あじさい

唄色花雨

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あじさい

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 雨が降っている。音が、聞こえる。同棲している恋人が帰ってきたのは、早朝四時近く。俺は、リビングで静かに外の音を聞いていた。部屋の中、カーテンを開けて、だけど、まだまだ暗い。「おかえり」と伝えると、恋人はうつくしい瞳を無感情に俺に向けた。
「何。まだ起きてたのかよ」
「……うん」
「無駄。早く寝ろよ。それとも、俺に何か言いたいことでもある?」
 恋人は、一歩一歩ソファーに近づいて、ソファーの背もたれに手をつくと、座っている俺の顔を覗き込んだ。ふわりと、甘い匂いがした。知らない、石鹸の匂いがした。俺は。冷たい瞳を、見つめ返す。
「何も、ないよ。冷水しみず、あんまり無理すんなよ。顔色、悪い」
 そっと、頬に、ふれる。パシ、と弾かれた。
「触んな」
「ごめん」
 俺は、やんわり笑む。冷水は何も言わずに部屋を出ていった。冷水の自室の扉の開閉音が響いて、俺も、立ち上がる。
 三時間だけ眠り、朝七時。寝足りない気持ちを抑え込んでベッドを抜け出す。リビングの扉を開けると、キッチンに、冷水の姿があった。
「おはよ」
 声をかけると「はよ」と返事がもらえた。裸足のままぺたぺたと近づいて、フライパンの中を覗く。目玉焼きがくつくつ踊って、油が細かく跳ねてジュージュー音を立てている。煙と共に、お腹のすく匂い。ベーコンも一緒に焼かれている。
「おいしそう」
「……早く顔洗いに行け」
「うん」
 フローリングの継ぎ目の感触を踏みながら洗面台で、冷たい水をぱちゃりぱちゃりと顔にかける。鏡を見つめ、自分の瞳と視線を合わせる。しずくが、伝って。おとがいからぽたり、ぽたりと洗面台に垂れた。ぱちゃん。かすかな水音が立つ。まるで、夜中の雨音のように。ぱちゃん、ぱちゃんと、音が立つ。俺を見つめる鏡の中の俺から視線を逸らして、やわらかなタオルで顔を拭く。あたたかい、匂いがした。
 ダイニングテーブルにはすでに料理が並んでおり、椅子に座って、手を合わせる。冷水がコップに水を汲んでふたつ、持ってきた。ひとつを俺の前に置いたので「ありがとう」と伝えると「ん」と返事をして、冷水も向かいの椅子に座って食べ始める。
「今日何時まで?」
「四限、のあとバイト」
「じゃあ二十三時頃か」
「おまえは」
「俺は今日三限までのあと、六限に出て……バイトは十八時から零時まで」
「遅い」
「しょうがないじゃん」
「日付変わるまでに帰ってこい」
「一日六時間は働かないとお金にならない」
「俺が代わりに稼ぐからいい」
「そういうわけにはいかないだろ。そもそも、冷水が朝まで働くのやめろって言うから守ってんだよ。これ以上の譲歩は無理」
 あからさまに不満そうな顔をされる。俺は目を合わせて、ゆったりと笑った。
 その日の夜、また、雨が降った。居酒屋のアルバイト。外からやってきたお客さんが、濡れた傘を持っていたり、濡れた~と言って入ってきたりをしたので、外は雨か、と。窓の外をちらりと見やる。確かに、雨粒がたくさん窓ガラスを叩いて、しずくをくっつけ、だらだらと流れていた。冷水は今日、二十三時までアルバイトだと言っていた。家には、本来なら零時には着いているだろう。けれど。今日も、朝まで帰ってこないと確信した。俺は、バイトの時間を三時間、延長することにした。金曜日の夜。忙しい居酒屋だ。時間延長は喜ばれた。
 深夜三時。バイトを終えて、外に出る。傘は、持っていなかった。折りたたみも、今日に限ってはかばんに入っていない。濡れて帰ろう、と。ずぶ濡れの夜道を、歩き出す。雨がざあざあと降りしきり、やむ気配はない。秋霖の、雨が多い季節だ。仕方がない。地面は鏡のように地上を反射して、キラキラと輝いている。信号機も、街灯も、車のライトも。全部。いつもより、ずっとずっと、煌びやかだ。雨粒が跳ねる音を見つめながら、まとわりつく雨を、じっとりと踏んでいく。
 俺の恋人、冷水心しみずこころは。雨が降ると、浮気をする。理由は知らない。雨の日以外は、普通の恋人。デートはしたことがないし、体の関係だって一切ないけれど。一緒に暮らしている。食事を共にし、お互いの大学生活について報告し合い、テレビで流れる映像を話題にして。おだやかに生活をしていた。冷水が浮気をしてきた日は、甘い匂いがする。知らない、石鹸の匂いもする。いい匂いであると同時に、他人の匂いでもある。その匂いが雨の日にだけついているのだと気がついたのは、付き合って、数ヶ月後の話。それからは雨が降ると、雨の音がすると、雨の、匂いがすると。冷水は今、どこかで知らない誰かと体を重ねているのだろうかと、考える、ようになった。
 出会いは高校三年。俺の通っていた高校は毎年クラス替えがあり、冷水と同じクラスになったのは、初めてだった。冷水は何に対しても冷静で、冷酷だと言われていた。実際、冷水はさまざまなことに冷めている。態度が悪いとか、傲慢だとかも言われていた。冷水は人間に興味がないのだろう。俺は、きっとこの先冷水と関わることなどないだろうと、思っていた。だけど、最初に俺たちが関わるきっかけを作ったのは、冷水のほうだった。
 春のある日の放課後だった。特別教室の清掃中。回転ほうきを手に、床を掃いていた。冷水とは席は少し離れていたけれど班は一緒だったので、当番が一緒だったのだ。人に敬遠されがちな冷水だけれど、冷水は当番をサボったりはしなかった。俺は床を掃きながらふと、視線を上げて、天井から垂れてくる、蜘蛛を見つけた。光が反射して、一本の糸がきらりと光る。蜘蛛は、俺の目の高さまでやってきた。もしこのまま床まで到達したら、ほうきで掃かれるか、人の足で踏まれて死んでしまうと思い、ほうきをそばに立てかけ、手を伸ばして、甲に、蜘蛛を乗せた。足の長い、薄い色の蜘蛛。ちょこまかと動くちいさな命を、落としてしまわないように両手でもちょもちょと掬いながら、空いている窓から外へと出した。ふっと下まで落ちていくのを見送って、ついでに、はらりと舞った何かの花びらも、見送って。再びほうきを持って、掃除を続けた、ときだった。
「今、何した?」
 聞きなれない声に、ぱっと顔を上げた。立っていたのは、冷水。俺はびっくりして、意味もなくまばたきを繰り返していた。相手はうつくしい瞳で、俺を見下ろしていた。
「……何、って?」
 どの行動のことを言っているのかわからず、じっと見つめ返したままに固まった。
「……何か、外に出したろ」
「ああ……蜘蛛が、上から垂れてきたから。踏まれる前にと思って。踏まれなくても。また人前に出て見つかったら殺されちゃうだろ」
「……ふぅん」
 冷水はそれだけ言って、ふいっと歩いていき、掃除を再開した。残された俺は、なんだったんだろ、と思いながらも、ほうきを、動かした。
 それからだ。冷水がふとしたとき、話しかけてくるようになった。拒否する理由もなく、俺も普通に会話をした。人となりを知るほどには話す機会はないため、俺にとっての冷水はよくわからない奴、程度で止まっていた。話しかけてくるのはいつも冷水のほうで、俺から話しかけたこともなかったのだけれど、夏休みも、明けた頃。風紀委員の仕事で服装チェックの当番が回ってきて、初めて俺から冷水に話しかけた。
「冷水」
 登校してきたばかりの相手を呼びとめた。冷水はわかりにくく、驚いたような顔をした。
「服装点検。もうブレザー着ないとダメだよ。あと、シャツ出し厳禁」
 冷水はわずかに眉をひそめた。
「おまえ、そういうこと言うんだ」
「俺だって言いたくないけど。風紀委員の仕事だから」
「ふぅん」
 冷水はじっと俺を見下ろしてから、バカにするみたいに、ハッと鼻で笑った。
「聞く気ねぇから、何も言う必要ねぇよ。言いたくねぇんだろ?」
「そうだけど。朝のホームルーム終わるまででいいから。そのあとは俺だって見ないフリしとくよ」
「……やだね」
 はん、と笑って、冷水は歩いて行ってしまった。
 関わりは、それからも続いた。俺から話しかけるようにもなった。これといって、決定的な何かがあったわけではないけれど。いつの間にか、冷水に好意を抱くようになっていた。好きだって思った。けれどその想いをひた隠しにして、何食わぬ顔で、友人と呼んでいいのかもわからないような関係を続けた。
 卒業が近づくにつれて、冷水は女の子に呼び出しを受ける回数が増えた。今までも冷水は冷たいのにモテるという噂が飛び交ってはいたけれど、呼び出され、教室を出ていく冷水をよく見るようになっていた。冷たい、冷酷、傲慢だと言われる冷水は、告白も容赦なく切り捨てているらしかった。何人も、女の子が泣いていると。それも、噂だったけれど。一部の女の子の、冷水を見る目は冷たいので、嘘ではなかったのだと思う。冷水が女の子と一緒にいるのを見るたびに、告白か、と。ひとり、心の中で考えていた。もうすぐ卒業で、大学は、冷水とは離れることを知っていた。俺は、冷水の連絡先だって知らなかった。このまま疎遠になって、もう二度と、道が交わることはないのだろうと、思った。だから。最後に気持ちを伝えたいっていう、ありきたりな理由で。告白を、したのだ。教室の清掃を終え、用具を片付けるとき。そのへんで、他の人がわらわらと何か盛り上がっているのを、聞きながら。
「俺、冷水のことが好きだよ」
 意味は、きっと。ぱっと、伝わった。卒業間際のその時期。冷水は散々告白をされていた。友達としての好きではないことくらい、あからさまだっただろう。俺は用具入れをバッタンと閉じて、見上げた。冷水は、真顔だった。うつくしい瞳が、感情をなくして、俺を見ていた。目を、逸らさず、冷水が話すのを待った。だけどそれよりも先に掃除終了の声かけをされ、当番のみんなはそれぞれ荷物をまとめ出した。俺も、それにならってかばんを、持ち上げた。
「……おまえ、趣味悪いんだな」
 人の捌けた教室。ふたりきりの、教室。冷水は自分のかばんを持って、俺のそばに寄った。
「なんで俺? おまえなら、もっといっぱい、いるだろーに」
「……なんで、だろうな」
 相手は表情を変えなかった。びっくりするくらい、無だった。そこに、人の感情は感じられなかった。今までも告白をされたら、こんな顔を、していたのだろうかと思った。これは確かに、女の子も泣くだろうと思った。男の俺だって、普通にこわかった。
「……なんでかわかんねぇの? 顔がいいとか、スタイルがいいとかあんだろ」
「……ないかな」
「聞くけどよ」
「うん」
「好きだから、何?」
 声にも。感情が乗っていない。怒っているのか、わずらわしいと思っているのかどうかすら、伝わってこない。ただ、冷たい。冷たいと思う。
「……何も、ない。好きだって、だけ」
「俺が迷惑するってわかんねぇの?」
「ごめん。最後だから、悲しいくらい、フラれておこうと思って。俺さ、冷水と話すの、結構好きなんだよ。話しかけてくれるの、嬉しかったし。俺から話しかけるようになったら、それも、嬉しかった。おまえのことは俺、正直全然、知らないし、わかんないんだけど」
 じっと見つめたまま、破顔した。
「楽しかった。些細な、会話が。それってさ。好きになるには、充分すぎる、理由じゃないかなって。今、思ったよ」
 リュックを、背負って。教室を出て行こうとしたとき。感情の灯らない声が、響いた。
「付き合ってやろうか」
 足は、ピタッと止まった。耳を疑う言葉だった。足を、ゆっくり動かして、冷水を見た。冷水は、笑っていない目で、無理矢理、笑った。冷ややかな、笑みだった。俺は思わず「何に?」と聞いた。
「恋人。なってもいい」
「……それ、本気で言ってる?」
「言ってるけど。俺、おまえと恋人になっても、他の奴と遊ぶよ」
 一歩、一歩。ゆったりと、冷水は俺に近づいた。
「別に、いいけど」
「いいの? 浮気もするけど」
 すた、と。俺の目の前。冷水は立ち止まって。俺の顔を、見下ろした。ブリリアントカットの宝石のような瞳を、俺は至近距離で、目を丸くして、見つめるしかできなかった。キラキラと、どこまでもうつくしく、光が反射する瞳は。この世のものとは、思えなかった。
「おまえと付き合っても、他の奴と関係を持つことを、やめねぇ」
「……冷水、彼女、いんの?」
「いるわけねぇだろ。けど、セックスする相手はいる」
「せ……」
 ズドンと頭の中、ひんやりして、重たくなった。冷水は嘲笑を浮かべて、消さなかった。
「どうすんの? 言っておくけど、俺は浮気するけど、おまえに浮気する権利はねぇからな」
 閉口した。自分はよくて、俺はダメ、らしかった。する気も、なかったけれど。
「わかった。それでいいから、俺と付き合ってよ」
「……正気か?」
「正気、ではないかも。だけど、卒業しても、連絡取れる、なら」
「……それ、友達でいいだろ」
「かもね。でも、好きって気持ちがあるんなら。対等に、友達なんてできないと思うから。恋人の位置にいてもいいなら、いさせてよ」
 その日のうちに、連絡先を交換した。一緒に下校するようになった。教室での、会話も増えた。デートとかは一切なかったし、手すら繋がないような清い関係だったけれど。それでも俺は、この状況に、満足していた。冷水は何も言わなかった。やっぱりやめるとか、別れるとか、退屈、つまらない。そういったことは一度も言わなかった。浮気の兆候は、あった。その日は必ず、俺と一緒には帰ってくれなかった。その日は必ず、雨が降っていた。俺は、何も言わなかった。浮気をしてもいいからと、了承したのは俺だった。だから。話ができるなら、それでいいやって。正直、高校を卒業すると同時に、疎遠になると思ったのに。ルームシェアをすることになって、大学を通うのに苦ではない立地にふたりで部屋を借りて。そのまま、もう二年以上の月日が過ぎた。俺たちはお互いに、雨の日のことにふれない。雨の日の冷水は機嫌が悪く、いつにも増して鋭利な空気を纏うけれど。それでも俺は、何も言わない。冷水も何も言わない。だけどそれでいい。俺は、冷水と話すのが好きだ。一緒にいるのが、好きだ。から。冷水がもう恋人をやめようと言うまで。楽しく、過ごしていたい。
 びちゃびちゃのまま、マンションまで帰ってくる。エントランスをくぐり抜け、床が、濡れる。雨の音は、激しいままだけれど、エントランスはしんとしていて、薄暗い。このびしょ濡れの状態でエレベーターに乗るのは申し訳なかったので、階段を使う。かん、かん、かん。静かすぎる、無の中に。響く、鉄が響く音。俺が歩くたび、水で濡れる。寒かった。雨は冷たかった。風も、冷たかった。空気が、すっかり秋だった。もうすぐ、冬が、くるのかと。ぼんやり思いながら、自分の部屋の階。扉の前、ぐっしょりのかばんから鍵を出し、解錠する。扉を開いて、目を丸くした。リビングの、電気がついているのが、ドアの採光窓から射し込んで、真っ暗な廊下をわずかに明るくしていた。ぐじゅりと音の鳴る靴に張りつく足をなんとか出して。濡れた靴下で、ベチョ、ベチョ、歩いていく。まるで、巨大なナメクジが這ったみたいに、廊下が、濡れた。扉をそっと、開き、覗く。
「ただ、いま」
 冷水は、ダイニングテーブルの椅子に座っている。俺に、背を向けていたけれど。立ち上がって、ゆらりとこちらを向いた。一歩、一歩。乾いた歩き方で、俺の前に立つ。俺を見下ろす、瞳は、暗い。暗いのに、やっぱり宝石みたいにうつくしく、輝いている。
「日付変わるまでって言ったよな?」
 あまりにも、冷たい声だった。それに、顔色も悪い。
「……ごめん。冷水、今日は絶対、帰ってこないと思ったから」
「なぁ、最初に言ったよな? 俺は浮気をするけど、おまえにその権利はねぇんだよって」
「浮気じゃなくて、バイトを三時間延長したんだって」
「俺が時間通り帰らなかったとして、その間に勝手してもバレなきゃいいって思ってんのが腹立つんだよ。連絡ひとつ入れることもできねぇの?」
「……入れても、朝帰りの日は、返事もくれないだろ。既読すらつかない」
「言い訳すんな」
 俺は、ほんのり笑みを浮かべる。
「ごめん、冷水」
「思ってもない謝罪なんていらねぇ」
 吐き捨てるように言われて、ハッと笑われる。顔は、背けられ、沈黙が落ちる。俺はじっと、冷水を見上げたまま、見つめる。ぽたりと、しずくが落ちる。髪から、おとがいから。次々落ちて、床を濡らして、雨音みたいな、音を立てる。ぱた、ぱた。降り初めの、雨のようなその音は。外から聞こえる、ざんざん降りの雨音に、混ざる。冷水は足を動かして、洗面所へと消えていった。俺は、立ち尽くして、寒さにふるりと震え、ひとつ、くしゃみをする。シャワーを浴びて、着替えようかと、思ったところで。ふわりと、嗅ぎ慣れた匂いが、頭をつつんだ。やわらかな、タオルだった。その上から、大きな手がふたつ、わしゃわしゃと、動く。そういえば、今日は。冷水から、甘い匂いも、知らない石鹸の匂いも、しなかった。
 濡れた髪をある程度拭かれたあとは、ひたいを拭われ、頬を、つつまれた。両手で。初めてだった。こんなふうに、ふれられること。そっと、見上げてみる。見つめる。冷たい、温度のない、瞳を。無表情の、冷水を。俺は、今も。冷水がわからない。何も、わからないままだ。それでも好きなのは。わからないから、だろうか。
「冷水、俺に何か、言いたいこと、ある?」
 冷水は、手を、とめた。俺の頬を。タオル越しに、つつんだまま。タオル越し、なのに。人間の、温度を感じて。冷水はちゃんと、血のかよった、生きた人間なんだ、なんて。おかしなことを、考えた。冷水は、何も言わなかった。言わないままに、何を思ったのか。俺の頬を、痛いほどにつつんだまま、噛みつくみたいに、キスをしてきた。息を、とめた。冷水は、角度を変えて、何度も何度も俺の唇にくちづける。俺は、喉を反らして、首の痛みを感じながら、かかとを上げて、苦しい息のまま、冷水の服を、ぐしゃっと握りしめた。自分の体が冷えているせいか。冷水の唇が熱く感じる。パッと解放されて、胸を押されて、俺は、よろよろうしろに下がり、暗い廊下にひっくり返るみたいに、尻餅をついた。ぐじゅりと濡れた、音がする。部屋の光を背負って立つ、冷水の姿は。逆光になって、暗く、表情がうまく、読み取れない。息を、乱しながら、ぼやける視界で、冷水を見上げる。冷水は、濡れた床を踏んで、俺のそばにしゃがみ込むと、片手で、俺のおとがいを痛いほどに掴んで、瞳を、覗き込んだ。
「おまえは、俺のになってんだよ、とっくに。次、同じことあったら。部屋に繋いで二度と外には出さねぇからな。理解しとけよ、なぁ、泉」
 視界が、にじんで。ゆらゆら揺れた。ほろりと、流れたひとつのしずくは。雨の粒ではない。その、しずくを。親指でぐっと拭われた。俺は。じんと、自分のではない体温の残る、震える唇を、動かす。
「冷水、俺、ずっとおまえが好きだよ、ずっと、これからも、一緒でいいって、ことだよな?」
 腕を伸ばして。首元。縋りつくみたいに、抱きしめた。冷水は、ぐしょぐしょの俺の背を、片手でひとつ、撫でる。そうしていつものように、冷たく笑った。
「……趣味悪ぃ。なんで俺だよ。なぁ。まだわかんねぇまま?」
「わかんないよ。だって、冷水のことだってなんにも、わかんないんだから。でも、いいよ、それで、いいから。これからも、ずっとずっと、大好きだから。冷水は、今までのままで、いていいから」
 ぬくもりと、知っている、石鹸の匂いに安堵する。
 冷水からだった。関わり合いも、会話も、恋人になる提案も、連絡先の交換も、下校の提案も、ルームシェアの提案も、全部、全部。冷水からだった。それだけでよかった。それ以上のものなど、俺には。必要なかったのだ。
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