かれこひわづらひ

ヒロヤ

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第一部 第一章 枯木立の巻

二〇一六年一月十七日 2016/01/17(日)夕方

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「近寄らないで!」




 にぎやかに行なわれていたビンゴ大会が、一瞬で凍りつく。

 ウェディングドレスを着ている友人の紗枝が、真っ先にこちらの事態に気がついた。

 和泉澄子いずみすみこは、椅子から転げ落ちた男を見るや、ようやく我に返った。

 ――何してるんだ、わたしは。

 床に転がった男が、苦笑いしながら言った。

「いや、いやいや。ちょっと有り得ないでしょう。普通、突き飛ばすか?」

 ――本当、そうよ。

 しかし、謝ろうにも言葉が上手く出てこない。

 代わりに、駆け寄ってきた別の男が声を上げた。

「バカ!有り得ねえのはお前!セクハラだ、セクハラ!ごめんね、このオジサン、酔っ払っちゃってさ」

 すると、セクハラ呼ばわりされた男が、明らかに不愉快そうな顔で立ち上がった。

「は?たいして、歳は変わらねえだろうよ。アラフォーで何がセクハラだ。そもそも触ってねえし。一緒に飲もうと隣に座っただけだぞ?」

 澄子は、睨み上げる男の顔に身震いした。
 そして、繰り返される浅い呼吸。
 
 ――あれだけ酔っちゃえば平気だと思ったのに。

 今度は、遠巻きに見ていた女の子たちが非難の声を上げる。

「えー、ヒドイよ。女子に年齢とか関係ないよ。嫌がっているんだから、謝りなよ」
「おめでたい席が台無しなんですけどぉ」
「そちらの人がすごく可哀想。……あの、大丈夫ですか?」

 ――可哀想。

 十歳以上は年下の女の子に同情された。

「え、何なに、やっぱりオレが悪者なの?」

 男は若い女の子たちに注目されたのが嬉しいのか、急に笑い出した。

「あれかな。もしかして、これキッカケに始まっちゃうかな」
「始まらねえよ。マジでいい加減にしろって。お姉さん、本当ゴメンね」

 友人らしき人物が、澄子を気遣いつつも、場を白けさせないようにしているのがわかる。

 澄子も申し訳なく思ったが、どうすることも出来ない。

 ――どうしたって、ダメなんだよ。同世代の男は。

「お姉さんも酔っ払っちゃったんですよね。水、もらってきましょうか?」

 友人の方が、澄子の顔を覗き込んだ。

「ひっ」

 反射的に身体をのけぞらす。
 また笑い声が起きた。

「あらら、オレも嫌われた」
「一緒に騒ぎ起こしたんだから、フォローしてよ。大人げねえなあ」
「まあまあ。オレって、こう見えて年上の扱いは得意だからさ」

 苦しい。
 悔しい。
 怖い。

 この痛み、すべての原因は中学の時に遭った痴漢だ。

 今では、相手の顔も忘れてしまうくらいには消化できた過去だが、確実に傷は残されていた。
 男性恐怖症――という言葉が一番しっくりくるのだろうか。いや、本当に悩んでいる人に比べれば大したことはないはずだ。男が嫌いなわけではない。恋愛にも結婚にも憧れた。

 だからこそ、辛い。

 澄子は、自分が女として――性の対象として見られた途端に恐怖を覚える。
 特に同世代の男は、自然と恋愛や結婚を意識するせいか、会話ですら勇気が要る。身体が近づこうものなら、昔のトラウマがよみがえり、息苦しくなるのだ。

 ――帰りたい。

 しかし、せっかく招待してくれた新婦の紗枝を悲しませることになる。

 ――今だって、ホラ。あの心配そうな顔。
 
 友人への申し訳ない気持ちと、思い知らされる自分の惨めさ。
 人の幸せは、自分の満たされなさを量るものではないはずなのに。

 周囲からの憐みの目、好奇の目。
 酷くなる身体の震え。

 ――ごめん、無理だ。

 たまらず、澄子は立ち上がった。

 その時。


 
 『ヒヒィイーーーーンッ』



 フロア中に、けたたましい馬のいななきが響き渡った。
 誰もが驚き、何事かと周囲を見渡す。
 その後には、のどかな鳥のさえずりが聞こえた。

 ――。

 四十過ぎくらいの細身の男が、新郎新婦のそばに座って、弦楽器――二胡を弓で鳴らしている。
 何やら思いつめたような鋭く暗い顔だが、相変わらずピヨピヨと可愛らしい音を出していた。

 男は、新郎と幹事に睨むような視線を送ると、幹事が慌ててマイクを取った。

「や、ビックリしました!二胡は馬や鳥の鳴きマネもできるんですか!」
 
 それに対して、もう一度だけ馬が鳴くと笑いが起きた。

「では、ここで参加者のお一人から曲の披露があるそうです!先ほど、披露宴でも素晴らしい演奏がありましたよね!」

 新郎と新婦が拍手を始めると、徐々に周りからも拍手が上がり始める。

 一瞬で注目の的は、澄子から楽器の男に変わった。

「……一曲だけ、弾かせていただきます」

 ゆったりとした音色が会場に響く。そのうち、たくさんの鳥たちがさえずり合うような軽快なメロディが溢れ出した。その腕前は、素人目からも明らかで、一曲終わる頃には、スタンディングオベーションになっていた。

 ホッとした顔で、新婦の紗枝が男に頭を下げる。新郎の森勲は、幹事からマイクを借りると、咳払いをした。

「こちら、柿坂誠司かきさかせいじくんは、僕の学生時代の友達です。時々、夕方くらいからポプラ公園で二胡の練習してますから、興味ある人は、そっと見に行ってあげてください。あ、怖い人じゃないですから、平気ですよ」

「じゃあ、練習場所を変えます。怖い人ですから」

 柿坂と紹介された男は、困ったような顔でそう言った。それが、さらに笑いを誘い、場を盛り上げた。そこからは、幹事が上手い具合にビンゴ大会を再開させ、澄子と男たちとのいざこざも、うやむやとなった。

 ちょうどそこへ、新婦の友人が、そっと澄子の元へやって来た。

「スミってば、平気?……ちょっと、飲み過ぎなんじゃないの?」

 そして、小声でささやく。

「辛かったら、少し外に出て、風に当たっておいでよ」

 紗枝が心配したのは酔いだけじゃないのはわかっていた。澄子の悩みを知る、数少ない友人だからだ。
 澄子は首を横に振った。

「……平気。おめでたい席なのにゴメンね。あの二胡の人にも悪いことしちゃったかな」

「気にしないでいいよ。何だかんだで盛り上がったし、良かったよ。まさか馬や鶏が鳴くとは思わなかったけどさ」

 紗枝が見つめる先で、新郎の勲が、柿坂に手を合わせているのが見えた。対する柿坂は、首を横に振り、気にするなといった風に楽器を片付けている。

 胸の奥で鈍い痛みが走った。

「どうしよう。謝った方が良いよね」

「別にいいんじゃない?無理しない方が良いよ。また発作出るよ」

「うん、でも……頑張る。大人として、やっぱりそこはきちんとしないとね。大丈夫、話をするだけだから」

 ちょうど、柿坂が場を離れて、会場の外へ向かった。澄子は心配する紗枝を置いて、男の後を追いかけた。
 近づき過ぎず、かつ声は届く距離を澄子は自然と身につけている。それでも、初対面で同世代の男とのやり取りは、いつも勇気が必要だった。

 ――ちょっと謝って頭を下げるだけじゃないか。

 男の背中まで、あと少し近づけばいいだけだ。

 ――平常心。

 いつものように自己暗示をかけて、澄子は声が届く距離まで柿坂に近づいた。

「あ、あの、す、すみません」

 酔いも手伝って、いつも以上に呂律が回らなかった。
 澄子の裏返った声に、柿坂はすぐに立ち止まり、少しだけ後ろを振り返った。

「……」

 横目とはいえ、とてつもなく鋭く不機嫌そうな眼差しだった。頬がこけてはいるが、虚弱な印象はまるでなく、限界まで削って研ぎ澄まされた刃のような空気をまとっていた。顔立ちは整っている方なのだろうが、それを差し引いても――。

 ――怖い。

 これは、相手が同世代の男だからとか関係なく、単純な恐怖だ。
 犬嫌いの人間が、野生の狼に近づくようなものだ。 

「さっきは、その、すみませんでした。気を遣っていただき、ありがとうございました」

 早口でどうにか言い終えると、澄子は頭を下げた。

「……いいえ。別に気を遣ったわけではないです」

 そう言うとそのまま柿坂は立ち去ろうとした。

 ――気を遣っていないなら、どうしてあんな演出を?

 澄子は、咄嗟に言葉を次いだ。

「えっと、二胡……初めて生音を聴きました。お上手ですね」

「どうもありがとうございます」

 澄子は相手が笑いもしないことに、困惑した。

 ――え、褒めたんだけどな。

 すると柿坂が首をかしげて、目を細めた。その鋭さに澄子は固まった。

「飲み過ぎじゃないですか。具合、悪そうですね」

「へ?」

「……無理しない方が良いですよ」


 立ち尽くした澄子を置いて、柿坂はロビーの方へと消えてしまった。
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