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第六章

顕聖二郎真君(キューピッド)の三箇条

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「お師匠さまっ、聞こえますかお師匠様っ。」

 重い瞼を開くと、大声で私を呼ぶ悟空と目が合った。逆光ではっきりとは見えないがどうやらひどく焦っているらしい。私の額に一雫の何かがぽたりと落ちる。悟空の汗だろうか、……いや、涙か。

「……ん……う……。悟空……。」

  声を出すと同時にごぼっと黒い液体が口から零れ出た。何度かせきこむ。悟空が口元を拭ってくれる。

「お師匠様っ。」

 悟空がばっと抱きすくめられる。肩と腰に回された腕が痛いくらいだ。彼は人目も憚らずおんおん泣いている。

「……良かった。……本当に……だめかと思いました……。」

 はて、と思う。たしか道観を訪ねて皆でなつめを頂いたはず。……その後の記憶がない。

「一体、私は……。」

 状況が掴めない私に、悟空はしゃくりあげながら説明した。道観の道主は妖怪であったこと、棗に仕込まれた毒で悟空以外の三人は意識を失ったこと、妖怪は百眼魔王という名で脇の下にある目から放たれる奇怪な光線が手強く、毘藍婆菩薩に助力を頼んで妖怪を退治したこと、菩薩から頂いた解毒丹を飲ませてやっと私が目を覚ましたこと。

「飲ませても反応がないので、お師匠様は既に三途の川を渡ってしまわれたのかと……。」

「そうか……。苦労をかけた。」

 身体は少々だるいものの、長すぎる昼寝をした程度の心持ちである。死にかけたという実感はない。

「斉天大聖、安堵したのはわかるが、そろそろおとうと弟子たちにも解毒丹を飲ましてやれ。」

 毘藍婆菩薩のしわがれた声が促した。私は慌てて菩薩に手を合わせるが、いらんいらんというように手を振る姿は一見ただの老婆のようだ。堅苦しいことはお嫌いな方らしい。

 悟空は口の中に丹を投げ入れ無造作に噛み砕くと、八戒に口移しで飲ませた。続いて躊躇うことなく悟浄にも同じことをする。ほどなく二人とも毒液を吐き出し、息を吹き返した。

 戸惑ったのは私の方である。私も同じ方法で薬を飲まされたのか。唾液混じりの解毒丹を彼の舌が口の奥深くまで送り込み、仙気と共に清らかな水で送り込んだのだ。私は頬が赤くなるのを感じる。 

 八戒も悟浄もすっきりとした表情で身体を起こす。

「ふぁあ、よく寝たな。腹が減ったみたいだ。」

「おうおう、てめえらが寝てる間におれが孤軍奮闘して妖怪退治してやったんだ。」

「大兄。この方は毘藍婆菩薩様では。援軍を頼まれるとはどうやらかなり手強い妖怪だったようであるな。かたじけない。」

「おう、毘藍婆菩薩とおれとを感謝して拝んでくれよな。」

 悟空は八戒と悟浄に軽口を叩きながら二人の肩を軽く叩いた。もう泣いた痕跡などどこにも見当たらない。 

「では、大聖、私はいぬるわ。」

「はいっ。ありがとうございましたっ。」  
 
 毘藍婆菩薩を見送る悟空は珍しく低姿勢である。どうやら本気で感謝しているらしい。







 月が中空に差しかかる頃、私はそっと起き上がった。焚火を見守る悟空の傍に腰を下ろす。悟浄と八戒は何ともないように見えたが、やはり身体を毒に侵された疲労が出たのか、いびきをかいて眠っている。

「眠れないんですか。」

「なんとなく目が冴えてな。」

「焚火で温まってください。」

 悟空が横に詰めて火の正面を譲ってくれる。私は拳一つ分の距離だけ空けて尻を寄せる。

 ぱちぱちと小枝の爆ぜる音と、炎のゆらめきを見ていると胸のざわつきも少しずつ収まってくるようだ。私はやっともやもやした不安を口にする勇気がでてくる。

「命を狙われるのは毎度のことではあるが、今回は毒で苦しんだ記憶さえもない。知らないうちに死にかけたのが少し恐ろしいのかもしれぬ。今夜眠ればまた目覚めないのではないか……と。」

「おれも……。」

 悟空は膝の上の拳をぎゅっと握った。

「……今回は少し怖かったです。おれだけ置いて行かれるのかと。」

 苦しげな声音に思わず横を見れば悟空の瞳はわずかに煌めいていた。思わず自分の手を重ねると悟空の手は冷たかった。

「おれはどんな毒を飲んでも死ねません。もしお師匠様が冥界へ行ってしまえば、おれは傍にいられない。亡くなったお師匠様はいつか転生されるでしょうが、それはもうおれのお師匠様じゃない。もう二度と会えないのかと……。」

 悟空はぽろぽろと涙をこぼした。触れ合っている彼の膝小僧が揺れているのが心もとなく感じ、私は悟空の肩を抱いた。獅子奮迅の働きをする悟空の身体はいざ触れてみれば思ったよりも小さい。

 悟空は存外素直に私の肩に頭をもたせかけた。こんなに弱気な悟空を見るのは初めてで、戸惑いながらも、気難しい獣を手懐けたようで誇らしい気持ちもある。私はもさもさした悟空の後頭部を撫でてやった。

「起こらなかったことを後悔する必要はない。」

「もう嫌ですよ、あんな思いをするなら自分が死ぬ方がいくらかマシです。」

「生死はすべてお釈迦様の思し召し。生きることはすなわち死ぬことと同義じゃ。」

「おれはそれでもお師匠様が死ぬのは嫌です。」

 悟空がじっと私の目を覗き込んだ。その瞳の中の火に思わず息を呑む。すぐそばの焚火よりもっと激しい火柱がそこにあった。

「あの棗が怪しいことはおれには事前にわかっていたんです。しかし、お師匠様には必要な苦難を味わっていただかなくては天竺に辿りつけませんからわざと見逃したんです。でもこんなことになるのならお師匠様が召し上がる前に棗を叩き割っちまえばよかった。お師匠様に解毒丹を含ませても何の反応もなくて、もうだめかと思ったんですよ、本当に。天の御加護の下にあるお師匠様ですが、ついに天に見放されたのかと。しかし、天に逆らうようなことをお師匠様がするはずない。」

 悟空は一瞬だけためらったが、すぐに言葉を継いだ。

「であれば、いつぞやの俺との接吻が天に許されなかったのではと。それならおれの責任だと心の底から後悔しました。」

 思ってもみなかった方向に話の矛先が飛んで私は身を竦める。ここしばらく「接吻」という言葉にひどく敏感になっている自分を自覚している。

「……接吻には私も同意した。そなただけの責任ではない。」

「しかしあの部屋で初めて接吻した時、お師匠様がもう終いというのにおれが止まらなくなったから。」 

「最後にはやめただろう。」

「でも、……それにしても、……仏弟子の身なのに欲情しすぎたのかもしれない、と思って。」

 悟空は私の横顔を盗み見るように見上げた。心の蔵がどきんとする。私もゆっくりと言葉を舌に乗せた。なぜか口の中が乾いている。

「……それも……そなただけではない。」

「……お師匠様も気持ち良かったんですか。」

「もう言いたくない……。」

 恥ずかしさのあまり両手で自分の肩を抱くようにすると、悟空は寒さのあまりと勘違いしたのか掛布を私の肩に回し、掛布ごとふんわりと抱きしめてきた。

「おれたちの接吻が天に許されずお師匠様が死んでしまうのなら、もう接吻など二度としません。」

 それは嫌だ、と心のままに言えればいいのだが言えない私は悟空の力強い腕に顎を載せる。

「私は生きている。それはつまり、接吻は許されたということだろう。」

 本当のところ確信はない。しかし私が少しでも迷いを見せれば、この見かけによらず実直な弟子はきっと私の命が尽きるまで二度と肌に触れてはこないだろうという予感があった。

「本当に?」

「私は嘘は言わない。二郎真君様も接吻なら許されていると仰っていたではないか。」

 悟空は少し表情を緩めた。

「そうでしたね。しかし、お師匠様、もう奴の名前を口に出してはだめです。」

「なぜじゃ。」

「呼名はすなわち現身を呼ぶことです。あんな迷惑な奴が来てしまえば今の時間をめちゃくちゃにされますよ。せっかく邪魔者二人も高鼾で、お師匠様と二人きりなんですから。」

「二人きり……。」

「そんな深刻な顔しないでください。何もしやしませんよ。」

「何もしないのか……。」

 悟空は私の顔を見て妙な表情をした。赤くなったり青くなったりしている。悟空は何事かぶつぶつ呟いた後、額同士が触れるほどに近づいてきた。

「何か……してほしいんですか。」

 悟空の声は掠れていた。きっと彼は私の答えを知っている。

「……。」

 私は満点の星空を見上げながら、掛布からもぞもぞと手を出して悟空の手とつなぎ、指を絡めた。ぎゅっと握ると何も言わずに握り返してくれることが愛おしい。妖怪からの攻撃を避けるために身体を抱えられたり、足元の不安定な場所を通る際には手を取って支えられたりすることは日常茶飯事である。

 しかし、何の理由もなくただ触れあうためだけに手をつなぐことがこれほどまでに心を温めるのだと初めて知る。掛布の中に悟空の手も入れてやると、反対の腕で悟空は私の身体を改めて抱き直した。

「お師匠様、おれたちが最後に交わした接吻を覚えてますか。」

「そなたが一瞬だけかすめるようにした……。」

「そうです。お師匠様がもうこの世に戻ってこないかもしれないとなった時に、おれが何を考えていたかわかりますか。お師匠様と最後に交わした接吻があんな一瞬のやつだなんて我慢できないって。接吻が天に許されないのであれば、せめて最後を迎えるまでにもっともっと好きなだけしておけば良かったって、そう思っていたんです。」

 私は悟空の手の甲に爪を立てた。急に腹が立ってきたのである。

「そんな心にもないことを。そなたはあれきり何もしないではないか。」

 私の勢いに押されたのか、悟空は黙った。私につねられた手を離さない。

「あの接吻の後、そなたは何と言った。また今度、と言ったのだぞ。今度と言われたらいつだろうかと思うのが人の常だろう。今夜だろうか、明日だろうか、と待ってみても、そなたはいつも通りで待っても待っても近寄っても来ぬし。あれから何週経ったと思っている。毎晩私はあの接吻の続きをする夢を見るのだぞ。しかし、朝起きて夜眠るまで現実のそなたは何もしてこぬ。その屈辱がわかるか。終いには全部私の空耳ではないかと思っていたところであったわ。」

「……もしかして、お師匠様、おれからの接吻を待ってらしたんですか。」

「待ってなどないわ!約束が果たされるのはいつかと気にしていただけだ。」

 悟空はふっと笑って小さく息を吐き出した。そんな余裕のある表情をされると、この場の主導権を既に彼に握られていることに気付かされる。

「機会を狙ってはいたんですけどね、邪魔なおとうと弟子達がいつも周りにいたもんで。」

「前の接吻だって一瞬の隙にしたではないか。そなたのような素早い者は接吻など簡単にできるはずじゃ。」

「なるほど、一瞬の接吻でもいいから早くして欲しかったんですね。」

「い、……いや、そういうことでは。」

 いつのまにか悟空は私の顎に手をかけている。

「でも今回の接吻は一瞬で終わることはできません。だからずっと折りを見ていたんです。」

 すっと彼の目が据わった。獲物を狩ると決めたこの目つきからはもう逃げられない。

「お待たせしました、お師匠様。」

 彼の唇が迷いなく私の唇に触れた。温かい。体温を分け合うようにゆっくりと押し付けられる。悟空の凛とした匂いが鼻先をくすぐる。ゆっくりと唇が離れていく。思わずその唇を目で追ってしまう。

「大丈夫、まだ終わりじゃありませんよ。」

 その名残惜しそうな顔、可愛いですと囁いて悟空が再び近づいてくる。薄い唇が開いている。私の唇と舌を柔らかく食んで吸われる。初めての接吻の時よりも感覚が鋭敏になっている気がするのは、私自身が接吻に慣れたからだろうか。既に身体は接吻の快感を知っている。待ち望んでいた刺激を与えられ、悟空の舌が口の中を踊るたびに、息が漏れてしまう。

「ふっ……ん、……ん……。」

 私はとうとう悟空の首に腕をまわして、奥深くまで舌を受け入れる。二人で奏でる水音が、からっぽの頭の中に響くような気さえする。気持ちが良いこと以外何も考えられない。

「んあ……、んふっ、ンうん……、ん……。」

 悟空の唇は耐えず動き、口腔内の快楽の要をひとつ残らず刺激していく。時々その尖った歯で唇を甘噛みされると身体がびくんと動いてしまう。

 まるで快楽の海の中を悟空と二人で揺蕩っているようだ。身体の力がどんどん抜けていく。ある一点を除いて。少しずつ熱を帯びていく自分の下腹に居心地の悪さを感じる。この前の接吻ではここまで身体が反応することはなかった。

「ん……、ご、悟空……。」

「なんです?」

 追い打ちのように、ちゅっと音を立てて短い接吻をした後、悟空が至近距離で尋ねた。

「ちょ……、ちょっと離れなさい。」

「まだです。おれはここにも、ここにも……お師匠様の身体中すべてにずっと接吻したいと思ってたんですから。」

 言いながら悟空は私の頬、額、鼻と接吻を落としていく。まるで愛玩動物のようにされるがままの私は避ける術も持たない。耳を食まれながら耳孔にふっと仙気を注がれると、ためいきの出るような愉楽と目の前に薫風が吹くような清涼感を同時に感じる。

「ふぁ……ぁん……。」

 蕩けるようなまなざしで悟空を見上げる。いつのまにか私は悟空に覆いかぶさられている。

「今ご自分がどんな顔してるかわかってます?」

 尋ねてくる悟空も頬を紅く染めている。彼も興奮しているのだと思うとなぜか胸が詰まって苦しくなる。

 悟空の舌が再び私の半開きになった唇をなぞり始める。甘い舌先は痺れるような感覚さえある。思わず出してしまった舌を吸われる。深く深く何度も。 

「ふっ……ん、くっあ……ぁん……。」

 自分のものではないような声が漏れる。

「もっと……もっと気持ちよくなっていいんですよ、お師匠様。」

「ん……んぅ、んふっあぁ……。」

   悟空の甘やかな誘いに腰がくだけそうになった瞬間、まったく無風だった星空の下、突風が吹いた。驚いて目を開ける。朗らかな聞き覚えのある声が轟いた。

「大聖殿。初めからあまりがっつくなと助言したはずだぞ。」

 悟空は唇の動きを止めて、ゆっくりと振り返る。眉間には大きな皺が寄っている。

「また出てきやがった。そろそろ邪魔される頃合いだと思ってたところだ。」

 やはりというべきか、顕正二郎真君が仁王立ちになっていた。







 
 焚火は誰も薪をくべるものがおらず、下火になっている。二郎真君はそれを一跨ぎする。三蔵と悟空の迷惑そうな沈黙にまったく臆することはなく、二郎真君は抱き合う二人をじろじろと眺め回した後、満足そうに言った。

「ふむ。仲は進展しているようで何よりだな。」

「相変わらずはた迷惑な登場だな。今日は何の用だ。」

「悟空……。あまり失礼を申し上げてはいけない。」

 三蔵は気恥ずかしさから、身じろぎをして悟空の腕の中から離れようとするが、悟空は三蔵の身体を離さない。悟空は天帝杯ビーチバレー大会で二郎真君に有無を言わさず唇を奪われた過去があるため、三蔵を近づけてはならぬと油断を怠らないのだ。

「いつから見てやがった。最初からか。」

「いや今回は残念ながら途中からだ。私もそうそう二人の傍にはいてやれないのでな。先程唐僧が我が名を呼んだだろう。急いで来てみれば、二人は接吻の最中。はっはっはっ。これはめでたいと大人しく見守っておったのだが、案の定、大聖殿の接吻が少々強引でな。先の二の舞になってはならぬ、と止めに入った次第だ。」

「べっ、別に今回は強引にはしてねえよ。」

「唐僧が一回離れろと言ったのに離れなかったではないか。」 

「そ、それはっ、……続けてもお師匠様だって嫌そうじゃなかったし……。」

 悟空は口ごもり、二郎真君は首を傾けて三蔵の言葉を促した。

「大聖殿はああ言っているが、どうなんだ唐僧。」

「いや……あの……嫌……というか。ただその、自分の……下半身の変化が恐ろしくて、少し収まるまで刺激を止めてもらいたいと思ったのですが、悟空が接吻を続けながらささやく低い声に心拍が速くなって……。悟空が私の心すべてを持っていってしまったようで、何も考えられなくなってしまったのです。」 

 三蔵としては本心を包み隠さずに告げたつもりであったが、悟空が額に手を当てて顔を真っ赤にしながら「お師匠様……。」と呻いている。 

 二郎真君は落ち着いて頷き、三蔵に再び尋ねた。

「唐僧、下半身とはすなわち陰部のことだな。大聖殿と接吻をして陰部に変化があったのか。」

「そうです。熱く、硬く……私の意志ではどうすることもできませんでした。」

「陰部が隆起した経験は初めてか。」

「ええ、そのとおりです。」 

「よおし、わかった。ふはっはっはっ。まるで図ったような機運に私は出くわしたようであるな。まあまあこれも天の導きであろう。さあ、二人とも心して聞くがいい。」

 二郎真君は悟空の背中を遠慮なく叩いて注意を引いた後、懐から出した巻物をくるくるっと広げた。

「また妙なもの持ってきやがったな。」 

「いやこれはただの書付じゃ。大聖殿、今まで『唐僧は元陽を漏らしてはならない』というぼんやりとした規範しかなかったからな。どこまで許されるのかという線引きが必要だと思って、天帝に言って明文化してきたぞ。ルールを守るにはまずその明確化が必要だからな。」

「おい、テメー、もしかして天帝以下神仏が揃ったところで、『唐僧の色事はどこまで許されるのか』なんて話題にしたんじゃねえだろうな。」

「いや、蟠桃会の席で『大聖殿と唐僧が接吻からもう一歩関係を深めたく思っているのだが、情交が許されぬとしても手淫や口淫は許されるのかその明確な基準をお尋ねしたい。』と呼びかけて、集まった皆に知恵をもらって明文化してきたのだ。」 

 「手淫」「口淫」という言葉から連想される淫靡さに三蔵の頬は自然と熱くなるが、性的な知識に疎いため具体的な行為としては想像できないでいる。それでも悟空は三蔵の表情の変化を敏感に見てとり、あからさまな言葉を使った二郎真君に腹を立てた。

「おい、もっと悪いじゃねえかっ。天界中にお師匠様とおれの醜聞を聞かせやがってとんだ恥さらしめ。清廉なお師匠様にとってひどい侮辱だぞ。おれだって次に天界に行くときにどんな顔して行ったらいいかわかんねえじゃねえか。」

「何を言う。大聖殿は唐僧と旅路を共にするうちにその智慧と慈悲の深さを崇拝し心を奪われたのだろう。唐僧は大聖殿の真摯なふるまいに胸を打たれてその熱情を受け入れる覚悟をしておる。まったく素晴らしい結びつきではないか。何が醜聞だ、恥ずかしがることなど何もないではないか。」

 二郎真君のまっすぐな眼差しは嘘偽りなく述べていることは明白だが、天界の神仏や神将すべてが彼のように単純ではない。おそらく観音菩薩には嫌味の一つも言われるだろうし、太上老君にはにやつきながら事の次第を根掘り葉掘り聞かれるに違いないし、馴染みの広目天は妙に気を遣って無言でゴム製品の束を差し出してきそうな気がしする。悟空はひそかにため息をついた。

「うっ、……いや、お前から見ればそれはそうかもしんねーけどさ。」 

「では、大聖殿。よく聞け。唐僧の身体の清浄さに関する取り決めだ。通称『元陽三条』と命名した。まず第一条、玄奘三蔵が精を吐すことは禁止する。しかし、勃起や先走り液の分泌までは禁ずるものではない。」

「どういうことでい。」

「唐僧の陰部に性的な刺激を施しても精液さえ出なければ良いということだ。」

「なるほど。」

「第二条、玄奘三蔵の肛門に第三者の陰部を挿入することは禁止する。」

「ということは同様に考えれば、そこに明記されていない指や舌は挿れてもいいってことだな。」

「さすが大聖殿、飲み込みが早くて助かるな。その通りだ。」 

 一度納得したものの、一旦間をおいて悟空は不安になったようだ。

「ちょっと待て、お師匠様に本当に指や舌を挿れてもいいのか……?」

 三蔵は何も言わない。「勃起」、「先走り液」といった単語の意味がわからないのと、「肛門に指を入れる」など単語の意味はわかっても行為の意味がわからないことばかりで議論についていけずに一人混乱しているせいである。

 大丈夫ですよ、おれがちゃんと確認しておきますから、と悟空が耳元でささやいてくるが、そもそも何が大丈夫なのかもわからないと三蔵の混乱はさらに深まるばかりである。 

「大聖殿。その点に関しては侃侃諤諤けんけんがくがくの議論が重ねられた点であって、観音菩薩を含む強い反対意見もあったのだが、ここは大聖殿の盟友である顕聖二郎真君の腕の見せ所と思うてな。参考資料とともに大聖殿と唐僧の真摯な思いを切に説明して天界の神々に納得して頂いたのだ。」

 盟友になった覚えはねえけど、と思いながら悟空は嫌な予感がする。

「参考資料ってもしや……。」

「もちろん『接吻しないと出られない部屋』での二人の様子を記録したあの水晶玉の映像を天界の神々に鑑賞してもらったのだ。大聖殿も一度見ただろう。あの時は小さい映像であったが、蟠桃会の会場は広いゆえ壁一面の大きさに拡大してどの席からもよく見えるように配慮した。二人の想いが真摯であること、決して浮ついた気持ちで接吻を望んでいるわけではないこと、二人の絆が東海よりも深いことはあの映像を見れば手に取るようにわかる故な。」

 鼻高々な二郎真君と対照的に悟空は顔から火が出るほど恥ずかしい思いで頭を抱える。あの接吻を天界中に晒したのか。二郎真君のせいで自分のあずかり知らぬところでどんどん自分の性癖が明かされてしまっている気がして冷や汗が出てくる。

「映像とは?」

 相変わらず議論についていけないまま三蔵が尋ねる。

「これはいかん、唐僧にはまだ見せておらなんだな。あの部屋での二人の初めての接吻を映像に収めたものだ。見るがいい。唇を合わせるまでが初々しいわりに一度唇を合わせてからはどんどん荒々しくなっていくところが見ものだぞ。」

 早速懐から水晶を取り出そうとする二郎真君の腕を掴んで、悟空が止める。二郎真君の懐からは次々に怪しげなものが出て来るので油断も隙もない。 

「お師匠様に妙なモノ見せんじゃねえよ。」

「何を言う。唐僧は接吻の張本人ではないか。見るべき資格がある。私なぞもう五十回は見た。」

「アホなのか。見すぎだ。」

 悟空は二郎真君の向こうずねに軽く蹴りを入れると、三蔵に向き直った。

「お師匠様は自分が接吻している様子を眺めてみたいですか。そんなはずないですよね。」

「そ、そうだな……。別に見たくはない。」  

「だとよ。ほら、とっとと次の条項を言えよ。」 
 二郎真君は残念そうに口を尖らせた。

「残念だの。しかし唐僧はまだ性的衝動も目覚めたばかり故、あまり性急な刺激を与えるのも酷だな。映像は私が永久に保存していおくので、もし見たくなったらいつでも貸し出すからな。」 

 そろそろ耐えきれなくなった悟空が眼光鋭く睨みつけたせいで、二郎真君は咳払いをして話題をやっと変更した。

「よし、では最後の第三条、前項までの規範は玄奘三蔵が天竺に到着するまで有効である。以上だ。」

「天竺に着いてしまえば、もう何も禁止事項はなくなるってことか。」

「そうだ。天竺に着かねば唐僧の転生後も規範に縛られる可能性はあるがな。しかし、苦難を乗り越え天竺へ到達した暁には情交し放題だぞ、大聖殿。良かったな。その煮えたぎる熱情を長きに耐え忍んだ苦難が報われるのだ。唐僧と情交し放題だぞ。嬉しいだろう、そうだろう。」

「だから、おれが色情魔みたいな言い方やめろって。」 

 呆れたように言いながら悟空は口元に手をやった。必死でこらえてはいるものの、にやけてしまう口元を隠すためである。

 頭の中が疑問符でいっぱいの三蔵は疑問を発した。

「情交とは一体……。」 

「おお、情交を知らぬとは。それはな、大聖殿の陰部を唐僧の……。」

 悟空は二郎真君の爪先を思い切り踏みつけて制した。

「お師匠様っ。時が満ちればそれは自然とわかるようになります。細かいことはゆっくり話し合っていきましょう。」  

 大きな声で宣言してから、悟空は二郎真君に耳打ちする。 

「余計なことを言ってお師匠様を怖がらせるんじゃねえよ。こういうことはお師匠様の反応を見ながら時間をかけて説明していかねえと。」

 二郎真君は陽気に笑って頷いた。  

「そうだな、肛門に陰部を挿入すると今説明して断られても困るしな。」

 残念ながら二郎真君のささやき声は常人の通常の声量とほぼ同じである。当然、三蔵の耳にも入った。

「え、肛門に陰部を挿れ……、肛門は排泄口であるのにまさかそんなことが……。」 

 みるみる青ざめて顔色を失う三蔵を見て、悟空は慌ててその背中を支える。三蔵は気を失った。

「オメーの声がデカすぎんだよ。」

「いかん、唐僧がそんな衝撃を受けるとは思わなんだ。」

 二郎真君は広い背中を亀のように丸めて慌てている。あけっぴろげ過ぎて傍迷惑だが、性根はまっすぐで基本的な気の良い男なのである。

「お師匠様はおれが知っている中で一番繊細で怖がりな生き物なんだよ。いいからもうお師匠様に話しかけるんじゃねえよ。」

「あいわかった。大聖殿とだけ話せば良いのだな。唐僧へはすべて大聖殿に通訳して頂く事ととしよう。」

 極端な野郎だと思うが、面倒になった悟空はもう何も言わずに放っておく。三蔵の頬を優しく撫でて起こす。 

「お師匠様、大丈夫ですか。」

「……う、……ん、悟空……。」

「大丈夫ですよ、今もこれからもおれはお師匠様が嫌がることは何もしません。本当です。なので二郎真君が言ったことは一旦忘れてください。」

 真剣な悟空の表情と言葉に、三蔵の気持ちもいくぶん和らいだようである。

「……わかった。」

 頷いた三蔵の頬を悟空は指でなぞって少し微笑んだ。とにかく二郎真君を一刻も早く追っ払うことが肝要だと確信した悟空は、取り急ぎ要件の確認にとりかかる。

「元陽三条の内容はわかった。それで違反したらどうなるんだ。」

「天帝による勅罰だろう。天竺への旅を続けられるかどうかは事案によるだろうな。情状酌量の余地があるかどうか。」

「違反したかどうかは誰が判断するんだ。まさかつきっきりでお師匠様を見張るわけにもいかねえだろ。」 

「それはもちろん、私しかいないだろう。二人の恋の応援者としての責任があるからな。いや、心配には及ばん。二人が接吻をしたくなった時には『真君』と一言呼べば済む。どこにいてもすぐに駆けつけるからな。」

「毎回接吻する時はお前の前でしなきゃならねえってことかよっ。」

「心配ないぞ。たしかに私は多忙だが有能なので仕事はすぐ片付くのだ。呼ばれたらすぐに駆けつけよう。」

「お前が邪魔だって言ってんだよ。」

「なんのなんの、静かに見守る故、邪魔はせん。」 

「だっから、そういう問題じゃねえんだよ。」   

 二郎真君にあまりにも話が通じないので、悟空は脱力する。所有権を主張するように三蔵の肩に腕を回し、顔を近づけてから彼は言った。

「おれ達は睦みあうところを人に見られて喜ぶ性癖は持ち合わせてねえんだ。艶っぽいことは誰にも邪魔されずに二人きりでしたい。お師匠様の恥ずかしがる可愛い顔や色っぽい顔を他の誰にも見せたくないね。おれ達の時間はおれ達だけのもんだ。それにお師匠様の大願である天竺到達を、一番弟子であるおれが断念させるわけねえだろ。お師匠様の大願はおれの大願でもある。だから、お前の監視などなくても禁を破ることなんてしねえよ。」

 悟空の思いがけない言葉に三蔵の心拍は急に速くなった。大願を果たすための協力は嬉しくもあるのだが、独占欲も混じった親愛の情には恥ずかしくもある。

 三蔵は頬が触れそうな距離にいる悟空を見つめる。悟空の横顔は精悍である。外観は人間とは全く異なっており、妖気をまとった獣であることは間違いないが、この猿の心根が至極美しいことを改めて確信した。三蔵は思いきり息を吸って、声を張った。

「わ、私からも誓って申し上げます。先の約束を絶対に破ることはありません。私の宿願は天竺へ参りその真教を持ち帰ることです。何をもってしてもそれを妨げるようなことは決して致しますまい。監視などなくても約束は必ずしも守ります。どうか何卒。」

 悟空も二郎真君も驚いた表情で三蔵を見つめた。三蔵が天界人にこれだけはっきり物申す場面は今まで見たことがない。

「大聖殿、唐僧の決心も堅いこと非常によくわかった。残念なことに私の監視は必要ないのは事実のようだな。唐僧をかげながら守護している天神達によもやのことがあれば、真っ先に私を呼ぶように手配しておこう。」

 二郎真君は唐僧に話しかけるなと言われた禁を律儀に守り、悟空にだけ視線を向けて説明した。

「もうわかったわかった。じゃあな。早く帰れ。」

「では、またくる。」

 二郎真君はここで議論を避けて納得した様子を見せたのはいわばカモフラージュである。三蔵と悟空が互いに寄り添い快楽に酔い始めると、二人の神通力の高さによってその上空に瑞雲がたなびき始めるので天界からはまるわかりだからである。

(瑞雲が見えたら駆けつけ、ひそかに見守っておけば良い。)  

 二郎真君は上機嫌で雲に乗って去っていった。あっさり納得して帰る二郎真君に対し悟空は
 (あいつ、また何か企んでるんじゃねえだろうな。)
と考えるが、ここは早めに三蔵との二人の時間を確保する方が優先である。何も言わずに送り出した。

「ふう……。」

 悟空はため息をつく。二郎真君に邪魔される前の甘い雰囲気に持ち込んで再び接吻をしてしまいたいのだが、この朴念仁相手にどう攻めていいものかわからないでいる。

 三蔵はふふっと笑った。

「相変わらずあの方は嵐のような御仁であられる。」

「来るたびにさんざんおれたちを振り回していきますからね。」

「それでも悟空の気持ちを知ることができたのは、あの方の骨折りのおかげじゃと思うておる。」

「そんなことないですよっ。あいつが妙な道具や部屋を持ち込んで来なくたって、おれはお師匠様のことを大切に思っていたし、それは変わりません。」

「でもそれを私に告げることはなかったかもしれぬ。悟空はいつも口達者なのに、自分の気持ちはなかなか明かしてくれぬから。」

 心当たりのある悟空は少し口籠る。未だに妖怪の自分が、高貴な三蔵と接吻する仲になったことを己が一番信じられないでいる。

「そ、そんな……こと、あるかもしれませんけど。」

「先ほど、私のことも大事だが、天竺へ到達すると言う私の大願もまた大事に思っていると言ってくれたのは嬉しかった。」

 三蔵がしっとりとした声音で言う。美声と名高い三蔵の感極まった台詞はそれだけで悟空の胸を打つ。

「そ、そりゃあ、おれはお師匠様の一番弟子ですからね。何のために毎日妖怪退治に励んでいるのかといえばそりゃお師匠様の天竺行きを果たさせるためですから。そんなこととっくにお師匠様はご存知と思ってましたけど、違うんですか。」

「ふふふ、そうだな。知っていた。今日も私とおとうと弟子達を救うために大活躍してくれたのだったな。ありがとう。」

 三蔵は悟空の頭を撫でた。三蔵の手は柔らかく優しい。悟空はくすぐったくて恥ずかしいのだが、胸の内がじんわり温かくなる。

「弟子として当たり前のことをしただけです。」

 悟空は照れくさそうに笑って鼻を擦った。

「そういえば、悟空、解毒丹の飲ませ方なのだが、八戒や悟浄に口移しで飲ませていたろう。私にも同じようにしたのか。」

「気を失ってる者に呑ませる方法など他にありませんからね。」

「いや、しかし……あれは接吻ではないか。先だってから思っていたが、悟空が軽々しく接吻をしすぎるのは問題じゃ。」

「人命救助のためだから仕方ないじゃないですか。八戒や悟浄にしたことを怒ってます?緊急事態だから怒ってはダメですよ。」

「そんなことを怒ってはおらん。二人の命を救うために必要だったのだから。」

「じゃあ何を怒ってるんですか。」

「わからん。」

「やっぱり妬いてるんじゃないですか。」

「そんなことはない。」

 悟空は三蔵の腰に両手を回した。すっと回り込んで視線を合わせる。元陽三条で接吻は禁じられなかった今、二人を止めるものは何もない。

「おれが接吻したい相手はお師匠様だけです。本当です。」

「悟空……。」

 三蔵の瞳は妖艶な光を帯び、悟空だけを映している。

「お師匠様、……もう、おれ……。」

 悟空に顎を持ち上げられ、三蔵は目を閉じた。優しい接吻はすぐに勢いを増し、三蔵はくぐもった声を上げる。

「んっ、ン……んふぅ……。」

 先程二郎真君に良いところで邪魔された腹いせもあり、悟空の唇は止まることを知らない。三蔵はあまりの快感に悟空の袖をぎゅっと掴む。溺れそうなのである。

「お師匠様……。好きです。」

「っふぁ、ァん、……ご、悟空……。」

 ふわふわとした愉悦が頭のてっぺんからつま先まで身体を満たす。先程まで普通に会話していたのが嘘のようだ。不慣れな三蔵にとってこの接吻の快感は刺激が強すぎる。何をするより悟空と接吻している方が自然であるような気さえしてくる。

 このために私は生まれてきたのかもしれない。ずっと、一生このまま接吻し続けていても良い。  

 悟空の尻尾が三蔵の腰に巻き付いてくる。接吻を続けながらさわさわと尻尾で尻を撫でられる。二人の腰は既に密着している。衣服を隔ててはいても互いの隆起を太腿で感じている。

「んっ、はっぁ……。んぁあ……悟空……。」

 すがるような目で悟空を見れば、彼はにやりと笑った。

「お互い興奮しちまいましたね。」

 恐れ知らずの猿がこんなに格好良く見えたことはない。三蔵は感嘆のため息を漏らす。

「お師匠様の身体に触ってもよければ触ります。しかしまだ怖いというのならやめておきましょう。」

 三蔵は元陽三条を思い返す。 

「悟空は手淫や口淫をしたいのか。」

「それは快感を得る一つの手段であって必須ではありません。現に今おれたちは接吻だけで十分気持ちいいじゃないですか。」  

 三蔵は安堵する。手淫や口淫の具体的方法はわからずとも今すぐには試す勇気はなかった。

「そ、そうだな……。しかし、その、いつか……できるのであれば悟空はしたいのか。」

「お師匠様がしたくなればおれもしたいです。」

「そんな日が来るとは思えないが。」

「それならそれでいいです。」

 悟空は言いながら、ちゅっと軽く音を立てて接吻する。悟空は三蔵との接吻が許されたという事実だけでほくほくである。 

 軽い接吻で物足りなくなった三蔵は、悟空の首に腕を回した。

「悟空……、あのもう少し……。」  

 悟空は笑って三蔵のうなじを撫でながら唇が触れそうな位置で囁いた。

「接吻の夢を見なくなるくらい、しましょうか。」 

 三蔵はもう何も答えずに自分から唇を重ねた。
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