皇帝は虐げられた身代わり妃の瞳に溺れる

えくれあ

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24. 呼名

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 一番痛む腹部の傷を春燕が持ってきた氷で冷やしてもらい、痛みが和らいだおかげで、重華の表情は随分と穏やかなものになった。
 しかしながら、痛みに耐え続けたことで疲れて眠そうであるにもかかわらず、痛みが邪魔して重華は上手く眠れないでいた。

「すまなかったな」

 ようやく落ち着いた様子の重華に、晧月はぽつりとそう言った。

「これは、陛下のせいでは……」

 腹部の怪我をはじめとする身体の傷のほとんどは、後宮に来る前に父やその家族、使用人たちによってつけられたものだ。
 今日新たに増えた背中の傷は、やはり父がつけたもの。
 晧月は少しでもその痛みを和らげようとしただけであり、重華に怪我を負わせたわけではない。
 それなのになぜ晧月から謝罪の言葉を聞くことになっているのか、重華にはわからなかった。

「朕の所為だ。朕が甘かった……」

 丞相と会った時、重華と会ってしまわないように対策をとるべきだったのだ。
 それなのに、自身に優位に事が運んだことに満足し、苛立ちを抱えた丞相を野放しにしてしまった。
 少し考えれば、そんな丞相の行先など1つしかなかったというのに。
 それを見逃してしまい、重華と接触させてしまったことを、晧月は激しく後悔した。

 それだけではない。
 怪我が治りきっていない状態で、痛みを感じられるようになれ、と言うべきではなかった。
 もし晧月がそんなことを言っていなければ、重華は自分が痛みを感じられていないことに気づかず、もしかしたら今この瞬間も痛みを覚えていなかったかもしれない。
 痛みを感じられないのは決していいことではないけれど、これほど痛みに苦しむくらいなら、今は痛みを忘れていられた方がよかっただろうと思えてならなかった。

「丞相がそなたに会う前、朕と会っていたんだ。朕には、防ぐことができたはずだ」
「そんな……父がこんなことをするなんて、陛下には想像も……」

 重華の言葉に、晧月は首を振る。
 それを見た重華は、驚いて目を見開いた。

「そなたの過去を、少し調べさせてもらった。朕との会話の内容を鑑みれば、その後の丞相の行動など容易に想像できたはずだ」

 全ては晧月の油断が招いたのだと、晧月は重華の前で項垂れた。
 重華は自身の過去が知られていることには驚いたものの、やはり晧月が悪いとは思えなかった。

「私は嬉しかったです」
「何がだ?丞相に暴力を振るわれたことかっ!?」

 すごい剣幕で詰め寄られ、重華は思わずびくびくと震えてしまう。
 それを見て、晧月は慌てて少し距離を取った。

「ああ、すまない、怯えさせるつもりはなかった」

 その場の空気が和らぐのを感じて、重華はほっと息をついた。

「陛下が、助けてくださったので」
「そんなの当たり前だろう、むしろ遅かったくらいだ」

 晧月が当たり前だというその事が、重華には当たり前ではなかった。
 重華にとっての当たり前は、父がどれだけ自身に暴力を振るおうとも誰も助けてはくれないということなのだ。

「はじめて、だったんです。父に暴力を振るわれて、助けてもらったの。いつもは父が満足するまで、耐えるしかなかったから……」

 重華は思い出すだけで震えるような日々を思えば、今日の痛みくらい耐えられそうな気がした。

「すまない」
「あの、だから、陛下のせいでは……」
「それだけではない。そなたにこれだけの事をしたのに、朕は丞相を表立って罰することができない」

 丞相が皇帝から罰を受け、その立場を少しでも危うくすれば、それは即ち皇帝である晧月自身が後ろ盾を失い、帝位を危うくすることに繋がりかねない。
 結局晧月が丞相に対して行えたのは、自身が抱える政務の案件でいくつか晧月の望み通りに丞相が動くことを約束させること、それから決して後宮で重華に近づかないと約束させることだけであり、罰というにはあまりにも軽かった。

「この後宮では二度とこんなことはさせないよう、警備は厳重にさせる。だが、朕にできるのは、それくらいしかない」
「十分です」

 難しいことは理解していない重華も、先日の晧月の説明で二人が決して険悪な関係になってはいけないということは理解したつもりである。
 それでも自分のために動いてくれたということが、重華にはとても嬉しかった。

「私も、ごめんなさい……」
「そなたが謝る事こそ、何もないだろう」

 今この瞬間も、多少和らいだとはいえ痛みに耐え、眠るに眠れない状態である。
 そんな状態の重華に、晧月は謝罪など口にはさせたくなかった。

「いただいた着物、鞭で打たれたせいで、ぼろぼろに……」

 血がついただけではなく、あちこち破れてしまって、元通りにするのは難しくもう着ることはできなくなってしまった。

「そんなこと……」
「画材と手炉のことでいっぱいいっぱいで、着物の事まで頭がまわらなくて……」
「ちょっと待て、何の話だ?」

 着物がぼろぼろになった話だけで終われば、晧月は新しいものをやるから気にするなとでも言って終わらせるつもりだった。
 しかし、そこからどうして画材や手炉の話が出てくるのか、晧月には理解ができなかった。

「まさか……」

 晧月は、重華が丞相の鞭に打たれていた時のことを思い返す。
 あの時は、ただ重華を助けることに必死であまりに気に留めていなかったが、重華は丞相に背を向け、画材と手炉を守るように抱え込んでいたような気もしなくはない。

「まさかとは思うが、あの時、画材と手炉を守っていたのか……?」
「はい」

 当然のように頷きが返り、晧月は頭を抱えたくなった。

「自分の身の危険が迫っている時に、そんなものを守ってどうする!」
「ですが、陛下にいただいた、大切な……」
「画材も、手炉も、それから着物も、駄目になったら新しいものを用意すればいい!それよりそなたの身の安全を優先しろっ!!」

 自分を守るために、画材や手炉を丞相に投げつけて壊したとしても、それで重華が無事だったのなら、晧月は決して怒ったりはしないし、むしろその方がよかった。
 望むなら、代わりのものをいくらだって新調してやるというのに。
 ただ、震えながら必死に画材と手炉を守っていた重華を思うと、やるせない気持ちが押し寄せる。

「物なんかいくら壊れたってかまわない。そなたが無事である事の方が大事なんだ」

 そこまで言うと、ぽろぽろと涙を流す重華が目に入り、晧月はぎょっとする。

「な、なぜ泣く?朕が怒ったからか?それとも、痛みが酷くなったのか?」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 重華自身ももう、自分がなぜ泣いているのか、なぜ謝っているのかもよくわからなかった。
 ただ、いくら涙を止めようと思っても止められないほど、自分の感情を上手く制御できなかった。

「もう二度とこのようなことがないようにするつもりだが、それでも危険な目にあったら、助けを呼べ」

 言葉がきつくなりすぎないように注意しながら、晧月は重華にそう告げる。
 画材や手炉も守ったことも決して褒められた行為ではなかったけれど、晧月はあの時、声をあげず静かに耐え続けていた重華の姿がずっと心にひっかかっていたのだ。

「助け、ですか……?」
「今回だって、近くに春燕や雪梅がいた。そなたが大声を出していたら、二人がすぐに駆けつけたはずだ」
「そんなことをしたら、春燕さんと雪梅さんがお父様に……」

 もし、二人も自分に巻き込まれて、一緒に鞭を受けてしまっていたら。
 重華はそう考えるだけでぞっとした。

「あの二人は武術を身につけている。丞相ごときに、簡単にやられたりはしない。それに、二人でも対処しきれなければ、二人がさらに人を呼ぶなりして、そなたを守ってくれるはずだ」

 流れる涙を拭いながら、もう1人で耐える必要はないのだと晧月は告げる。
 そのことが、さらに重華の涙を溢れさせるような気がした。

「朕だけではない、あの二人も、後宮の衛兵たちも、そなたが危険な目にあっていれば必ずそなたを助ける。だからここでは、ちゃんと助けを呼ぶんだ、いいな」

 涙が止まらない重華をあやすかのように、晧月の手がゆっくりと重華の頭を撫でる。
 重華はただ、こくんと頷くのが精一杯だった。





「陛下」
「なんだ?」
「その、お仕事は、大丈夫なのでしょうか?」

 晧月はその後、眠れない重華に付き合うかのように、重華の手を握っていろんな話をしてくれた。
 たわいもない話から、重華の知らない知識をたくさん得られるような話まで。
 うとうととしながら晧月の言葉に耳を傾けていると、それだけで痛みを忘れられるような気がして、重華には非常にありがたかった。
 けれど、かなりの時間を晧月に使わせてしまった気がして、重華はとても心配になったのだ。

「心配しなくていい。急ぎのものはない、そなたが眠るまでここにいる」

 晧月はなんなら泊まってしまってもいいくらいの気持ちで、今日は傍を離れるつもりはなかった。

「ああ、決して眠るのを急かしているわけではない」

 次は何の話をしようか、そんなことを考えながら晧月は言う。

(だが、眠れた方がいいんだがな……)

 重華は晧月の話を聞きながら、ずっと眠そうにしているのに、痛みが気になるのか未だに眠りにつくことができない。

「まだ、痛みは酷いのか?」
「もうだいぶ楽になりました。久しぶりに痛みを感じたので、ちょっと大袈裟になってしまったかもしれません」
「そんなことはない。それに痛い時は、無理に我慢しなくてもよい」

 重華の怪我は決して軽いものではない。
 むしろ重華はかなり我慢して耐えていたと晧月は思う。

「そうだ、何か褒美を考えないとな」
「はい?」
「痛みを覚えたら、朕に言えと言っておいたの、ちゃんと覚えていたんだろう?」
「あ……」

 重華が最初に鞭による痛みを覚えた時、痛いと声をあげなかったのはまさに晧月のその一言があったからだ。
 最初に痛いと告げる相手は、晧月でなければならないと重華は思っていた。
 そのことを、晧月もちゃんと気づいてくれたのだということが、重華は何より嬉しかった。

「何か欲しいものを考えておけ。用意してやろう」
「もの、じゃなくてもいいですか?」
「別にかまわないが、無理難題はふっかけてくれるなよ。いくら皇帝でも、できないことはある」

 そうは言っても、晧月は重華がそのような願いを言うことなど想像もつかないけれど。
 だが、物以外を打診してくるということは、重華には珍しく何か希望があるのだろうとも思う。
 それは、重華にとってもよい変化だと晧月は思った。

「駄目なら、断ってくださって大丈夫です」
「そうか。では、そなたが回復したら、その望みを聞くとしよう」

 そうして、晧月はまた話題を探し、重華に話を聞かせていく。
 それは晧月の幼い頃のちょっとした話だったり、時には少し難しい学問の話だったり。
 重華はどんな話であっても、興味深そうに耳を傾けていた。

(ようやく、眠れるか……)

 うとうととしていた重華の瞼が、完全に閉じた。
 それでも、まだ眠りについていないかもしれないと、晧月はすぐに話をやめることはしなかった。
 それから少しして、穏やかな寝息が聞こえはじめ、晧月はようやく話すことやめた。

「おやすみ、重華」

 はじめて晧月が対面で呼んだ重華の名前は、重華の耳に届くことはなかった。
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