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「なんの話を、コルとはしていたのかな」
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「雑技団にいたとき、いろんな町を見て回りました。ベルカスターにポラート、両方の。国境付近の町はとても、酷くて……歌っても、団員が踊っても、皆……笑いませんでした。病も流行るからって、あまり、長居はできなかったんですけど……でもわたし、あそこじゃいつも、何もできないのが悔しくて……」
シュトリカがこちらを見た。少し、潤んだ瞳で。
「陛下は、国を仲良くさせるために、頑張ってらっしゃるんですよね? もうあんな酷い場所、増えたりしませんよね?」
「……そうだね。難しいけれど、早くポラートとは和睦したいと考えているよ。町もそうだ。復興には時間がかかるかもしれない。でも、救護院のものを手配したりしている」
「そう、陛下が頑張ってくれるから……わたしもきっと、頑張れるんだと思います」
シュトリカの「頑張れる」という意味が夜伽のことだと、直感で理解した。決して自ら、望んでアーベに抱かれているのではない。心を許しているわけではない――そう考えると、胸の奥底が暖かくなるのを感じた。同時に、安堵もした。
「優しいね、シュトリカ。こんな私に、君は本当に、優しすぎる」
「や、優しいのは陛下です。いつも……こんな手を握ってくれるし……ここの人も、み、皆さんよくしてくれます。優しい世界です、ここは。だから、守りたいんです」
シュトリカの微笑みに、つられて唇を上げる。でも、と心の片隅でなにかが頭をもたげた。本当に守りたいのは国より、民より、シュトリカ自身だ――浅ましい考え、王という身分には不相応な気持ちが膨れ上がり、心臓を鷲掴みにされる気持ちになる。
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「な、何か言いましたか?」
「いや……独り言だよ。さあ、シュトリカ。ここが離れだ。部屋を案内しよう」
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結局、単なる遊び場になっていた離れに来るのは久しぶりだ。使用人の一人に話を聞けば、シュトリカの部屋は一番奥、最も広い部屋であるらしいことがわかった。
赤い絨毯が敷かれた通路を行き、部屋の中に入る。
「……あの……ここ、いつものお部屋より広い、ような」
「まだ、広い部屋には慣れないかい?」
「は、はい……ちょっと緊張しちゃいます」
「議会は三日間を予定している。その間の辛抱だから。もちろんサミーもつけるよ」
うなずくシュトリカが、一歩踏み出して辺りを見回す。紅のタペストリー、絵画などの調度品には埃一つない。天蓋付きの寝台もより大きく、二人寝ても余るほどだ。
「こっちに来て話をしよう、シュトリカ。ここ数日、君の歌も聞いていないし」
シュトリカは窓から見える景色や、見慣れないものに戸惑っているようだった。微笑み、ソファに座ってシュトリカを手招く。
シュトリカはちょっと迷った様子で、ソファの端に座る。大分距離が空いたから、詰め寄るように近付いた。手を伸ばし、その短い金髪に触れてみる。
「へ、陛下?」
「大分、艶が戻ったね。柔らかくて触り心地がいい。……少しの間、撫でてもいいかな」
「わ、わたしの……髪でいいなら……」
くすぐったそうにシュトリカが笑う。その笑顔が、もっと見たい。笑顔も、泣き顔も、艶やかな蕩けた顔も、全てがほしい。夜、激しく肌を交えるものにはない優しい感触を、しばらくの間堪能した。シュトリカは心地よさげに目を閉じる。口付けを待つかのように。
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「ん……」
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「シュトリカ……私の名前を、呼んでほしい」
「陛下?」
うっすらと開いた瞳と目が合う。首のレース部分、そこに隠された愛撫の赤痣を見つけ、頭に血が上る。それでも激情を抑えこみ、シュトリカの頬を両手で挟みこんだ。
「エンファニオ、と。呼んでみては、くれないだろうか」
「で、でも」
「いいから。君の声で、私の名を呼んでほしい」
シュトリカの頬に朱が差す。視線が逸らされ、下に向けられてから、しばらくして。
「エ、エンファニオ……様……」
「こっちを見て、もう一度。ちゃんと私を見てくれ。シュトリカ」
「……エンファニオ様……」
その小さな唇で名前を呼ばれたとき、潤んだ瞳が自分を射貫いたとき、理性が壊れた。
そっと、怖がらせないように顔を近付ける。顎を持ち、力強く片手を背中に回した。
唇同士が触れ合った瞬間、そこだけが熱くなる。思い切り深く強く、口付けする。温室のときとは違い、シュトリカは抵抗しなかった。後頭部を支え、舌を絡める。おずおずと差しこまれる舌を吸い、甘く感じるシュトリカの口腔内を貪った。
一体どのくらい、そうしていただろう。体全体を抱きしめ、その温もりを味わいながら、シュトリカの唾液を啜り続けた。
これ以上は、だめだ――シュトリカの体を労ろうと思ったのに、とそこでようやく、滋養薬のことを思い出す。体を火照らせるシュトリカを抱きしめたまま、滋養薬の瓶を片手でとりだした。
「これは滋養の薬だ。多分、夜……楽になると思う。今から口移しで飲ませるよ、いいね?」
惚けた、というより蕩けた顔で、シュトリカは素直に、小さくうなずいた。瓶の中身を己の口に含む。そして、再びゆっくり、シュトリカと唇を重ねていく。薬が零れないように、少しずつシュトリカが薬を嚥下していくのを見ながら。
このまま抱きたい。ドレスを剥がして、体中についているだろう赤痣を、上からかき消してしまいたい――欲望が泥のような感情になって渦を巻く。だが、シュトリカの体力やアーベのことを考えると、それは許されないことだ。
今は大人しく眠ってはいるが、アーベが昼間、勝手にシュトリカの体を『エンファニオ』が抱いたと知れば、きっと激怒することだろう。シュトリカとの約束すら反故にする可能性もある。それはシュトリカの努力や献身を、こちらが踏み潰すようなものだ。
だから、今は口付けだけで耐える。誰かに罵られても、嘲笑われても、シュトリカの心はきっと己にあると、そう信じているから。
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