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第一部 第二章 花滞雨の巻
二〇一六年四月三日 2016/04/03(日)昼間
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祐樹と優花のトラブルは、思いのほか澄子にダメージを与えた。若者相手に何もアドバイスができない自分が情けなく、また悔しくもあった。
――何の経験もない、わたしが悪いんだけどさ。
最後、祐樹が呆れたようにため息を吐いた顔が忘れられない。こんなことになるくらいなら、最初から柿坂の夜コンサートに行けば良かったと思ったが、今さら悔やんでも仕方がない。
――。
先週から、柿坂との連絡も途絶えている。港のイベント会場で、中途半端に別れてから気まずさだけが募っていくようで、澄子は焦り始めていた。
そんな土曜日の夜、澄子が柿坂に連絡を取るか決めかねていると、友人の紗枝から連絡が入り、新居に遊びに来ないかと誘われた。
せっかくの休日、新婚夫婦の時間を邪魔するのは気が引ける。
そう伝えると、紗枝が小さく笑って答えた。
「旦那は、接待ゴルフなんだよ。相手には結婚式に出てもらった関係もあって、断りきれなくてさ。ここ最近、日曜は出かけているの」
その声が少し寂しげに思えたのは気のせいだろうか。いつも明るい友人なだけに、澄子は心配になった。いつも相談に乗ってもらっている礼も兼ねて、今回は自分が紗枝の聞き役になることを決めた。
友人夫婦の新居は、都内の湾岸エリアにある高層マンションだった。
その高さに、思わず澄子は緊張した。
――二十七階。
エレベータで部屋を目指しながら、澄子は自分と紗枝の立ち位置を再確認した。
紗枝の夫も、また紗枝自身も働いており、それなりの稼ぎがあるということがこれだけでわかる。この住まいが特別に羨ましいわけではないが、乱立するマンション群は、何とも言えない焦燥感を駆り立ててくる。
ドアのインターホンを鳴らすと、エプロンをつけた紗枝が顔を出した。
「いらっしゃい!上がって上がって」
散らかっているけれど、そう言いながら、友人は綺麗に片付いた室内に澄子を招き入れた。一生懸命に家事をこなしている友人を、澄子は愛らしく思った。
キッチンから、良い匂いがしてくる。
「紗枝、何かお料理でもしていたの?」
すると、友人は少し得意げな顔でキッチンを指差した。
「そう!お花見弁当」
「お花見弁当?」
「今日、旦那もいないから、スミと一緒にお花見デートでもしたいなって考えてたんだ」
「えっ?」
ダイニングのテーブルには、可愛らしい茶巾寿司が並んでいる。
「紗枝……言ってくれれば、わたしも何か材料とか買ってきたのに」
「大丈夫よ。スミはお客さんなんだから、ゆっくりして」
紗枝は澄子に紅茶を入れたり、青菜を水切りしたり、火を止めたりと何かと慌ただしい。夫がいない休日くらい、ゆっくり過ごせばいいのに、そんなことを澄子は考えた。
――わたしは、絶対に一人の時間が欲しくなるんだろうな。
好きな本を読んだり、美術館に行ったり、舞台を見たり。どれも、一人で楽しむのが一番良い。
そこで、一瞬だけ柿坂の顔が浮かぶ。
――二人だったら、もっと楽しかったりするのかな。
「ねえ、スミ。柿坂さんとはどうなのよ」
カウンターの向こうから、紗枝がニヤニヤ笑っている。
「何なら、お花見に呼んじゃう?」
「は?何言ってるのよっ」
「冗談だってば。スミは柿坂さんのことになると、本当にテンション跳ね上がるよね」
羨ましいわ、かすかにそう聞こえた。
それには、澄子も少し心がざわついた。
「どこが……もう、本当にどうしたら良いかわからないんだよ」
「まだ、そんなこと言ってるの?」
「この前、少し会ったけど……ほとんど話すことなく別れちゃったし、何か最初の頃より話しづらくなったというか、反応が怖いというか」
「そこまで思いつめてたわけ?」
紗枝が呆れたようにため息を吐いた。
「ねえ、スミが楽しく幸せでいられないなら、それは恋じゃないよ」
「……え?」
「確かアレだっけ?『幸せになりませんか』って言われたんだよね」
「うん」
「それなのに気持ちが上向かないのは、スミがそれほど乗り気じゃないってことよ」
「……」
紗枝が自分の分の紅茶を淹れ、ダイニングの澄子の隣に座った。
「だいたい、柿坂さんからの連絡はあるの?」
「さっき話したけど、先週会ったのは、柿坂さんのコンサートに誘われたからで……」
どの曲も綺麗だったが、色々考えていたせいか、心から楽しめたかどうかはわからない。それよりも、夕方に会った祐樹との会話の方が、内容が重たかった分だけ記憶に残っている。
紗枝が紅茶をすすりながら澄子を見た。
「コンサートが終わってから、食事とか飲みとか行ったんでしょう?」
「あ、ううん。その後は別の約束があったんだ」
「は?他の約束なんか入れちゃったの?」
「でも、そっちの方が先に決まったから」
紗枝は力が抜けたように、深くため息を吐いた。
「スミは真面目過ぎるのよ。そこが良いところなんだろうけど……きっと柿坂さんも気づいちゃってるわ」
澄子は友人の言葉の意味がわからず、聞き返そうとしたが、先に紗枝が口を開いた。
「結局、スミは本気じゃないのよ」
「……え?」
「確か、先月までは毎週日曜日に会ったり話したりしたのよね?柿坂さんと良い関係になれたことに安心して、彼をないがしろにしている気がする」
予想だにしない答えを友人から聞かされ、澄子は背中が冷たくなった。返す言葉が出てこない。
紗枝が首をかしげる。
「まあ、お互いが友人以上恋人未満の関係で良いなら、平気なのかな。案外、こっちの方が長続きするかもしれないしね」
「……」
「スミも、それが良いのよね?」
そんなこと――。
「……わからないよ……」
「わからないって何さ。恋人として好きなのか、友人として好きなのか、どっちよ」
「……」
好き。
「好きだけど」
それは間違いないけれど。
「……怖いんだよ」
「何かイヤなことされたわけじゃないでしょう?」
間髪入れずに紗枝が指摘してくる。澄子は息苦しくなってきた。
紗枝は正しい。
祐樹も正しい
自分はおかしい。
それが何かは――。
「……わからないから、怖いのよ」
澄子の声色で察したのか、少し慌てた様子で友人はキッチンに戻った。
――こんな気分で、お花見なんて無理だよ。
澄子はテーブルに並んだ可愛らしい茶巾寿司を見つめた。かまぼこを刻んであしらった桜の花びらが色を添えている。
新婚の友人が費やした時間と優しい心づかいに、目の前が滲み出す。
――わたしは、最低だ。
澄子がどうにか気持ちを奮い立たせようとした時、冷蔵庫を覗き込みながら紗枝がため息を吐いた。
「スミ、今日はお花見中止」
「……え?」
「このお弁当は半分こにしよう。持って帰って家で食べて」
紗枝は呆れたように笑っていた。その顔は、すべてお見通しと言わんばかりだ。
澄子は、何とか涙をこらえた。
「そんな、悪いよ……」
「私に申し訳ないと思うなら、今度会う時はニコニコ澄子さんで登場してよ」
紗枝は肩をすくめた。
「もうね、今日はドアを開けた瞬間から、スミは何か抱えてるなって……悪い予感がしたんだ。それが、予想以上に深刻そうだったから、今日はヤメ」
「……でも、紗枝がせっかく」
「そうよ。優しい友人がせっかく作ったんだから家で食べなさい。その代わり」
紗枝は茶巾寿司をパックに移しながら、悪戯っぽく笑った。
「今年の桜は、絶対に柿坂さんと見てちょうだい」
約束だからね、友人は強い眼差しでそう言った。
――何の経験もない、わたしが悪いんだけどさ。
最後、祐樹が呆れたようにため息を吐いた顔が忘れられない。こんなことになるくらいなら、最初から柿坂の夜コンサートに行けば良かったと思ったが、今さら悔やんでも仕方がない。
――。
先週から、柿坂との連絡も途絶えている。港のイベント会場で、中途半端に別れてから気まずさだけが募っていくようで、澄子は焦り始めていた。
そんな土曜日の夜、澄子が柿坂に連絡を取るか決めかねていると、友人の紗枝から連絡が入り、新居に遊びに来ないかと誘われた。
せっかくの休日、新婚夫婦の時間を邪魔するのは気が引ける。
そう伝えると、紗枝が小さく笑って答えた。
「旦那は、接待ゴルフなんだよ。相手には結婚式に出てもらった関係もあって、断りきれなくてさ。ここ最近、日曜は出かけているの」
その声が少し寂しげに思えたのは気のせいだろうか。いつも明るい友人なだけに、澄子は心配になった。いつも相談に乗ってもらっている礼も兼ねて、今回は自分が紗枝の聞き役になることを決めた。
友人夫婦の新居は、都内の湾岸エリアにある高層マンションだった。
その高さに、思わず澄子は緊張した。
――二十七階。
エレベータで部屋を目指しながら、澄子は自分と紗枝の立ち位置を再確認した。
紗枝の夫も、また紗枝自身も働いており、それなりの稼ぎがあるということがこれだけでわかる。この住まいが特別に羨ましいわけではないが、乱立するマンション群は、何とも言えない焦燥感を駆り立ててくる。
ドアのインターホンを鳴らすと、エプロンをつけた紗枝が顔を出した。
「いらっしゃい!上がって上がって」
散らかっているけれど、そう言いながら、友人は綺麗に片付いた室内に澄子を招き入れた。一生懸命に家事をこなしている友人を、澄子は愛らしく思った。
キッチンから、良い匂いがしてくる。
「紗枝、何かお料理でもしていたの?」
すると、友人は少し得意げな顔でキッチンを指差した。
「そう!お花見弁当」
「お花見弁当?」
「今日、旦那もいないから、スミと一緒にお花見デートでもしたいなって考えてたんだ」
「えっ?」
ダイニングのテーブルには、可愛らしい茶巾寿司が並んでいる。
「紗枝……言ってくれれば、わたしも何か材料とか買ってきたのに」
「大丈夫よ。スミはお客さんなんだから、ゆっくりして」
紗枝は澄子に紅茶を入れたり、青菜を水切りしたり、火を止めたりと何かと慌ただしい。夫がいない休日くらい、ゆっくり過ごせばいいのに、そんなことを澄子は考えた。
――わたしは、絶対に一人の時間が欲しくなるんだろうな。
好きな本を読んだり、美術館に行ったり、舞台を見たり。どれも、一人で楽しむのが一番良い。
そこで、一瞬だけ柿坂の顔が浮かぶ。
――二人だったら、もっと楽しかったりするのかな。
「ねえ、スミ。柿坂さんとはどうなのよ」
カウンターの向こうから、紗枝がニヤニヤ笑っている。
「何なら、お花見に呼んじゃう?」
「は?何言ってるのよっ」
「冗談だってば。スミは柿坂さんのことになると、本当にテンション跳ね上がるよね」
羨ましいわ、かすかにそう聞こえた。
それには、澄子も少し心がざわついた。
「どこが……もう、本当にどうしたら良いかわからないんだよ」
「まだ、そんなこと言ってるの?」
「この前、少し会ったけど……ほとんど話すことなく別れちゃったし、何か最初の頃より話しづらくなったというか、反応が怖いというか」
「そこまで思いつめてたわけ?」
紗枝が呆れたようにため息を吐いた。
「ねえ、スミが楽しく幸せでいられないなら、それは恋じゃないよ」
「……え?」
「確かアレだっけ?『幸せになりませんか』って言われたんだよね」
「うん」
「それなのに気持ちが上向かないのは、スミがそれほど乗り気じゃないってことよ」
「……」
紗枝が自分の分の紅茶を淹れ、ダイニングの澄子の隣に座った。
「だいたい、柿坂さんからの連絡はあるの?」
「さっき話したけど、先週会ったのは、柿坂さんのコンサートに誘われたからで……」
どの曲も綺麗だったが、色々考えていたせいか、心から楽しめたかどうかはわからない。それよりも、夕方に会った祐樹との会話の方が、内容が重たかった分だけ記憶に残っている。
紗枝が紅茶をすすりながら澄子を見た。
「コンサートが終わってから、食事とか飲みとか行ったんでしょう?」
「あ、ううん。その後は別の約束があったんだ」
「は?他の約束なんか入れちゃったの?」
「でも、そっちの方が先に決まったから」
紗枝は力が抜けたように、深くため息を吐いた。
「スミは真面目過ぎるのよ。そこが良いところなんだろうけど……きっと柿坂さんも気づいちゃってるわ」
澄子は友人の言葉の意味がわからず、聞き返そうとしたが、先に紗枝が口を開いた。
「結局、スミは本気じゃないのよ」
「……え?」
「確か、先月までは毎週日曜日に会ったり話したりしたのよね?柿坂さんと良い関係になれたことに安心して、彼をないがしろにしている気がする」
予想だにしない答えを友人から聞かされ、澄子は背中が冷たくなった。返す言葉が出てこない。
紗枝が首をかしげる。
「まあ、お互いが友人以上恋人未満の関係で良いなら、平気なのかな。案外、こっちの方が長続きするかもしれないしね」
「……」
「スミも、それが良いのよね?」
そんなこと――。
「……わからないよ……」
「わからないって何さ。恋人として好きなのか、友人として好きなのか、どっちよ」
「……」
好き。
「好きだけど」
それは間違いないけれど。
「……怖いんだよ」
「何かイヤなことされたわけじゃないでしょう?」
間髪入れずに紗枝が指摘してくる。澄子は息苦しくなってきた。
紗枝は正しい。
祐樹も正しい
自分はおかしい。
それが何かは――。
「……わからないから、怖いのよ」
澄子の声色で察したのか、少し慌てた様子で友人はキッチンに戻った。
――こんな気分で、お花見なんて無理だよ。
澄子はテーブルに並んだ可愛らしい茶巾寿司を見つめた。かまぼこを刻んであしらった桜の花びらが色を添えている。
新婚の友人が費やした時間と優しい心づかいに、目の前が滲み出す。
――わたしは、最低だ。
澄子がどうにか気持ちを奮い立たせようとした時、冷蔵庫を覗き込みながら紗枝がため息を吐いた。
「スミ、今日はお花見中止」
「……え?」
「このお弁当は半分こにしよう。持って帰って家で食べて」
紗枝は呆れたように笑っていた。その顔は、すべてお見通しと言わんばかりだ。
澄子は、何とか涙をこらえた。
「そんな、悪いよ……」
「私に申し訳ないと思うなら、今度会う時はニコニコ澄子さんで登場してよ」
紗枝は肩をすくめた。
「もうね、今日はドアを開けた瞬間から、スミは何か抱えてるなって……悪い予感がしたんだ。それが、予想以上に深刻そうだったから、今日はヤメ」
「……でも、紗枝がせっかく」
「そうよ。優しい友人がせっかく作ったんだから家で食べなさい。その代わり」
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