かれこひわづらひ

ヒロヤ

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第一部 第二章 花滞雨の巻

二〇一六年三月二十七日 2016/03/27(日)昼間

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 桜の開花が報じられたにも関わらず、冷え込みが真冬並みの朝。

 澄子は、姿見の前で一時間以上も服選びに悩んでいた。

 真冬の寒さでも、この季節に分厚いコートはおかしい。そうかといって、薄手の服を着ていく勇気もない。何しろ、コンサートは屋外なのだ。

「あ、これで良いかな」

 薄手のニットと、去年買ったスプリングコート。

「合わせる靴がないなぁ……。白……せめてベージュ……」

 結局、いつもどおりのモノトーンの服装に決まった。冬のコートもグレーなら重たくなり過ぎないはずだ。

 ――どうして、こんなに大変なんだろう。

 自分がオシャレだとは思っていない。だからこそ、自信がない。
 愛しい人がどういう感想を持つか、それがとてつもなく怖かった。

「わたしは……ただ、嫌われたくないだけなのにな」

 こんな風に、誰もが悩んだりしているのだろうか。

 澄子はリビングに戻ると、付けっぱなしにしていたテレビにリモコンを向けた。その時、情報番組のテロップに思わず目が留まる。

 ――晩婚化の波、恋をしない若者たち――。

 自分たちの趣味に夢中で、恋愛に価値を見いだせない近頃の若者を特集していた。

『今は良くても、この先……結婚や出産を意識した時に手遅れにならなきゃ良いですねえ』

 コメンテーターの五十代くらいの女教授が鼻息荒く喋っている。

『恋愛は若い時にたくさん経験して、失敗を繰り返してこそ、相手を見る目を養えるんです。運命の人、見つけて欲しいですね。この国の将来に関わりますから』

 内容そのものより、そのベタベタするような話し方が気に入らなかった。澄子はテレビの電源をオフにすると、リモコンをソファの上に放った。

 ――経験がないから悩むのは、その通りなんだけどさ。

 結婚した友人の紗枝や、駅前で歌う優花が悩んでいるようには思えなかった。きっと、相手の気持ちを汲み取ったり、心の内を読んだりするのが長けているのだろう。それは、きっと昔からの経験値のおかげだ。

 失敗を重ねて、人は学ぶ――女教授の言い分は正しい。
 つまりは、恋愛は数多くこなして、失敗した数だけ、自分が恋愛上手になるということだ。

 失敗なくして成長なし。

「……柿坂さんとは、失敗しなきゃいけないのか」

 また、混乱してくる。


 晴れ上がった春空の下、澄子は気怠い足で家を出た。


 柿坂のコンサートは、開港記念祭という海の近くのイベントで行なわれる。冷たい海風の中ではあるが、少しずつ咲き始めた桜の下、ライトアップもされるらしく、たいそう幻想的なステージになると思われた。

 ――見てみたかったな。

 それでも、澄子は若い二人との約束を優先した。
 聴きに行くと言ったのは自分だから。
 この選択は間違っていないはずだ。

 イベント会場には、たくさんの出店やステージがあり、晴れた三月の日曜日の人出は予想を遥かに上回っていた。柿坂が演奏するであろうステージには、子ども向けのショーが披露されている。

 澄子は柿坂から届いたメールで、居場所を確認した。

 ――噴水広場、か。

 緩やかな傾斜の大階段を上っていくと、澄んだ青空と海が見えた。冷たい風が澄子の薄手のストールを揺らす。

 多くの人波、柿坂を見つけられるか心配になったが、それもすぐに解消された。

 一か所、ベンチが並ぶあたりに、人だかりができていた。

 海風に乗って、涼やかな二胡の音色が響き渡る。

 人垣の隙間からのぞくと、そこには果たして柿坂の姿があった。

 じんわりと、胸の奥が熱くなる。
 このまま見つめるのが申し訳ないような、不思議な心地。

 黒のハーフコートにライトグレーのスラックス。
 柿坂は細身だが、その長身のおかげで男らしく見える。

 ――やっぱり、素敵。

 どんどん増えていく見物客、当然に柿坂は澄子に気づくはずもなく、白いベンチで緩やかに右腕を動かしていた。

 ――これは『流波曲』だっけ。

 柿坂と会ってから、澄子は普段でも二胡の曲を聴くのが日課となり、ようやく曲名を覚えてきたところだ。
 このゆったりとした曲は、澄子のお気に入りでもある。いつだったか、この癒しのメロディーを聴きながら、つい昼寝をしてしまったこともあった。

 ――柿坂さん、わたしの好きな曲を知っていたのかな。

 一瞬、そんな考えがよぎったが、そもそもお気に入り曲など教えた記憶はない。
 おそらく、海の近くだからこの曲を選んだだけだ。

 それでも、何か通じ合えているみたいで、澄子は胸が温かくなった。

 少しこけた頬も、鋭い眼差しも、最後に会った時と変わらない。

 たとえ、その視界に自分がとらえられていなくても――。

  一ヶ月ぶりに、澄子は愛しい人と再会した。

 一曲終われば、人が離れるかと思いきや、一向に人垣が崩れることはなかった。二胡の音色は聴いたことがあっても、実際に生で見る機会がないためだろう。
 しばらくすると、柿坂のバンド仲間のギター奏者が合流した。人がさらに増える。澄子は前へ進もうにも進むことが出来ず、右往左往、横へ動いているだけだ。

 ――これが、今のわたしたちの距離。

 澄子は、人垣の間からひたすら柿坂を見つめた。

 あの時は、もっとそばに近づけたはずだ。
 片腕分だけでも、もっと近くに。

 今は、どうだ。

 ――わたしは、何を、しているんだろう。

 落ち込む澄子をよそに、曲調がポップなものに変わった。どこかで聞いたことがあるメロディーに、見物客の一部からも歓声が上がった。

 駅前で優花が歌っていた、あの情感溢れるバラードだ。
 予想外の選曲に、澄子は思わず声を上げそうになる。

 柿坂が少し笑みを浮かべた。ギター奏者とアイコンタクトをとり、主旋律を交互に弾き始めるとさらに歓声が起こった。

 ――楽しそう、柿坂さん。

 放り出されたようなこの感覚。
 相変わらず手が届かない距離。

 何もかも振り出しに戻った気分だった。

 曲が終わり、拍手喝采が起こる中、澄子はそっとその場を離れた。

「何だか……前も、こんなことがあった気がするな」

 久しぶりに柿坂の二胡が聴けて、嬉しいはずなのに、どこか寂しくもあった。その理由は相変わらずハッキリとしないが、ハッキリさせるのも怖い。

 澄子は、さっきと同じ大階段をトボトボと降りながらも、どうにかして頭を切り替えようと努めた。

 暗い顔のまま、祐樹と優花に会ったら、きっと心配される。

 ――気持ち、気持ち。前向き、前向き。

 澄子は無理やりに自分を言い聞かせ、階段を駆け下りると、緑に覆われた小道に足を向けた。


「待ちなさい、アンタ。どこ行くんです」


 ため息まじりの呼びかけ、澄子の身体が一瞬で硬直した。
 ゆっくり振り向くと、二胡ケースを背負った柿坂が、大階段の上から見下ろしていた。

「……か、柿坂さん」

「久しぶりですね。そっち、釣り船しか出てないですよ」

「へ?」

「広場を突っ切って県道に出た方が早いです。地下鉄の駅がありますから」

 ――。

 柿坂が細長い指で、駅の方角を指し示す。

「あ、ああ、ありがとうございますっ」

 澄子は慌てて頭を下げた。

 まさか、見つけてくれたの?

 ――。

 どうしよう。

 どうしよう。

「どうしたら……」

「どうしたらって……どこまで行くんですか。地下鉄じゃないんですか」

 柿坂が首をかしげて、鋭い視線でこちらを見ている。澄子は、相手を困らせていることにようやく気付いた。

「い、いえ、地下鉄で平気です!」

「それなら、こっちですよ」

「す、すみません」

 澄子は柿坂を見ることが出来ない。

 柿坂がこちらに背を向けて先を歩くと、ようやく心が落ち着いた。

 ――スミたちは、一体どういう関係?

 親友の紗枝の言葉が頭から離れない。

 この言葉、そのまま目の前の男にぶつけられたら、どんなに気が楽だろう。

 ――どういう関係ですか。
 ――付き合っているって、言えますか。
 ――わたしと、あなたは――。

 その途中、ギターケースを持った青年が柿坂に近づいてきた。

「あ、いたいた。柿さん!」

 ギターの青年は後ろにいた澄子に気づいたようだが、特に気にする風もなく、柿坂に声をかけた。

「時間が変更みたいですよ。すぐにリハですって」

「それは、また随分と急ですね」

「何でも、おれらの前にやるグループが楽器搬入でトラブルに遭ったみたいで、その入れ替わりだそうです」

 先に行ってますね、ギターを担いだ青年が足早に立ち去った。

 柿坂が小さく息を吐く。

「残念ですけど、時間がないみたいなので、ここで失礼しますね」

「えっ」

「……」

 柿坂が少しだけ目を細めた。

「さっきから、アンタ……どうしたんです。何か落ち着かないですね」

「……そ、そんなことないですよ」

 直視できない。
 片腕分より離れているのに、息が苦しい。
 顔が熱い。

「あ、あの、わたし、次の約束があるんです」

 どうにか、ここまで言えると柿坂が納得したようにうなずいた。

「そうでしたね。時間とらせて失礼しました」

「……」

 他人行儀の柿坂は一か月前と何も変わっていない。
 鋭い目で、静かに二胡を弾いていた時と一緒だ。

 ――わたしたちは、何も始まっていない。

 顔は熱いのに、身体が冷たくなっていく。

 ――まずい。

 涙で目元が決壊しそうになるのを、必死にこらえた。

「今日は、ありがとうございました!柿坂さんの二胡は……やっぱり素敵でした」


 澄子は下を向いたままそう言うと、柿坂に背を向けて広場を駆け出した。
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