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第四章

七色の架け橋

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 木々をかき分けながら二人は森の中を駆け抜ける。

 幼い頃の記憶をたどるように、幸村は木漏れ日の中を走り続けた。
 目線の高さこそ違えど、目に飛び込んでくる風景は全く変わっていなかった。
 懐かしさを噛み締める幸村。気づかぬうちに口元が綻んでいた。

 「あともう少し……この森を抜ければ一気に灯台のところまで行ける」
 「灯台のところまで行けば……」
 「虹に会える。世界で一番大きくて綺麗な虹に……」
 「そんなにハードル上げて大丈夫?」
 「感じ方は人それぞれだから、保証はしないけど……」
 「そうじゃなくって、虹が出ていないってこともあるでしょ? 相手は気まぐれな自然現象なんだから……」
 「それは大丈夫」
 「どうしてそう言い切れるの?」
 「俺がそう言ったから」

 心配げに問う沙苗に、幸村は堂々と答えた。

 「何よそれ……」
 「ここに強く感じるんだ。絶対に俺達を待ってる。虹は決して裏切らない」

 幸村は自信に満ちた表情でそう言うと、自らの胸を何度か叩いてみせた。
 沙苗が呆れたように溜息をつく。

 「科学的な根拠は全くのゼロだけど、信じてあげる」
 「信じれば奇跡だって起きる。有名な科学者も言ってただろ?」
 「知らないよ、そんなの」
 「さ、あそこを抜けると森が終わる。行くぞ!」

 幸村が前方の大きな樹木を指さすと、走る速度を一段回シフトアップさせた。

 「ちょっと、待ってよ」 遠ざかる背中を呼び止めようとしたが無駄であった。
 「もう……」

 自分を置き去りにした男に頬を膨らませると、少女は先を行く背中を追いかけた。
 全速力の幸村が最後の樹木の壁を突破すると、眩しい光とともに一気に視界が広がった。

 緑の絨毯の向こうに真っ白な灯台が見える。その向こうには紺碧の海が広がり、水平線の上の真っ青なスクリーンには――

 「虹だ……」

 赤、橙、黄、緑、青、藍、紫……どの色も欠けること無く、虹は空一面に君臨していた。

 まるで二人が来るのを待っていたかのように……
 息を切らしながら追いついた沙苗が、目の前に広がる壮大な光のスペクトルと対面する。

 「きれい……」

 少女は感嘆の声を上げると言葉を無くしてしまったかのように、鮮やかな七色の架け橋に視線を釘付けにしていた。

 「な、虹はちゃんとあっただろ?」
 「うん……」

 沙苗が嬉しそうに頷いた。

 「ちゃんとコーイチの言ったとおりになったね」
 「信じてくれたからだよ、沙苗が」
 「あ、初めて名前で呼んだ……」

 幸村が無意識のうちに口にしたファーストネームに、少女がふと現実に戻る。

 「そ、そうだったっけ?」
 「そうだよ」

 的確な指摘に、幸村は少し恥ずかしそうに頬を赤らめた。

 「それに、信じれば奇跡が起きるって言ってくれたのは、あなたよ」
 「まあ、な……でも」
 「でも?」
 「まだ終わりじゃないんだ」
 「終わりじゃないって、どういうこと?」
 「お前の星座は?」

 幸村の唐突な質問に、沙苗は戸惑いを顕にする。

 「か、蟹座だけど、それがいったい……」
 「おめでとう。朝のテレビの占いで、今日の蟹座の運勢は最高だって言ってた」
 「ありがとう。でも、それがどうして……?」

 幸村は少女の質問に答える代わりに虹の方を指さす。
 それに釣られるように視線を移動させた沙苗が、驚愕に大きく目を見開いていた。

 「凄い……虹がもう一つあるよ!」

 いつのまに出現したのか――最初にあった虹の上に、さらに大きな虹が架かっていた。

 「虹が二つあるなんて、初めて見たわ」
 「二重の虹は滅多に見られるもんじゃないんだけど……運が良かったみたいだな」
 「ちなみにコーイチの星座は?」
 「山羊座……今日の運勢はワースト。女性とのトラブル、修羅場に注意だって」
 「占いって意外に当たるのね」

 二人は小さく笑い合うと芝生の上に腰を下ろす。
 そして肩を並べて寄り添うと、どちらからともなく手を握り合った。
 重なり合う手の感触を最初は恐る恐る……次第にお互いの手の温もりを楽しむように握り合っていた。

 「ねえ……」

 沙苗が二つの虹を見つめたまま、甘えたような声を上げる。

 「ん?」
 「ひょっとしてだけど……私のこと口説こうと思ってる?」
 「迷惑なら中断するけど……」
 「中断しなくっていいわよ……ねえ、知ってる?」
 「何が?」
 「こういうの、ストックホルム症候群って言うのよ。極限化の状況で犯人と被害者の間に愛情が芽生えるんだって」
 「でも、この場合……どっちが犯人でどっちが被害者なんだろう」

 幸村の疑問に、沙苗が迷い無く答えた。

 「どっちも犯人だと思うよ」

 幸村はそっと沙苗の肩を抱き寄せる。
 少女は拒むこと無く幸村にもたれかかった。
 二人は何も言葉にすること無く少しの間、虹の向こうに広がる海を眺め続けた。
 どれくらいそういただろう……沙苗は遠い水平線を見ながらぽつりと呟いた。

 「私、あなたとキスがしたくなってきた……」
 「奇遇だ。俺も同じことを考えていた」
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