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第一部 第一章 枯木立の巻
二〇一六年一月二十四日 2016/01/24(日)夕方
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ティータイムはとうに終わっているが、店内の客が引く様子はない。
残りわずかな日曜日の時間を、誰もが名残惜しそうに味わっているように思えた。
澄子は、三杯目の紅茶を飲んでいる紗枝に、今回の目的の品を手渡した。
「はい、これ二次会のアルバム。わたしの手作りだからね」
「あ、可愛い!ありがとう」
結婚式の二次会は、きちんと写真に残ることがないと他の友人たちから聞いた。澄子はそれならと、シャンパンを飲みつつカメラ片手に、参加者たちや二次会会場の飾りつけを次々と写真に収めた。
そして、一通り撮り終えて席に着いた時、あの事件は起きたわけだが――。
「本当は挙式から来て欲しかったなあ」
紗枝がアルバムをめくりながら言った。にわかに申し訳ない気持ちになる。
「うん……わたしも紗枝の白無垢が見たかった」
「ま、仕方ないよね。職場の人が優先だもんね」
結婚式が重なったのは初めてだ。事情を汲んでくれる友人で本当に良かったと、澄子は思った。
ふと見れば、紗枝が意地悪そうな顔で笑っている。
「ここで、他の友達なら、スミに『どうなのよ?良い人いないの?』の尋問開始だよね」
「……だね。放って置いて欲しいわ」
「あんなの、社交辞令みたいなものなんだから。適当に流せば良いじゃない」
「普通なら流せるかもしれないけど、わたしは考えただけで息苦しいんだよ」
紗枝が椅子にもたれかかって、ため息をついた。
「やっぱりダメなの?もう、アラフォーなのに」
澄子はテーブルに突っ伏した。
「ダメだねえ。この前、再認識した。久しぶりに同世代の男と絡んだ」
「あれは、絡まれたんでしょ?」
「そうだけど……でもさ、少し前に比べたら、成長した方だと思うの」
身体の接触さえなければ、同世代の男とも会話はできるようになったのだ。あと、もう少しのような気がしている。
そう言ってやると、紗枝は眉を八の字にした。
「あのねぇ……全然だよ。二次会の時も遠巻きに見ていたけどさ、男の前だと、澄子ってば緊張するせいか異様にテンション高い人みたいになるんだよ。それでノリが良いように思われるから、男が調子に乗るんだって」
心当たりがあり過ぎる。澄子は暗澹たる気持ちになった。
「……わかってる。でも男相手に自然体で普通に話すことなんてできない。黙るか、気合入れてテンション上げていくか」
四十歳手前で、まるで女子中学生のようなことを言っている自分が情けない。しかし、事実なのだから仕方ない。楽しく笑い話をしていても、ふいに男が接近をしてきた瞬間に、気持ちが一気に萎えて、突き放してしまうのだ。
紗枝がため息を吐いた。
「だから、疲れて気分悪くするんでしょうよ。無理しちゃってさ」
――無理しないほうがいい。
澄子の脳裏に、鋭い眼差しの男の顔が浮かんだ。
「そういや、あの人にも言われた。あれは、わたしが酔ってたからだろうけど」
「誰よ」
「えっと、あの二胡の人」
「ああ、柿坂さんか。あの時、ちゃんと話せたの?」
「う、ん。まあ」
澄子の胸元に、何かが染み込むような、不思議な感覚があった。
あれ以来、時々思い出しては、動画サイトで二胡の演奏を聴いているのは秘密だ。
「柿坂さん……って、どんな人?」
「旦那の同級生だよ。披露宴で二胡を弾いてくれたんだけど、すごかったよ」
まず何よりも、柿坂が澄子と一つしか年齢が違わないことに驚いた。
――三十九歳か……わたし、何歳くらいに思われたかな。
紗枝が柿坂の話を続ける。
「けど、何か取っつきにくいんだよね。まあ、そこそこ背丈もあって、雰囲気だけならイケメンだけど、あの目が鋭すぎて、緊張するんだよね」
「わかる、わかる。わたしも緊張した」
「あなたは、誰でももれなく、でしょうよ」
笑いながら紗枝が腕時計に目をやった。
「あの人、この時間ならポプラ公園で二胡の練習しているよ。行ってきたら?」
言葉の意味を理解するのに、数秒要した。
「は、何で?」
「だって、柿坂さんが気になっているんじゃないの?」
「どこから……そんな展開に」
「スミが男の話に興味を示すなんて、今まであった?」
また、胸元に何かが染み込む。
紗枝からもたらされた柿坂の情報が、さっきから頭の中で渦巻いていた。
気になっている、これを否定する材料はない。
「別に、そんなんじゃないよ」
だから、強がるしかなかった。
紗枝が少しだけつまらなそうな顔をする。
「ま、仮にそんなんだとしても無理か。始まったら、終わっちゃうからね。あなたの場合は」
始まったら、終わる。
「そう。最初から期待しない」
だって、怖いし。
もう、良いのよ、わたしは。
――。
紗枝が伝票を手にして立ち上がった。
「じゃ、私は行くね。これから、柿坂さんに披露宴で演奏してくれたお礼と、撮影したDVD渡したいから」
「はっ?」
澄子の裏返った声に、吹き出して紗枝が笑った。
「ふふ、顔に出過ぎなんだよ。良いじゃん、遠くから見てキャーキャー言えるようになっただけでも、スミにとっては進歩だよ。それに、ちょっとタイプなんでしょう?」
そこは、否定したくない。
いつだって、自分には正直でいたい。
だから。
「……だから、辛いんだってば」
**
紗枝と共にやってきた夕暮れ時の公園は、人がまばらだった。ランニング中の女性が、白い息を吐きながら、澄子の横を走り抜けて行った。
その先、ポプラ並木のあたりから、細い音が聞こえた。
風にかき消されそうになりながら、しだいにメロディとなって澄子の耳に届く。
――何だか女の人が泣いているみたい。
「あ、いたいた」
ベンチには、細くて黒い影があった。緩やかに動く右手の動きは、二胡の弓使いだ。
澄子たちに気づいたのか、メロディがピタリと止んだ。紗枝もそれに合わせて小走りになる。
「こんばんは。すみません、お待たせしました」
「いいえ。こちらこそ、わざわざすみません」
柿坂が会釈をしつつ、その視界に澄子をとらえたのがわかった。
鋭い眼差しだったが、さすがに心の準備をしていただけ、前ほどの恐怖はなかった。
すると、柿坂が、澄子にも小さく頭を垂れたので、慌ててそれに合わせた。
紗枝がバッグから包みを取り出し、柿坂に手渡した。
「先日はお忙しい中、ありがとうございました。これ、披露宴のDVDです」
「どうも、ありがとうございます」
「私が好きな映画の主題歌を弾いてくれるなんて感動でした。ね、綺麗だったよね」
紗枝の言葉に、澄子は肩をすくめる。
「いや、わたし……二次会からしか出てないから……」
「あ、そうだった。職場の人と重なっちゃったんだっけ」
どうやら、紗枝も柿坂の前で緊張しているようだ。さっきからほとんど言葉を発さない柿坂に、二人は完全に飲まれていた。
紗枝が、澄子の肩に手を触れながら言った。
「この子、私の高校時代の友達です。結婚式、職場の人とかぶっちゃって、二次会しか参加できなかったんです。公務員だから、お呼ばれ多いみたいで」
まさか、ここへ来て紹介されるとは思わなかった。
余計なことを言うなと紗枝をたしなめようとすると、柿坂が笑いもせず、
「わかります。大変ですよね」
そう言った。
「え?」
「私も役人業をやっているんで」
――同じ、公務員なんだ。
またしても、胸元に滴がおちるような感覚があった。
「あ、そうだ聴かせてもらいなよ。すごく綺麗だよ」
紗枝がまくし立てる。一体、何を期待しているのか、澄子は戸惑った。
「いや、悪いよ。急に来てさ、そんな」
すると、小さく息を吐き、柿坂が二胡の弓を手に取った。
「良いですよ」
一瞬、柿坂の表情が緩んだような気がした。
弓を何度か滑らせ、音を出す。左手を反転させ、竿の先にある小さな金具を指先で転がした。
その姿は、誰かを抱き寄せているようにも見えて――。
――綺麗な手。
澄子が少しだけ身を乗り出した時だった。
柿坂の右腕が動きを止めた。
「近寄らないで下さいね」
呼吸が止まる。
「……いつもの逆だわね」
紗枝が小声で笑った。
「……やめてよ」
澄子はどうにか反論したが、とてもじゃないけど柿坂を見ることが出来ない。
「すぐそばに立たれると、弓を振った時にぶつかってしまうんですよ」
柿坂の言葉とともに、伸びやかな二胡の音色が響いた。
――何だ、そういうことか。
安堵した澄子の胸に、切ない音が迫ってきた。
何かに焦がれるような、独特の音色。
心が洗われるよう、とはこのことかもしれない。
自然と視界が滲んできた。
その時。
「あ、ごめんなさい!電話だ」
紗枝がバッグから携帯を取り出しながら、その場を離れた。何やら話しこんで、すぐに終わる気配がない。
徐々に、柿坂の演奏も止んでしまった。
これは、さすがに気まずかった。澄子は、いつものように少し声を張り上げた。
「あ、えっと、友達がすみません。お願いしておいて、マナー悪いですよね」
「いいえ、平気です」
そうは言っても、淡々と二胡を片付ける様子は、気分を悪くしたとしか思えない。澄子は慌てた。
「い、今の曲、本当に女の人が歌っているみたいですごく綺麗ですね。わたし、泣いちゃいそうになりました」
すると、柿坂は少し驚いたような目をした。
「……そりゃ、どうもです」
「あの、その、わたしも二胡にはまりそうです。一度やってみたいな、なんて思ったり」
柿坂は二胡のケースに目を落とした。
そして、紗枝の戻りを気にする風にしながら言った。
「アンタね、そういう態度が、誤解を与えるんですよ」
「え?」
「あの時も言いませんでしたかね。私、気にしちゃいませんから――先週の騒ぎのこと」
「……」
「かえって失礼ですよ。そんなに、男に気を遣わせたいんですか」
紗枝が小走りに戻ってきた。
柿坂は、紗枝に会釈をすると、そのまま立ち去ってしまった。
**
その日の晩、澄子は缶ビールをあおりながら、インターネットの動画サイトで二胡の演奏ばかり聴いていた。
「……あんな言い方しなくたってさ」
そんな文句と一緒に、ため息が出る。
自分だって同じだ。いや、もっと酷い。
二次会で初対面の相手に言い放った言葉。
「近寄るな、なんて確かに有り得ないよね」
いくら怖くても、実際に身体に触れられたわけでもないのに。
こうして失敗や悲しみがあるたびに、もう一生、男とは縁を持たないと決意してきた。
それなのに、今回は――。
澄子は柿坂の言葉を思い返した。
「そういう態度が誤解される……か」
親友の紗枝にも言われた気がする。
――『異様に高いテンションでノリが良いように思われるから、男が調子に乗るんだよ』。
二胡の音色が、寂しく小さな部屋に染み渡っていく。
「それって、つまり……柿坂さんが、その気になったってこと?」
そう思い至った瞬間、思わず笑いが込み上げた。
「まさか、ないない。だったら、あんなに怖い顔しないはずでしょうよ。というか、完全に疎まれていたし」
でも、そうだとしたら?
こんなことを考えるのは、何年ぶりだろうか。
その時、動画サイトの演者が、鳥のさえずりを響かせた。
「あ、この曲……」
――柿坂さんが、二次会で弾いた曲だ。
もし、本当にこの気持ちが恋心だとしたら?
相手に伝えて、両想いになれたら、その先は――。
次の瞬間、猛烈な息苦しさが襲いかかった。
「……駄目だ。身体で触れ合うなんて、絶対に無理」
イヤだよ。
怖いよ。
でも、嫌われたくないよ。
「『近寄らないでください』、か」
酷い言葉。
自分は、さんざん言ってきたくせに。
澄子はキッチンに向かいながら缶ビールの残りを飲み干すと、ふと立ち止まった。
――『すぐそばに立たれると、弓を振った時にぶつかってしまうんですよ』。
「わたし、それほどまでに、男の人に近寄ったっていうこと……?」
澄子は、パソコンに駆け寄り、二胡演者の動画をじっと見つめた。
残りわずかな日曜日の時間を、誰もが名残惜しそうに味わっているように思えた。
澄子は、三杯目の紅茶を飲んでいる紗枝に、今回の目的の品を手渡した。
「はい、これ二次会のアルバム。わたしの手作りだからね」
「あ、可愛い!ありがとう」
結婚式の二次会は、きちんと写真に残ることがないと他の友人たちから聞いた。澄子はそれならと、シャンパンを飲みつつカメラ片手に、参加者たちや二次会会場の飾りつけを次々と写真に収めた。
そして、一通り撮り終えて席に着いた時、あの事件は起きたわけだが――。
「本当は挙式から来て欲しかったなあ」
紗枝がアルバムをめくりながら言った。にわかに申し訳ない気持ちになる。
「うん……わたしも紗枝の白無垢が見たかった」
「ま、仕方ないよね。職場の人が優先だもんね」
結婚式が重なったのは初めてだ。事情を汲んでくれる友人で本当に良かったと、澄子は思った。
ふと見れば、紗枝が意地悪そうな顔で笑っている。
「ここで、他の友達なら、スミに『どうなのよ?良い人いないの?』の尋問開始だよね」
「……だね。放って置いて欲しいわ」
「あんなの、社交辞令みたいなものなんだから。適当に流せば良いじゃない」
「普通なら流せるかもしれないけど、わたしは考えただけで息苦しいんだよ」
紗枝が椅子にもたれかかって、ため息をついた。
「やっぱりダメなの?もう、アラフォーなのに」
澄子はテーブルに突っ伏した。
「ダメだねえ。この前、再認識した。久しぶりに同世代の男と絡んだ」
「あれは、絡まれたんでしょ?」
「そうだけど……でもさ、少し前に比べたら、成長した方だと思うの」
身体の接触さえなければ、同世代の男とも会話はできるようになったのだ。あと、もう少しのような気がしている。
そう言ってやると、紗枝は眉を八の字にした。
「あのねぇ……全然だよ。二次会の時も遠巻きに見ていたけどさ、男の前だと、澄子ってば緊張するせいか異様にテンション高い人みたいになるんだよ。それでノリが良いように思われるから、男が調子に乗るんだって」
心当たりがあり過ぎる。澄子は暗澹たる気持ちになった。
「……わかってる。でも男相手に自然体で普通に話すことなんてできない。黙るか、気合入れてテンション上げていくか」
四十歳手前で、まるで女子中学生のようなことを言っている自分が情けない。しかし、事実なのだから仕方ない。楽しく笑い話をしていても、ふいに男が接近をしてきた瞬間に、気持ちが一気に萎えて、突き放してしまうのだ。
紗枝がため息を吐いた。
「だから、疲れて気分悪くするんでしょうよ。無理しちゃってさ」
――無理しないほうがいい。
澄子の脳裏に、鋭い眼差しの男の顔が浮かんだ。
「そういや、あの人にも言われた。あれは、わたしが酔ってたからだろうけど」
「誰よ」
「えっと、あの二胡の人」
「ああ、柿坂さんか。あの時、ちゃんと話せたの?」
「う、ん。まあ」
澄子の胸元に、何かが染み込むような、不思議な感覚があった。
あれ以来、時々思い出しては、動画サイトで二胡の演奏を聴いているのは秘密だ。
「柿坂さん……って、どんな人?」
「旦那の同級生だよ。披露宴で二胡を弾いてくれたんだけど、すごかったよ」
まず何よりも、柿坂が澄子と一つしか年齢が違わないことに驚いた。
――三十九歳か……わたし、何歳くらいに思われたかな。
紗枝が柿坂の話を続ける。
「けど、何か取っつきにくいんだよね。まあ、そこそこ背丈もあって、雰囲気だけならイケメンだけど、あの目が鋭すぎて、緊張するんだよね」
「わかる、わかる。わたしも緊張した」
「あなたは、誰でももれなく、でしょうよ」
笑いながら紗枝が腕時計に目をやった。
「あの人、この時間ならポプラ公園で二胡の練習しているよ。行ってきたら?」
言葉の意味を理解するのに、数秒要した。
「は、何で?」
「だって、柿坂さんが気になっているんじゃないの?」
「どこから……そんな展開に」
「スミが男の話に興味を示すなんて、今まであった?」
また、胸元に何かが染み込む。
紗枝からもたらされた柿坂の情報が、さっきから頭の中で渦巻いていた。
気になっている、これを否定する材料はない。
「別に、そんなんじゃないよ」
だから、強がるしかなかった。
紗枝が少しだけつまらなそうな顔をする。
「ま、仮にそんなんだとしても無理か。始まったら、終わっちゃうからね。あなたの場合は」
始まったら、終わる。
「そう。最初から期待しない」
だって、怖いし。
もう、良いのよ、わたしは。
――。
紗枝が伝票を手にして立ち上がった。
「じゃ、私は行くね。これから、柿坂さんに披露宴で演奏してくれたお礼と、撮影したDVD渡したいから」
「はっ?」
澄子の裏返った声に、吹き出して紗枝が笑った。
「ふふ、顔に出過ぎなんだよ。良いじゃん、遠くから見てキャーキャー言えるようになっただけでも、スミにとっては進歩だよ。それに、ちょっとタイプなんでしょう?」
そこは、否定したくない。
いつだって、自分には正直でいたい。
だから。
「……だから、辛いんだってば」
**
紗枝と共にやってきた夕暮れ時の公園は、人がまばらだった。ランニング中の女性が、白い息を吐きながら、澄子の横を走り抜けて行った。
その先、ポプラ並木のあたりから、細い音が聞こえた。
風にかき消されそうになりながら、しだいにメロディとなって澄子の耳に届く。
――何だか女の人が泣いているみたい。
「あ、いたいた」
ベンチには、細くて黒い影があった。緩やかに動く右手の動きは、二胡の弓使いだ。
澄子たちに気づいたのか、メロディがピタリと止んだ。紗枝もそれに合わせて小走りになる。
「こんばんは。すみません、お待たせしました」
「いいえ。こちらこそ、わざわざすみません」
柿坂が会釈をしつつ、その視界に澄子をとらえたのがわかった。
鋭い眼差しだったが、さすがに心の準備をしていただけ、前ほどの恐怖はなかった。
すると、柿坂が、澄子にも小さく頭を垂れたので、慌ててそれに合わせた。
紗枝がバッグから包みを取り出し、柿坂に手渡した。
「先日はお忙しい中、ありがとうございました。これ、披露宴のDVDです」
「どうも、ありがとうございます」
「私が好きな映画の主題歌を弾いてくれるなんて感動でした。ね、綺麗だったよね」
紗枝の言葉に、澄子は肩をすくめる。
「いや、わたし……二次会からしか出てないから……」
「あ、そうだった。職場の人と重なっちゃったんだっけ」
どうやら、紗枝も柿坂の前で緊張しているようだ。さっきからほとんど言葉を発さない柿坂に、二人は完全に飲まれていた。
紗枝が、澄子の肩に手を触れながら言った。
「この子、私の高校時代の友達です。結婚式、職場の人とかぶっちゃって、二次会しか参加できなかったんです。公務員だから、お呼ばれ多いみたいで」
まさか、ここへ来て紹介されるとは思わなかった。
余計なことを言うなと紗枝をたしなめようとすると、柿坂が笑いもせず、
「わかります。大変ですよね」
そう言った。
「え?」
「私も役人業をやっているんで」
――同じ、公務員なんだ。
またしても、胸元に滴がおちるような感覚があった。
「あ、そうだ聴かせてもらいなよ。すごく綺麗だよ」
紗枝がまくし立てる。一体、何を期待しているのか、澄子は戸惑った。
「いや、悪いよ。急に来てさ、そんな」
すると、小さく息を吐き、柿坂が二胡の弓を手に取った。
「良いですよ」
一瞬、柿坂の表情が緩んだような気がした。
弓を何度か滑らせ、音を出す。左手を反転させ、竿の先にある小さな金具を指先で転がした。
その姿は、誰かを抱き寄せているようにも見えて――。
――綺麗な手。
澄子が少しだけ身を乗り出した時だった。
柿坂の右腕が動きを止めた。
「近寄らないで下さいね」
呼吸が止まる。
「……いつもの逆だわね」
紗枝が小声で笑った。
「……やめてよ」
澄子はどうにか反論したが、とてもじゃないけど柿坂を見ることが出来ない。
「すぐそばに立たれると、弓を振った時にぶつかってしまうんですよ」
柿坂の言葉とともに、伸びやかな二胡の音色が響いた。
――何だ、そういうことか。
安堵した澄子の胸に、切ない音が迫ってきた。
何かに焦がれるような、独特の音色。
心が洗われるよう、とはこのことかもしれない。
自然と視界が滲んできた。
その時。
「あ、ごめんなさい!電話だ」
紗枝がバッグから携帯を取り出しながら、その場を離れた。何やら話しこんで、すぐに終わる気配がない。
徐々に、柿坂の演奏も止んでしまった。
これは、さすがに気まずかった。澄子は、いつものように少し声を張り上げた。
「あ、えっと、友達がすみません。お願いしておいて、マナー悪いですよね」
「いいえ、平気です」
そうは言っても、淡々と二胡を片付ける様子は、気分を悪くしたとしか思えない。澄子は慌てた。
「い、今の曲、本当に女の人が歌っているみたいですごく綺麗ですね。わたし、泣いちゃいそうになりました」
すると、柿坂は少し驚いたような目をした。
「……そりゃ、どうもです」
「あの、その、わたしも二胡にはまりそうです。一度やってみたいな、なんて思ったり」
柿坂は二胡のケースに目を落とした。
そして、紗枝の戻りを気にする風にしながら言った。
「アンタね、そういう態度が、誤解を与えるんですよ」
「え?」
「あの時も言いませんでしたかね。私、気にしちゃいませんから――先週の騒ぎのこと」
「……」
「かえって失礼ですよ。そんなに、男に気を遣わせたいんですか」
紗枝が小走りに戻ってきた。
柿坂は、紗枝に会釈をすると、そのまま立ち去ってしまった。
**
その日の晩、澄子は缶ビールをあおりながら、インターネットの動画サイトで二胡の演奏ばかり聴いていた。
「……あんな言い方しなくたってさ」
そんな文句と一緒に、ため息が出る。
自分だって同じだ。いや、もっと酷い。
二次会で初対面の相手に言い放った言葉。
「近寄るな、なんて確かに有り得ないよね」
いくら怖くても、実際に身体に触れられたわけでもないのに。
こうして失敗や悲しみがあるたびに、もう一生、男とは縁を持たないと決意してきた。
それなのに、今回は――。
澄子は柿坂の言葉を思い返した。
「そういう態度が誤解される……か」
親友の紗枝にも言われた気がする。
――『異様に高いテンションでノリが良いように思われるから、男が調子に乗るんだよ』。
二胡の音色が、寂しく小さな部屋に染み渡っていく。
「それって、つまり……柿坂さんが、その気になったってこと?」
そう思い至った瞬間、思わず笑いが込み上げた。
「まさか、ないない。だったら、あんなに怖い顔しないはずでしょうよ。というか、完全に疎まれていたし」
でも、そうだとしたら?
こんなことを考えるのは、何年ぶりだろうか。
その時、動画サイトの演者が、鳥のさえずりを響かせた。
「あ、この曲……」
――柿坂さんが、二次会で弾いた曲だ。
もし、本当にこの気持ちが恋心だとしたら?
相手に伝えて、両想いになれたら、その先は――。
次の瞬間、猛烈な息苦しさが襲いかかった。
「……駄目だ。身体で触れ合うなんて、絶対に無理」
イヤだよ。
怖いよ。
でも、嫌われたくないよ。
「『近寄らないでください』、か」
酷い言葉。
自分は、さんざん言ってきたくせに。
澄子はキッチンに向かいながら缶ビールの残りを飲み干すと、ふと立ち止まった。
――『すぐそばに立たれると、弓を振った時にぶつかってしまうんですよ』。
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