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第七章

顕聖二郎真君のお膳立て

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「うまいことやったじゃん。兄貴。」

 珍しくうきうきとまぐわを担いだ八戒が悟空の横に並んだ。高く澄んだ秋の空に風が爽やかで、足取りも軽い。

「よだれを拭け、汚ねえな。」

「兄貴はさ、ついにお師匠様とやりたい放題なんだろ。」

 悟空は慌てて八戒の尖った口をねじって黙らせてから、馬上の三蔵を窺う。三蔵はもの悲しい顔をして中空に視線を漂わせている。どうやら八戒の言は聞えなかったらしいが、そろそろ空腹を感じ始めているようだ。そろそろ休憩の時分かもしれない。

「お師匠様に聞こえるだろ。おれたち、微妙な時期なんだよ。うっかりしたことを言ってまた距離を置かれちまったら困る。それに何もかも許されるのは天竺についてからだ。」

「天竺へ着かなくたって情交と吐精さえしなければいいんだろう?いろいろできるじゃないか。」

 快楽の追求にかけては一家言ある八戒は鼻を鳴らす。

「……いろいろして、もしお師匠様が元陽を漏らしちまったらコトだろう?」

 ただでさえ快楽に弱そうなのに、と悟空は口の中で独り言ちる。三蔵とは数回唇を合わせた経験から、性的興奮を感じやすい体質であることを悟空は既に知っている。

「悟空、少々腹が減った。」

 馬上の三蔵が宣言した。

「お師匠様、あの小川の辺りまで行ったら休憩にしましょう。」 

「そなたには見えても私には見えぬ。もう腹が減ったのだ。」

「水筒の残りも少ないですから、水の補給も兼ねてもう少し進みましょう。」

「兄貴、お師匠様も疲れたって言ってるし、もうこの辺で休んじまおうぜ。」

 例のごとく八戒が泣き言を言うが、悟空は聞く耳を持たない。

「お師匠様、もうあと少し辛抱して歩いておけば、日が一番高い時間帯に休めます。」

「もう夏でもあるまいに、日が高い時間帯であっても移動には支障ない。」

「……わかりました。水はおれが汲んでまいります。その木陰で休んでいてください。」

「ふう。私が空腹だと言っているのだから、すぐに休憩にしてくれれば良いものを。」

 玉龍から下りる三蔵に手を貸すと、三蔵はぶつくさ言っている。このわがまま坊主め、と悟空は思うが、ぐっとこらえて口には出さない。どうしてこんな坊主に心酔してしまったのか自分でもわからなくなることがある。

「悟空は私のことを大切に思っているのだろう?違うのか?」 

 馬を下りた三蔵は頭一つ分悟空より背が高い。膝を曲げるようにして視線を合わせ、曇りのない瞳で尋ねられた。おれの気持ちも知らずに、と悟空は半ば喧嘩腰で答える。

「そうですね。ですから、なるべく快適に旅をしていただきたいと精一杯骨折っている所存でございます。」

「悟空は冷たい。」

 三蔵はぷいと横を向いた。

「はあ?」

 悟空は思わずあんぐりと口を開ける。普段の悟空が三蔵のためにどれだけ滅私奉公しているか思い出してほしい。今だって、三蔵の身体に負担の少ないようなるべく過ごしやすい時間帯に移動したいと考えてのことである。 

 昨夜も眠りにつく前に軽い接吻をしようと悟空が顔を近づけた時に、三蔵の方が『今日はやめておこう』と断ったのを覚えていないのだろうか。その後も悶々とする悟空を尻目に、彼は悟空の腕を枕にすやすやとすぐに寝息を立てていた。よくもそんな台詞を言えたものである。


 
 

 筋斗雲で飛んで托鉢してきた斎を三蔵に鉢ごと手渡すと、悟空は水を汲んでくると言い残して先に見えていた小川へ向かった。なぜだろうか、腹も空かない。河面に石を投げてみる。小石は見事に水を切って飛んだ。

「兄貴。」

 腹がくちくなった八戒が雲に乗って現れた。水を飲みに来たらしい。

「昨晩のイイコト思い出して勃ったのか?」

「そんなわけあるか。昨日も何もしてねえ。」 

「好き合ってる二人が隣り合って寝てるのに、何もしてないなんてことありえない。せめて接吻くらいはしてるんだろう、兄貴。」

「いや、それが……。」

 普段の悟空であれば、八戒なぞに三蔵とのやりとりを詳しく話すことはないが、先の三蔵の発言に意気消沈していたらしい。悟空は肩を落としながら思わず愚痴を漏らした。

「おれはいつでもしたいんだけど、いざ顔を近づけてみるとさりげなく顔を逸らされたり、口を手で抑えられたりして避けられるんだ。あんまりしつこくねだって嫌われるのも怖いし。」

「兄貴……。」

 八戒は悟空の肩を組み、同情を隠さずに言った。

「お互いの恋情を確認できてから数日でもう飽きられたのか。」

「っ違えよ。」

 悟空は八戒の腕をわずらわしそうに振り払った。

「飽きられてなんかねえっ。お師匠様だってもっと接吻したいと思ってるはずだっ。だって、二郎真君の三箇条制定の日だって『もっと』ってねだってきたのはお師匠様の方なんだぞっ。」

 そういえば熱烈な接吻を交わしたのはあの日が最後では、と悟空は悲しい現実を思い出す。

「じゃあ、なんでお師匠様はあんまり接吻を許してくれないんだろう。」

「出家人たる者、満足しちゃいけないんだと。」

 悟空の唇は不服で尖った。 いまだに寝る際に背を向けられていることはきまり悪すぎて八戒には言えない。

「おれは今の関係に不満があるわけじゃねえ。お師匠様はおれの恋人ではなくお師匠様なんだ。でもな、もうちょっと、態度ってものがほんの少しだけ軟化してくれてもいいんじゃないかと、思わなくもねえっつーか。」

 三蔵は本当に悟空のことを好いているのだろうか。悟空の気持ちは伝えたが、その返答として明確な答えはもらっていない気がする。三蔵からは「弟子として敬愛している」としか言われていない。

 「弟子として敬愛」それだけ聞けばただの師弟愛である。三蔵の気持ちが確実に悟空を志向していると確信が持てないのも道理だ。

 途端に、悟空の胸には不安の影が差してくる。

 (もしかしてお師匠様はおれに対して弟子としての好意しか抱いていないのでは……。)






 唐突に小川の水面にさざ波が立つ。次の瞬間、神出鬼没の二郎真君が仁王立ちになっていた。真君の膝下は小川に浸かっている。秋とはいえ、水浴びするにはやや気温が低い。

「やあやあ、聞いたぞ。悩める大聖殿に私からの秋のわくわくキャンペーンだ。」

「まだ出た……。」

「二郎真君殿、お久しぶりでございます。」

 げんなりする悟空と対照的に八戒は元気に挨拶する。天蓬元帥という天界の役人だった見栄があるらしく、いつもよりきびきびとした受け答えをする。

「天蓬元帥殿は大聖殿の恋の相談に乗っておったのだな。仲間同士の信頼関係、天晴れ天晴れ。よしよし、私も一肌脱ごう。」 

 ちゃぷちゃぷと二郎真君は川を横切って、岸に上がってくる。優雅に足を一振りすれば、靴も袴も一滴の残りもなく乾いている。さすが天界の名だたる武将である。

「男心と秋の空、とよく言うだろう。唐僧と接吻する仲になったとはいえ、油断は禁物。真面目な唐僧は『僧侶に恋情など不要』と言い出し、大聖殿を切り捨ててしまってもおかしくないぞ。さあさあ、そんなときにはこれを見よ。」

 真君は懐から小指の爪ほどの小さな香を取り出した。張り付けてある小さな説明書を真君は朗々と読み上げる。

「『恋人になったばかりの初心なあなたにおすすめ。この招想奮香。恥ずかしがりやの恋人に催眠をかけて、ラブラブ恋人に変身させちゃうぞ。』とな。香を自分の手に乗せたまま、意中の相手に嗅がせれば催眠が発動し、びっくりするほど甘々の恋人になるらしい。試したことはない故、効能は判然としないが試してみる価値はあるだろう。」

「効能がはっきりしないとは怪しいな。どうやって手に入れた。」

「私がうたたねをしている隙に、紅衣仙女がこの香を使おうとしたのだ。途中で阻止したが。次第を聞けば、天界の娘娘娘娘にゃんにゃんらで流行っているまじないを、私にも効果があるか試してみようとしたとのこと。効能を聞いて大聖殿の役に立ちそうだと、香をいただいてきたのだ。」

「つまり、紅衣仙女がお前を恋人にするという催眠をかけようとしたってことか。」 

「私のような偉丈夫でも効果があるのか試したかっただけだと言っていたぞ。それに、紅衣仙女には恋仲の将が既におる。」

 悟空の問いに二郎真君はあっけらかんと答え、悟空と八戒は思わず顔を見合せる。相変わらず思考が一直線すぎるが、戦闘能力が高いだけに自衛は万全である。この調子で相手から向けられる想いに気付かずにその多くを袖にしてきたのだろう。

「二郎真君殿、世の中には恋人がいてもさらに楽しみを得たいと思う輩がいるんですよ。」

「まあ、お前が誰に好かれようとおれには関係ないけど、お前も特定の相手を見つけて自分の恋に奔走しようとは思わないのか。」 

 悟空は二郎真君が自分の恋に夢中になってくれれば、今のように三蔵との仲をかき回されることも少なくなるだろうと思って提案してみる。しかし、二郎真君は腕組みをして即断した。

「おお、大聖殿は応援役としての私の覚悟を試す気でおられるのだな。しかし私は優秀なので好きな相手ができればすぐに成就するのだ。大聖殿のようにいつまでももだもだとまだるっこしい関係を続けたことなぞ皆無だ。今の私は大聖殿と唐僧の亀のような歩みの恋路を応援するのが生きがいだな。」

「二郎真君殿は今決まった相手がおられるのか。」

 八戒が尋ねる。

「今はおらぬ。私の恋の成就はたやすいが、破局もまたたやすいのだ。」

 それはそうだろう、と悟空は心の中で納得する。

 二郎真君は悟空に香を渡してくるが
「催眠だなんて、気は進まねえな。」と悟空は手の中で香を無造作に転がす。悟空の掌中の香を覗き込むようにしながら、八戒は身体を揺すって頼み込んだ。 

「兄貴、その香を俺に譲ってくれよ。」

「やや。天蓬元帥殿は誰か思い人がいるのか。残念だがこの香の持ち合わせは一個しかないのだ。」

 真君が袂を探るが香はもう出てこない。悟空は腕を組んで八戒を見据えた。

「真君、こいつは誰でもいいから恋人にしたいと思ってる色情狂だ。犠牲者を出さないためにもこいつには渡さない方がいい。」

「お師匠様と兄貴はもう恋仲なんだろう?別にこの香を使う必要ないじゃないか。」

「恋仲と言いきれるようなこともまだしてねえし。『好きだ』とか明確な言葉を言ってもらってもねえんだよ!」

 勢いこんで言ってしまった悟空の言葉に、八戒はあっけにとられた。

「え、兄貴はあんなにお師匠様のこと好き好きオーラだしてるのに、お師匠様からは何にも言ってもらってないってことかよ。……あれ、意外に兄貴って可哀相な関係なの?」

「う、うるせー。」

「接吻する仲なんだからちょっと聞いてみればいいだけなのにな。『俺のこと好きですか』って。俺は一晩の相手にでも『俺のイイ?今までで何番目にイイ?どこがイイ?』ってすぐ聞くけどなあ。」

「お前とは繊細さが違えんだ、馬鹿野郎。もし『弟子としては好きだが、それ以上はわからぬ……』とか、『私という微小の存在には恋情は理解不能だ』とか言われたらどうすんだ。おれ、立ち直れねーかもしれねーよ。」

 悟空が背中を丸めてつぶやくように言うと、八戒はうすら笑いを浮かべて頷いた。

「ああ、お師匠様なら言うかもな。」

 八戒のへらへらとした同意に悟空は目の前が一瞬暗くなる。やはり傍目から見ても三蔵から悟空への好意は明確ではないのだ。

「だろう?ありえるところが怖いんだよ、おれは。」

「でも好きかどうかもわからない相手と毎晩同衾して接吻もしてるとしたら、お師匠様こそとんだ不良坊主だぞ。」 

「お師匠様の悪口言うんじゃねえ。」

「面倒なサルめ。とりあえず接吻までは許してもらってるんだし、ある程度の気持ちは通じ合ってるってことだろ。お師匠様だって本当は好きに決まってる。照れくさくて自分の気持ちを言えないだけだって。」

「そ、そうかな。おれは好いてもらえてるんだろうか。」

 阿呆な豚であろうがなんだろうが、悟空にとっては三蔵の気持ちを肯定してくれる者であればだれにでも縋りたい。まさに溺れる者は藁をもつかむ心境である。

「恥ずかしがり屋の相手の気持ちを確認するにはさ、快感に流されちまうのが一番てっとり早いよ。」

「つまり、どうすんだ。」

「抵抗されようが接吻しまくってあんあん言わせて『こんなに感じてるのに好きじゃないわけないだろう。好きって言わなきゃ途中でやめちまうぞ。』ってガンガン攻めるんだよ。」

 悟空は頭をかかえた。

「この阿呆がっ。そんなこと、お師匠様にできるわけがないだろう。」

 八戒の襟首につかみかかろうとした悟空を二郎真君が止めた。

「事情は呑み込めたぞ。大聖殿が必要としているのはこの招想奮香での催眠による唐僧とのお遊びのいちゃつきではなく、唐僧の本音の確認であるな。本音の確認となれば、以前も使用した視根鏡が役に立つだろう。よしよし、大聖殿にとっては唐僧の意がはっきりせぬのに、この香を使うのも彼の心を操るようであまり気が進まぬのだろうな。なんと清廉な心情であろうか。はっはっはっ。あいわかった。この二郎真君にすべてお任せあれ。しばし待っておれよ。」    







 視根鏡を廟まで取りに行ってくるという二郎真君と別れ、悟空と八戒は木陰にいる三蔵たちの元に戻ることとした。見れば、三蔵と悟浄は共に食後の休憩をしている。さくさく歩く悟空に八戒がまとわりついてくる。

「兄貴ぃ、俺にその香くれよ。」

「だめだ、お前はすぐ変なことに使おうとするだろう。」

「変なことに使うための香だろうが。」

 たしかに八戒が道理である。

「こんな妙なもん、灰にしちまった方がいい。」

 悟空が仙気を吹きかけ燃やそうとすると、八戒が慌てて香を奪い取った。

「あっちち、もう燃えちゃってんじゃねえか。もったいねえ。」

 八戒が慌ててその大きな耳で仰いで消そうとするが、ますます煙を出すだけである。

「消えねえなあ。こんな山の中に綺麗な女人がいるわけねえし、もう仕方ねえからこの際お師匠様相手でもいいか。顔だけは良いし。」 

「おい、そんなことさせるかっ。」

 慌てたのは悟空である。八戒と恋人であると催眠をかけられたら、大事な三蔵に何をされるかわかったものではない。八戒にしなだれかかる三蔵など想像しただけで血の気が引いていく。

「おーい、お師匠様ぁ。」

 こんな時ばかり八戒は機敏に動き、三蔵にせかせかと近寄る。

「騒がしいぞ、悟空、八戒。」

「ねえお師匠様、この香嗅いでください。」 

「八戒、やめろっ。」

 悟空は目にもとまらぬ素早さで八戒の手から香を奪い、反対の手に移し三蔵から遠ざけた。

「だから、何をしておる。」

 弟子の諍いに眉を顰める三蔵の様子に普段と変わったところはない。悟空はほっと胸をなでおろした。すると、悟空の背後で深く息を吸う音がした。

「ふぅ……。」

 悟浄は目を瞑って深呼吸している。よりにもよって悟空は悟浄の目の前に香を突き出してしまっていたのだ。

「良い香りだな。」

「あー!」
「ぎゃー!」

 悟空と八戒は揃って叫喚した。小さな香は既に燃え尽きている。

「二人とも騒々しいぞ。一体、何事だ。」 

 三蔵が叱責する。

「悟浄が香を嗅いじゃったんです。」

 意味不明な八戒の説明を悟空は補足しようとするが、目を閉じたまま反応のない悟浄が心配になり、肩に手を置く。

「あ、いや……あの、ですね。おい悟浄、なんともないか。」

 悟空に名を呼ばれた瞬間、悟浄はびくんと肩を震わせ、そして目を開けた。

 悟浄は夢見るような瞳で悟空の顔を眺めまわした後、肩に置かれた悟空の手に自分の手を重ね、ゆっくりと答えた。

「愛しい大兄、今日もなんと麗しい。」

 三蔵はぎょっとした顔で悟浄の顔を二度見した。八戒はその後ろで忍び笑いを漏らしている。 

「なんだ、今のは……。」

「いや、あの、なんといいますか。」

 悟空が三蔵に説明しようとすると、悟浄が悟空の頬に手をあてて顔を近づける。

「拙者以外、その瞳に映さないでほしい。」

 悟空の背中を冷たい汗が流れ落ちる。

「あーひゃっひゃっひゃっひゃっ。悟浄は恋人には意外と積極的なんだな。これは面白え。」

 耐えきれなくなったらしい八戒が大声で笑う。

「この阿呆八戒、そもそもお前のせいなんだぞっ。」

「愛しき声音は我が鼓膜に心地よく響く。次兄になど怒らず、私に向かって怒鳴ってほしい。」 

 ひざに縋りついてくる悟浄に、悟空はため息をついた。どうしてこんなことになったのだ、と後悔する悟空は、背中に突き刺さる三蔵の冷たい視線には気付く由もなかった。






「つまり、顕聖二郎真君が持ってこられた香のせいで、悟浄は悟空が恋人であるという催眠にかかっているのだな。」

 悟空と一緒に馬を引くといって駄々をこねる悟浄をなんとか説き伏せ、山道の先導と称して先に行かせてから、悟空と八戒は三蔵に経緯を説明した。

「しかし、そんな香をなぜ顕聖二郎真君が。」

「それは兄貴が―」

 悟空は八戒の足を踏んずけて黙らせ、説明した。

「真君は灌江口に帰る途中だったのですが、梅山の六兄弟のお土産として持っていたみたいです。」

 三蔵は腑に落ちない様子であったが頷いた。

「どうすれば催眠は解けるのか。」

「天界で流行っている安物のようですし、そう遠くないうちに解けると思いますがね。」

 先を行っていた悟浄が戻ってくる。珍しく額に汗をかいており、張り切って道を切り拓いていたことがわかる。悟浄は一目散に悟空に駆け寄ると、さわやかな笑顔を振りまいた。

「大兄の美しい肌を傷つけるような小枝が飛び出さぬよう、十分注意して枝を払ったが大事ないか。」

「お、おう……。」

 悟浄は悟空の片手を取って、優雅に促した。

「ここから先は道が険しいため、手を貸そう。気を付けて登るがいい。」

 思いのほかさりげなく手を引かれたため、おう、と足を踏み出しかけて思いとどまる。待て待て、おかしい。 

 悟空は悟浄の手を振り払う。

「おい、おれを誰だと思ってる、斉天大聖孫悟空様だぞ。こんな山道くらい一人で登れらいっ。」 

「そんなことは知っている。ただ、今の大兄は拙者の恋人だ。恋人の無事を願うのは当然のことだろう。」

 両肩にふんわりと手を置かれて柔らかく説得されると不思議と強く出られない。

「おれとお前は恋人なんかじゃねえ。」

「失敬、二人の仲は周囲には秘密だったな。拙者、大兄と思いが通じていることが嬉しすぎてつい、口が滑った。」 

 まったく意に介さない悟浄に悟空はため息をつく。  

「……もうなんでもいい。とにかくこの山道で一番心配なのはお師匠様のことだろうがっ。」

 悟浄に怒鳴ったところで暖簾に腕押しである。彼はにこやかに笑いながら、悟空の頬についていた泥を優しく拭いてくる。

「そうだな。師匠の安否を気遣うのは弟子として当然の義務だ。務めを果たす大兄の意志の強さには本当に頭が下がる。」

「足場が悪いので、玉竜に乗っているとかえって危険です。しばらく歩いてください。おれが支えますから。」と悟空は三蔵の手を取った。

 悟空と手を携えて山を登りたかった、と寂し気な悟浄には玉龍の手綱を取る仕事を任せる。にやにや笑いをやめない八戒にはすべての荷物を持たせたが、もっと荷物を増やしてやってもいいくらいだ。面倒ばかり引き起こしやがって、と悟空は思う。

 足元からころころと小石が落ちていく。急な斜面を悟空が先に登り、三蔵の手を引いてやりながら少しずつ登らせる。と、三蔵は木の根に足を取られて転びそうになる。とっさに抱きとめた悟空は三蔵の腰に腕をまわし、ふうと息をついた。三蔵のどんくささでさえ、愛らしく感じるのは完全に惚れてしまっているからに違いない。三蔵の白い首元がすぐ目の前にある。かすかに甘さの残る三蔵の肌の香りがする。途端に悟空の心臓はどきどきしてくる。 

 思えば三蔵の身体を抱きしめたのも久しぶりである。手放したくはないが、ずっとこのままでいては三蔵に叱られることは目に見えている。悟空は三蔵が立ちあがるのを支え、平静を装って答えた。 

「お怪我はありませんか。」

「ええ……。」

 なぜか目をあわせようとしない三蔵は
「師匠の手を取るのは弟子の義務だものな。」と呟いた。

 悟浄が催眠にかかってから、三蔵はどことなく機嫌が悪い。 

 興味のない相手からはだだもれの行為を浴びせられ、大好きな相手には仏頂面のままそっけなくされ、珍しく心身に疲労を覚えた悟空は上空のひつじ雲をぼんやりと見上げた。はあ、このままどこかへ飛んでいきたいものである。
 






 山の中腹におそらく猟師が使う簡素な山小屋があり、この日はそこで一泊することとした。悟浄が山菜を手際よく煮てから乾飯を加えた雑炊を皆で啜った。

「大兄、熱くはないか。これを食べるがいい。」

 悟浄はふうふうと自分の匙で掬った雑炊を吹き冷まし、悟空の顔の前に差し出す。 

「えっと……ん?」

「舌を火傷せぬようにゆっくりとな。ほら、口を開けてほしい。」

「……いや、おれ自分で。」 

「せっかく大兄のために冷ましたのだから。一口だけ。な?」

 まっすぐな眼差しで真摯に言いつのる悟浄を見ると、なんだかこちらがいじめているような気がしてくる。 

「じゃあ、一口だけ。」

 素直に口を開けた悟空に、悟浄は繊細な手つきで食べさせた。

「味はどうだろうか、大兄。」

「まあ野草だしこんなものだろう。」

「もう一口食べさせてもよいか。」

「だから自分で食べるって。」

 やりとりだけ聞いていればまるで新婚夫婦のようである。意外と頼まれると断れない性分につけこまれ、悟空は悟浄の思い通りになってしまっている。

 じとっと湿り気をおびた目つきで眉をしかめながら二人を見つめているのは三蔵である。何も言わないが相当怒っているようだ。面白いことになってきたと八戒は一人でほくそ笑む。

「お師匠様、椀のものが全然減っていませんよ。」

 八戒が声をかける。三蔵は二人を睨むので忙しく、ほとんど食べていない。

「腹が減っていない。欲しければ食べるがいい。」

「わあい、いただきます。」 

 八戒が三蔵の椀もたちまち空にする。悟空は三蔵の傍にすぐ寄ってくる。

「お師匠様、お腹でも痛いですか。」

「痛くなどない。」

「眉間にしわが寄ってますよ。どこか苦しいのでは。」

 悟空が人差し指で三蔵の額をつつく。

「大丈夫だ。」

 悟空は自分の雑炊を少しだけ掬い、ふーっと息を吹きかけた。

「仙気を混ぜておきましたから、きっと気分が良くなるはずです。薬だと思って一口召し上がってください。」

「……うむ。」

 口を開ける三蔵に、悟空は微笑みながら雑炊を食べさせた。

「まだ食べられますか。」

「うむ。」

「ではもう一口。」

 指で三蔵の唇の端を拭ってから、悟空は匙を運んだ。

「お師匠様、ずるいです。なぜ大兄に食べさせてもらっているのですか。」 

 いつもなら悟空と三蔵のやりとりを見ないふりで放っておいてくれる悟浄が本日は黙っていない。

「お師匠様の調子が悪いからだ。」

「拙者も調子が悪いですから大兄がふうふうした雑炊を食べさせてください。」

「面倒なこと言ってんじゃねえよ。」

「兄貴、おれもふうふうして食べさせてほしいなあ。」

 完全に面白がっているだけの八戒が横槍を入れてくる。

「お前も話をややこしくするんじゃねえっ。そもそもの元凶は八戒てめえだろ。」

「あーんして待ってるからさあ、ねぁ兄貴。」

「次兄もずるいぞ。拙者だってまだ一口も食べさせてもらってないのに。」

「皆、静かに。」

 再び眉間にしわを寄せて、三蔵が一喝した。三蔵が声を荒らげるのは珍しい。全員が黙って三蔵を見た。

「あまり悟空ばかりに負担をかけるな。食事は自分で食べる、以上だ。」

 はぁい、と拗ねた幼児のような返事をした八戒だが、我慢できなかったらしく
「一番負担かけてるのはお師匠様なのにな。」と小声で呟き、悟空から睨まれた。

  


 
 
 寝る段になった際にも再びひと悶着がおきた。

 当然のように三蔵と同じ寝台で寝ようとした悟空の肩を悟浄が引いた。

「恋人を差しおいて、他の男と寝るとは拙者の首を絞めるようなものだ。やめてほしい。」

「お師匠様が寒がるから一緒に寝るんだ。」

「拙者も大兄が傍にいてくれなんだら、身も心も寒さで凍えてしまう。」

「お前の台詞が既に寒いけどよ。」
 と悟空は言いながらも、長い睫毛を伏せて残念そうに下を向く悟浄の腕をさすってやる。まさかこの拗ねた様子にほだされて、一緒に寝る気じゃなかろうな、と三蔵は危惧する。

 悟浄は悟空を抱きすくめ、はっしと三蔵を睨んだ。

「いくら師匠といえども、弟子の恋路を邪魔する権利まではないはず。湯たんぽ代わりにするのであれば、独り者の次兄が適任である。今日拙者が山を切り拓いたのも、雑炊を作ったのも、すべて大兄のため。大兄の笑顔を守るために拙者は日々精進しておるのだ。それに隣に並んで寝たからとて拙者も大兄も仏弟子である故、不埒な行為は決してしないと誓おう。ささやかな語らいで良いのじゃ。夜に二人きりで恋人として睦言を交わし、日々の勤めから離れ一時の休息を得るくらい許されてもよいだろう。」

 悟浄が対峙した三蔵に熱弁を振るう。悟空は悟浄の発言の内容こそがまさに三蔵としたかったことであるので、わかるわかる、と頷いてしまいそうだった。

「大兄と拙者は好き合っておるのです。お師匠様と言えども入る隙間はありません。お師匠様も大兄が欲しいと思うのであれば、大切な弟子であるという以上の大兄に対する誠意を見せてください。」

 悟浄の宣言に三蔵は傷ついた顔をした。 

「悟空は……。」

 その後の言葉が続かない。三蔵は悟空へと手を伸ばし、そして下ろした。  

「悟空は私の一番弟子なのだ。」

 三蔵は一人、小屋の外に出た。




 

 
 月には薄雲がかかっていた。もやもやとした雲が風に吹かれてじんわりと形を変えていく。

 三蔵はのびをした。

 悟空と悟浄の恋人のようなやりとりになぜ苛立つのか自分で判然としなかった。

 悟空は大切な一番弟子であるという事実は、彼を弟子とした時から変わらない。しかし、たくさんの困難を一緒に乗り越え、悟空の真摯な思いにたびたび触れてきた結果、弟子という言葉でくくれきれないほど、三蔵にとって重要な存在となった。そこまではまだ三蔵の理解の及ぶ範囲である。

 二郎真君の御膳立てもあったおかげで、悟空とは時に接吻をする仲となった。悟空から接吻の最中に「好きだ」と言われたことを覚えている。果たして自分は悟空のことが「好き」なのだろうか。わからない。

「見えるぞ見えるぞ、唐僧の本音が。私に話してみるがいい。」

 驚いて振り返った三蔵の目に、視根鏡を携えた二郎真君が映っていた。
 






 
 上気した頬の三蔵が扉を開けて飛び込んできた。三蔵が寝る際に寒くないよう囲炉裏の火で部屋を暖めていた悟空は振り返った。

「悟空!すまなかった。」

 勢いそのまま悟空の胸の中に飛び込んできた三蔵を、悟空は危なげなく抱き留めた。妖怪に攫われた際の救援以外で三蔵がこのように積極的に悟空に近寄ることはほとんどない。八戒も悟浄も目を丸くしている。

「どうしました。」

「私が悪かった。そなたに不安な思いをさせていたのだとやっとわかったのだ。どうか許してほしい。」

 三蔵は悟空の首に腕をまわしたまま続ける。

「顕聖二郎真君のおかげで、私は自分の気持ちをやっとはっきり自覚することができた。本当にありがたい。」

「で、真君は今どこにいるんです?」 

 悟空は周囲の気を探るが二郎真君の気配はない。

「悟空、今はそれよりも私の話を聞いてほしい。」

 三蔵の瞳は熱っぽくらんらんと輝いている。さらに八戒と悟浄がいる中で抱擁してくる三蔵など今まで見たことがない。一体、どういうことだろうか、この熱量は、と訝しんでから悟空ははっと思いあたる。

 おそらく二郎真君が招想奮香を三蔵に使い、催眠にかかっているのだろう。

 三蔵を催眠にかけるのは複雑な気持ちではあるが、悟空のあずかり知らぬところでかかってしまった催眠である。本日一日そっけなくされた傷心を慰めるため、「ラブラブ恋人」気分の三蔵を今しばらく楽しんでも罰は当たらぬに違いない。

 少し余裕の出てきた悟空は師父の顔を覗き込んだ。  

「お師匠様、何の話でしょうか。」

 こころなしかいつもの声より凛々しく響く。

「兄貴がイケボ出してきた。俺あんなの聞いたことねえわ。」

 八戒が面食らっているが、三蔵は自慢顔で言う。

「私と二人きりの時はよくこの声を出してくれる、なあ悟空。」 

「お師匠様……。ちょっと恥ずかしいんですが。」

 悟空が頬をかいた。三蔵はその手を取り、ぎゅっと握った。  

「悟空……。」

 三蔵からじっと見つめられる。あまり覗き込むので三蔵の両眼に戸惑った表情の悟空が映っているのが見える。何度見てもやはり三蔵の瞳は美しい。改まった態度で何か大切な言葉を紡ごうとしている三蔵を、悟空は息を止めて待つ。

「そなたは私の一番弟子。それはこれから何があっても変わらぬ。」

 三蔵の言葉に、かたずをのんでいた悟空は思わず落胆する。改めて言われずともわかっていたはずだが、悟空にとっての三蔵は既に単なる師匠ではない。自分の命を懸けて守るべきこの世で一番大切な人である故、その三蔵との思いの不均衡さにみじめさを感じる。

 思わず目を逸らそうとした悟空の頬を三蔵は抑えた。 

「しかし、私にとってそなたは単なる弟子ではない。心から信頼し、本懐を託しておる。悟空が死ぬときは私が死ぬときじゃ。私の心の中で最も中心にあるのが釈迦牟尼如来と悟空、そなたじゃ。やっと私はそのことに気付けたのだ。」

 釈迦と同じレベルかよ……、と悟空は内心がっかりするが、三蔵にとってできうる限りの恋愛表現なのだろう。たとえ催眠によるものとわかっていても胸に熱いものが込み上げてくる。

「お師匠様……。ありがとうございます。」 

 悟空は胸の前で拳を握り、何度も頷く。

「おい兄弟、兄貴とお師匠様がいちゃついてるぞ、邪魔しないでいいのか。」

 まだ騒動を楽しみたい八戒が無責任に悟浄をけしかける。しかし、憑き物がおりたようなさっぱりした顔で悟浄は言った。

「なんの、催眠は既に解けておる。」 

 驚く一同に我関せず、超然とした体で悟浄は説明する。 

「山道に入って小枝で手を切った際に頭が冴え催眠が解けたのだが、お師匠様に説明するのをこっそり耳にし事態を納得した。大兄とお師匠様の関係の発展のためにここは拙者が一肌脱ぐべきと、演技を続けたのだ。」

「早く言えよそれを、変な汗かいたぜ。」

 安堵する悟空と対照的に八戒は残念そうに鼻を鳴らした。

「なんだ、悟浄は本当に兄貴を抱くつもりだと思ってたのになあ。」

「性欲は人並みにはあれども、情欲は乏しい。行為に移すには無常の諦観の念に耐えられぬ。」

「つまり?」 

「恋愛は面倒だ。」

「なーんだよ、その面倒なところが良いんじゃないか。」

 八戒は悟浄の言い草にあんぐり口をあけた。三蔵は悟浄の顔に指を突きつけて確認した。

「悟浄、本当か。そなたの悟空を見る目には熱があった。まして悟空は誠意のある勇猛な魅力ある男だ。まったく恋愛感情を抱いていないとは思えぬ。」 

「正直に言えば大兄に興味はあります。が、たぐいまれなる神通力の使い手という研究対象としての興味関心です。大兄と同衾したいとは毛ほども思いません。」

「そうなのか……、良かった。」

 安堵する三蔵がもらした笑みはまるで小さな野花が咲いたようである。

「お師匠様が心配するほどおれはモテたことないですから。」

「何を言う。私の……私の一番弟子はっ、……えっと、その、か、格好良いんだぞっ。」

 周囲がしーんとする。三蔵の微妙な表現に、一同は揃って首を傾げた。 

 そこでぱちぱちとゆっくりとした拍手を打ち鳴らし、登場したのは二郎真君である。 

「良かったな、大聖殿、待ちに待った大団円であるな。」 

「どこがだっ、オメー、お師匠様にあの怪しい香を盛っただろう。おかげでお師匠様が妙な様子なんだぞ。」

 二郎真君は目をぱちくりさせて両手を振った。

「香など盛っていない。私は唐僧に大聖殿の想いがどんなに深く、熱いものかを伝え、唐僧においても自分の気持ちを正直に告げなくては大聖殿から愛想をつかされる可能性がある旨を滾々と説諭しただけのこと。そして唐僧に視根鏡に移した自分の顔を見せたのだ。唐僧の顔が埋まるくらい大聖殿への想いが文字で浮かんできたのは実に見物みものであった。」

 お世話になりました、と真っ赤な顔で三蔵は二郎真君に礼を言う。

「それは本当かよ。」

 まだ疑りを隠さない悟空に二郎真君は重ねて言った。

「そもそもあの香は恋人にならせる者が手に載せて嗅がせなくては効果がないのだ。大聖殿は嗅がせていないだろう?」

「確かにそうだな。ってことはお師匠様は素面だったのかよ?」

 悟空は三蔵の両腕をがしっと掴む。

「お師匠様、おとうと弟子もいる前で急にいちゃつき出したのはどういう心境の変化なんです?」 

 三蔵は急に恥ずかしくなってきたらしい。震える声で説明した。

「悟浄の様子を見てたら、あの……、ちょっと羨ましかったのと、顕聖二郎真君からも自分の気持ちに正直になれと助言をいただいたので……な。」

 恋人としての態度としては微妙にずれていた気もするが、三蔵としてはあれが精一杯の態度の軟化であったのだろう。悟空は可愛いやら可笑しいやらで顔がにやけるのを止められなかった。






 初めて本当に役に立った二郎真君は上機嫌で帰っていった。

 その晩、同じ寝台に入り掛布を分けあった悟空と三蔵は、久しぶりにゆったりした気持ちで会話を交わしていた。

「おれがお師匠様の気持ちを疑ったりしたせいで今日は妙なことになっちまいました。申し訳ございません。」

「いや、私が気持ちをはっきり伝えなかったせいだ。すまなかった。いろいろ混乱していたのだ。」

 悟空の左腕は三蔵の頭の下に、右腕は三蔵の腰に回っている。悟空の体温に温められ、今日一日の心労が解けていくのを三蔵は穏やかに感じている。

「へへへ、おれのこと、如来ぐらい大事に思っているというのも本気で言っておられたんですね。」

「まあ……そうだ。」

「お師匠様、もう一回言ってほしいです。」

 三蔵の気持ちを確信したせいか甘えるようにねだってくる悟空に、三蔵の口元は緩む。が、今日一日分の恥はもうかきすぎた。

「二度と言わぬ。」 

「真君に正直に気持ちを言うように言われたんじゃないですかぁ。」

 三蔵は息を一つついた。悟空を手放したくない、手放せないという気持ちは日を追うごとに確実に強まっている。本日の悟浄と悟空の親し気な様子には自分でも驚くほど焦りと怒りを覚えた。仮に悟空に見放されてしまえばもう自分は生きていけぬだろう。視根鏡を持たない我らは自分で気持ちを表現していかなければ相手にわかってもらえないのだ。

「ふぅ……、そなたのことを釈迦牟尼如来と同じくらい大切に思っておる。」

「では、お師匠様は如来とも接吻するんですか。」

 相好を崩しながら悟空に尋ねられ、三蔵は勢いよく否定した。

「しないっ。」 

「おれとは?」

「……する。」

 三蔵は頬を真っ赤に染めながら軽く首を傾けて、そっと唇を合わせた。初めて三蔵からしてくれた接吻に悟空は天にも昇る気持ちである。感動のあまり、わなわなと悟空の肩が震えている。

 相当嬉しかったのだろう。悟空は三蔵の胸に頭を擦り寄せた。顔を隠したまま、悟空はあどけない口調で尋ねた。

「お師匠様、今日悟浄に嫉妬しました?」  

「そうだな。悟空は優しいから悟浄に頼まれたら一緒に寝てしまうのではないかと心配した。」

「心配しなくて大丈夫です。そんなことするはずありません。」

 悟空が上目遣いで三蔵の顔を見上げた。頬を染めている。

「おれにはお師匠様だけです。」

 悟空は軽い接吻をその額に落としながら言った。何気ない悟空の口調の中に秘められた真情を感じ、三蔵は恥ずかしそうに笑った。いいこいいこをするように、悟空の耳の側の毛を優しく撫でてやった。悟空は気持ち良さそうに目を瞑った。

「お師匠様、なぜあの日以来、接吻を避けてたんですか。おれと接吻するの嫌ですか。」

 しばらく柔らかな三蔵の指の感触を楽しみ、勇気が出たのか、悟空はついに核心をついた。三蔵の頬は薄暗がりでもそうとわかるほど赤くなった。

「言いたくない……。」

「お師匠様。」

「顕聖二郎真君から助言を受けたから、仕方なく言うぞ。仕方なくだぞ。」 

 これを言うのは私の本意ではないことはわかってほしい、とさんざん言い訳をしてから、三蔵はぽつりぽつりと事情を説明した。

「そなたとの接吻は、その……あまりにも気持ちが良くて……そなたを離したくなくなるのだ……。悟空の唇は気持ちがいいし、私を抱きしめてくれる腕にも安心する。朝から晩までそなたと接吻していたくなりそうで……この前の三箇条にあった手淫や口淫とやらになだれ込みそうな不安が……しかし具体的な行為はわからぬし、まだそのような心の準備もできておらぬし……怖かったのだ。」

 朴訥な三蔵の欲望の語りに、悟空は筋斗雲で極楽を駆け巡った以上の満足感を得た。催眠と疑うくらい浮ついていたさっきの三蔵も良いが、やはり悟空との恋情に真摯に向き合いながら羞恥に身悶える三蔵に悟空はより慕わしさを感じるようである。 

「お師匠様、そんなことで悩んでいたのですか。」  

「出家の身の私にとっては堕落に陥る道に至らんとする最大の難関だ。」

「大丈夫です。おれが絶対に堕落させません。」 

「頼りにしている、悟空。」

 機会を狙うとすれば今である。悟空は一思いに足を絡めた。腰に回した腕をゆっくりと動かしてみる。

「……っ悟空……。」

 三蔵は拒否するどころか、指先を悟空の頬に添えてついばむように唇を重ねた。曖昧に開かれたその唇に誘われるように舌先を合わせていく。二人が待ち望んでいた接吻がここにあった。

「っんふぅ……。」

「お師匠様……。」

 三蔵のため息は繊細かつ妖艶で、悟空は体中の毛が逆立つような興奮を覚える。 

「ンんっ……ん……悟空……好きだ。」 

 三蔵は改めて真実を口にした。

「お師匠様……、おれも世界と引き換えにしてもいいくらい、お師匠様が大事です。」 

 耳元で囁かれ、その感動と興奮に三蔵の身体が震えたつ。もう何度めかもわからぬまま再び唇を合わせる。

 身体全体が浮き立つような幸福感に包まれて二人は眠った。
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