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第一部 第二章 花滞雨の巻
二〇一六年三月二十七日 2016/03/27(日)夕方
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移動の電車内で、涙が何度も落ちそうになったのを、澄子はどうにか耐え切った。
柿坂に何かされたわけでも、言われたわけでもない。
そもそも、一カ月も会っていなかったのだから、急に進展するはずがない。むしろ、一か月前のままで当然なのだ。
頭ではわかっている。この得体のしれない恐怖や緊張は、自分の気持ち一つだ。
――前向きにならなきゃ。
澄子は最寄駅に到着すると、ジュースバーでアロエドリンクを飲み干し、気合を入れ直した。
あの若い二人にも力を分けてもらおう――。
駅前のコンコースは、夕暮れ時の人の往来で溢れていた。澄子は流れに逆らいながら、前と同じ場所で祐樹と優花の姿を探した。ところが、先週のような人だかりはどこにもなく、多くの人々が足早に目の前を通り過ぎていく。
約束の時間を間違えたかと思った時、ロータリーに下りていく階段の近くで、ギターケースを背負った少年の姿が目に入った。手すりによりかかって、スマートホンをいじっている。
「……祐樹くん?」
そっと声をかけたつもりだったが、祐樹は思った以上に慌てた様子でこちらを振り返った。
「あ……」
「せ、先週お会いした、和泉です……」
祐樹は澄子の顔を思い出したのか、折り目正しいおじぎをしてきた。
「い、和泉さんっていうんですね。すみません、せっかく来てもらったのに」
その言葉は、暗に路上ライブが中止になったことを意味しているのだろうか。澄子はあたりを見渡したが、やはり優花の姿が見当たらない。
祐樹も察したのか、ため息を吐いた。
「優花ですか。今日、来ないんですよ。ドタキャン」
「あ、そうなんですか……」
「はい。アイツ浮気中ですから」
「……」
予期せぬ答えに、澄子はしばらく思考が止まった。徐々に、胸の奥に鈍い痛みが広がっていく。
祐樹は手すりにもたれるようにしながら、澄子を見た。
「和泉さんに話したところで意味ないんスけど、何で女って……あんなにワガママなんでしょうね」
祐樹は笑っていたが、瞳の奥には暗い色があった。たった一度しか会っていない、見ず知らずの女に心中を打ち明けてしまうほどに、少年は追い詰められているように見えた。
下手に刺激したくないと思いつつ、澄子は聞かずにはいられなかった。
「……でも、先週はあんなに仲良くしていたじゃないですか」
「そうですね。あ、敬語じゃなくて良いですよ。何かスミマセン、お忙しいのにわざわざ来てもらって、こんな醜態さらして」
祐樹はどこか疲れたようではあったが、それでも澄子に気を遣った。
――こんなに若いのに、本当しっかりしている。
しかも、恋人と上手くいっていない状況にも関わらずだ。
昼間の、地に足が着かない自分とは大違いではないか。
「まあ……オレがいけないんですけどね。甘やかしたから」
「甘やかす?」
「最初はわがままを言ってもらうのが嬉しかったんですよ。甘えてくるのも可愛いし。男って単純だから、好きな子に頼られると、こう何でもしてやりたくなるっていうか」
そこで、祐樹はため息を吐いた。
「でも、オレとの約束より、合コンを優先しているとは思わなかった。そこ、他にも男がいるんですよ?てゆーか、オレがいるのに、合コンとか意味わからなくないですか?」
「他の男の子を優先……」
「そうですよ。もう完全に浮気じゃないですか。オレ、アイツに言ってやったんですよ。ちょっと、おかしくねえかって。そうしたら、みんなただの男友達とか言うんですよ。だったらオレの前に連れてこいって言い返したら、意味わかんないってキレられて」
その時、かすかにタバコの匂いがした。
澄子は、自分がいつの間にか祐樹の真横に立って、嫌いな匂いを感じ取れるまで近づいていることに気づいた。
――。
さすがに相手がまだ少年なら、男性恐怖症もそうそうに起きないはずが、ふいに男として意識した瞬間、澄子の呼吸がわずかに乱れた。
タバコの匂いも気分が悪い。タバコを吸う祐樹にも、少しショックだった。
そっと、階段の方へ移動して、バッグを相手の方へと持ち替えた。祐樹は、澄子の不可解な行動に気づくこともなく、ため息ばかり繰り返していた。
「和泉さんは、大人の女性だからオレの気持ちわかってくれますよね。オレ、間違ってますか?」
「え、あ、間違ってはいないと思うけど……」
「別に、アイツと別れたいわけじゃないんですよ。ただ、どうしたらまともな関係になれるかって……」
祐樹は強い眼差しで澄子を見た。しかし、すぐに吹き出して笑った。
「……なんて、こんなガキの悩みなんて、どうだって良いですよね。すみません」
「ど、どうだって良くなんかないよ!」
悩み、という言葉につい反応して、語調が強くなってしまった。理由は違えど、悩んでいるのは自分も一緒だ。
祐樹は呆気にとられ、口をポカンと開けていたが、次第に神妙な顔つきに変わった。
「和泉さんみたいに、親身になってくれる人もいるんですよね。アイツなんか、オレの話をまるで聞こうとしなくて……」
祐樹は、ギターのケースを下ろして手すりに寄り掛かった。
「和泉さんは、彼氏さん……いるんスか」
「え」
その瞬間、澄子は自分で墓穴を掘ったと後悔した。
当然、そういう問いかけがなされることは、予想すべきだった。
祐樹の『確認』は止まらない。
「あ、ご結婚されてるんですかね」
「う、ううん。それはないけど」
「あ、そうなんだ。すみません」
――そんな、謝られても。
沈黙が二人の間に満ちていく。
澄子はどうやってこの状況を切り抜けるか考える傍らで、やはり一つのことが頭の中を巡った。
――わたしは、何をしているんだ。
路上ライブがないなら、今からでも柿坂の夜コンサートに間に合うかもしれない。しかし、ここで祐樹を置いていくのはなぜか気が引けた。
でも――。
「これだと、わたしも浮気になっちゃうのかな」
「へ?」
「あ、ああ、えっと、その」
祐樹が澄子の方へ向き直った。
「やっぱり、彼氏いるんじゃないですか。大人の女性なんだから、若者にアドバイスくらいお願いしますよ。オレに恋愛テクを伝授してください」
「れ、れ、恋愛テク……?」
言葉たちの重圧に、澄子は押し潰されそうになった。
しかし、年齢差からしても、ここは澄子が祐樹に対して然るべき助言をするところなのだろう。それなのに、何一つ、かける言葉が見つからない。
恋愛。
彼氏。
恋人。
結婚。
今まで自分は、何一つモノにしたことがないのだから当然だ。
知ったかぶりの言葉など、この少年に届くわけがない。
「……わたし、あまり経験ないからわからないよ。そういうトラブルは……本当に」
この言い方は優しくない、自分でもそう思った。
しかし、祐樹は違った意味で解釈した。
「相手と揉めたことないんスか?いいな。彼氏に大事にされているってことですよね。相手の人、やっぱり気持ち伝えてくれるんでしょう?」
――気持ち。
「えっと……それは……」
「愛してるって、言われないんですか」
急に胸が苦しくなる。
また、この感覚。
澄子は祐樹に悟られないよう、どうにか呼吸を整えると、押し殺した声で言った。
「……言われたこと、ない」
「え?ちゃんと、付き合ってるんですよね?」
これは、友人にも確認された。やはり、その儀式は必要なのか。
祐樹はギターを背負うと、スマートホンを取り出しながら納得するようにうなずいた。
「まあ、大人の場合は、他にも色々事情があるってことですかね」
――事情って。
「オレだったら……好きな人には気持ちぶつけるけどな。だから、優花にもストレートに接しているわけで」
ふいに、祐樹は首を傾げた。
「いや、だから失敗したのか。難しいなぁ、女は」
その『失敗』という言葉に、澄子は捉われた。
恋愛は失敗を重ねてこそ――。
不安を振り払うように、澄子は少年に向き直った。
「それで、祐樹くんは優花ちゃんを……まだ、その……大事に想っているんだね?」
肯定の答えが返ってくるかと思いきや、祐樹は真顔で首を横に振った。
「わからない」
「……わからない……?」
「少なくとも、アイツの方から謝るとか、オレのことを好きだって言ってくるとか……そうしないと無理ッス」
「……」
「オレばかり気持ち伝えるのは、フェアじゃないでしょ?」
祐樹は確認するような眼差しを澄子に向けると、頭を下げた。
「じゃ、そろそろ行きます。話、付き合わせちゃってすみませんでした」
「え、あぁ……こっちこそ、その」
澄子が言いよどんでいると、祐樹は吹き出して笑った。
「年下相手にオロオロし過ぎッスよ。そんな気を遣うことないんですから」
「う、うん……」
「彼氏さんと上手く行くように祈ってますよ。何なら、オレが男サイドのご意見番になりましょうか?なんて、嘘です」
――。
祐樹は冗談のつもりだったかもしれないが、澄子はまったく笑えなかった。
二十近くも若い少年に、意見される自分は――。
それでも澄子はどうにか気を取り直して、祐樹に手を振った。少年はもう一度会釈をすると、今日は手を繋ぐ相手もなく、どこかうつむいたまま改札へと消えて行った。
柿坂に何かされたわけでも、言われたわけでもない。
そもそも、一カ月も会っていなかったのだから、急に進展するはずがない。むしろ、一か月前のままで当然なのだ。
頭ではわかっている。この得体のしれない恐怖や緊張は、自分の気持ち一つだ。
――前向きにならなきゃ。
澄子は最寄駅に到着すると、ジュースバーでアロエドリンクを飲み干し、気合を入れ直した。
あの若い二人にも力を分けてもらおう――。
駅前のコンコースは、夕暮れ時の人の往来で溢れていた。澄子は流れに逆らいながら、前と同じ場所で祐樹と優花の姿を探した。ところが、先週のような人だかりはどこにもなく、多くの人々が足早に目の前を通り過ぎていく。
約束の時間を間違えたかと思った時、ロータリーに下りていく階段の近くで、ギターケースを背負った少年の姿が目に入った。手すりによりかかって、スマートホンをいじっている。
「……祐樹くん?」
そっと声をかけたつもりだったが、祐樹は思った以上に慌てた様子でこちらを振り返った。
「あ……」
「せ、先週お会いした、和泉です……」
祐樹は澄子の顔を思い出したのか、折り目正しいおじぎをしてきた。
「い、和泉さんっていうんですね。すみません、せっかく来てもらったのに」
その言葉は、暗に路上ライブが中止になったことを意味しているのだろうか。澄子はあたりを見渡したが、やはり優花の姿が見当たらない。
祐樹も察したのか、ため息を吐いた。
「優花ですか。今日、来ないんですよ。ドタキャン」
「あ、そうなんですか……」
「はい。アイツ浮気中ですから」
「……」
予期せぬ答えに、澄子はしばらく思考が止まった。徐々に、胸の奥に鈍い痛みが広がっていく。
祐樹は手すりにもたれるようにしながら、澄子を見た。
「和泉さんに話したところで意味ないんスけど、何で女って……あんなにワガママなんでしょうね」
祐樹は笑っていたが、瞳の奥には暗い色があった。たった一度しか会っていない、見ず知らずの女に心中を打ち明けてしまうほどに、少年は追い詰められているように見えた。
下手に刺激したくないと思いつつ、澄子は聞かずにはいられなかった。
「……でも、先週はあんなに仲良くしていたじゃないですか」
「そうですね。あ、敬語じゃなくて良いですよ。何かスミマセン、お忙しいのにわざわざ来てもらって、こんな醜態さらして」
祐樹はどこか疲れたようではあったが、それでも澄子に気を遣った。
――こんなに若いのに、本当しっかりしている。
しかも、恋人と上手くいっていない状況にも関わらずだ。
昼間の、地に足が着かない自分とは大違いではないか。
「まあ……オレがいけないんですけどね。甘やかしたから」
「甘やかす?」
「最初はわがままを言ってもらうのが嬉しかったんですよ。甘えてくるのも可愛いし。男って単純だから、好きな子に頼られると、こう何でもしてやりたくなるっていうか」
そこで、祐樹はため息を吐いた。
「でも、オレとの約束より、合コンを優先しているとは思わなかった。そこ、他にも男がいるんですよ?てゆーか、オレがいるのに、合コンとか意味わからなくないですか?」
「他の男の子を優先……」
「そうですよ。もう完全に浮気じゃないですか。オレ、アイツに言ってやったんですよ。ちょっと、おかしくねえかって。そうしたら、みんなただの男友達とか言うんですよ。だったらオレの前に連れてこいって言い返したら、意味わかんないってキレられて」
その時、かすかにタバコの匂いがした。
澄子は、自分がいつの間にか祐樹の真横に立って、嫌いな匂いを感じ取れるまで近づいていることに気づいた。
――。
さすがに相手がまだ少年なら、男性恐怖症もそうそうに起きないはずが、ふいに男として意識した瞬間、澄子の呼吸がわずかに乱れた。
タバコの匂いも気分が悪い。タバコを吸う祐樹にも、少しショックだった。
そっと、階段の方へ移動して、バッグを相手の方へと持ち替えた。祐樹は、澄子の不可解な行動に気づくこともなく、ため息ばかり繰り返していた。
「和泉さんは、大人の女性だからオレの気持ちわかってくれますよね。オレ、間違ってますか?」
「え、あ、間違ってはいないと思うけど……」
「別に、アイツと別れたいわけじゃないんですよ。ただ、どうしたらまともな関係になれるかって……」
祐樹は強い眼差しで澄子を見た。しかし、すぐに吹き出して笑った。
「……なんて、こんなガキの悩みなんて、どうだって良いですよね。すみません」
「ど、どうだって良くなんかないよ!」
悩み、という言葉につい反応して、語調が強くなってしまった。理由は違えど、悩んでいるのは自分も一緒だ。
祐樹は呆気にとられ、口をポカンと開けていたが、次第に神妙な顔つきに変わった。
「和泉さんみたいに、親身になってくれる人もいるんですよね。アイツなんか、オレの話をまるで聞こうとしなくて……」
祐樹は、ギターのケースを下ろして手すりに寄り掛かった。
「和泉さんは、彼氏さん……いるんスか」
「え」
その瞬間、澄子は自分で墓穴を掘ったと後悔した。
当然、そういう問いかけがなされることは、予想すべきだった。
祐樹の『確認』は止まらない。
「あ、ご結婚されてるんですかね」
「う、ううん。それはないけど」
「あ、そうなんだ。すみません」
――そんな、謝られても。
沈黙が二人の間に満ちていく。
澄子はどうやってこの状況を切り抜けるか考える傍らで、やはり一つのことが頭の中を巡った。
――わたしは、何をしているんだ。
路上ライブがないなら、今からでも柿坂の夜コンサートに間に合うかもしれない。しかし、ここで祐樹を置いていくのはなぜか気が引けた。
でも――。
「これだと、わたしも浮気になっちゃうのかな」
「へ?」
「あ、ああ、えっと、その」
祐樹が澄子の方へ向き直った。
「やっぱり、彼氏いるんじゃないですか。大人の女性なんだから、若者にアドバイスくらいお願いしますよ。オレに恋愛テクを伝授してください」
「れ、れ、恋愛テク……?」
言葉たちの重圧に、澄子は押し潰されそうになった。
しかし、年齢差からしても、ここは澄子が祐樹に対して然るべき助言をするところなのだろう。それなのに、何一つ、かける言葉が見つからない。
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恋人。
結婚。
今まで自分は、何一つモノにしたことがないのだから当然だ。
知ったかぶりの言葉など、この少年に届くわけがない。
「……わたし、あまり経験ないからわからないよ。そういうトラブルは……本当に」
この言い方は優しくない、自分でもそう思った。
しかし、祐樹は違った意味で解釈した。
「相手と揉めたことないんスか?いいな。彼氏に大事にされているってことですよね。相手の人、やっぱり気持ち伝えてくれるんでしょう?」
――気持ち。
「えっと……それは……」
「愛してるって、言われないんですか」
急に胸が苦しくなる。
また、この感覚。
澄子は祐樹に悟られないよう、どうにか呼吸を整えると、押し殺した声で言った。
「……言われたこと、ない」
「え?ちゃんと、付き合ってるんですよね?」
これは、友人にも確認された。やはり、その儀式は必要なのか。
祐樹はギターを背負うと、スマートホンを取り出しながら納得するようにうなずいた。
「まあ、大人の場合は、他にも色々事情があるってことですかね」
――事情って。
「オレだったら……好きな人には気持ちぶつけるけどな。だから、優花にもストレートに接しているわけで」
ふいに、祐樹は首を傾げた。
「いや、だから失敗したのか。難しいなぁ、女は」
その『失敗』という言葉に、澄子は捉われた。
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「それで、祐樹くんは優花ちゃんを……まだ、その……大事に想っているんだね?」
肯定の答えが返ってくるかと思いきや、祐樹は真顔で首を横に振った。
「わからない」
「……わからない……?」
「少なくとも、アイツの方から謝るとか、オレのことを好きだって言ってくるとか……そうしないと無理ッス」
「……」
「オレばかり気持ち伝えるのは、フェアじゃないでしょ?」
祐樹は確認するような眼差しを澄子に向けると、頭を下げた。
「じゃ、そろそろ行きます。話、付き合わせちゃってすみませんでした」
「え、あぁ……こっちこそ、その」
澄子が言いよどんでいると、祐樹は吹き出して笑った。
「年下相手にオロオロし過ぎッスよ。そんな気を遣うことないんですから」
「う、うん……」
「彼氏さんと上手く行くように祈ってますよ。何なら、オレが男サイドのご意見番になりましょうか?なんて、嘘です」
――。
祐樹は冗談のつもりだったかもしれないが、澄子はまったく笑えなかった。
二十近くも若い少年に、意見される自分は――。
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