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八話
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秋光(しゅうこう)は硝子戸を透過し、書架の背表紙を琥珀色に染め上げていた。
あの日以来、稀覯本室の空気は以前にも増して静まり返り、睦貴の指先はどこか所在なげに空を切ることが増えていた。和糊の匂いも、羊皮紙の感触も、今はただ睦貴の孤独を強調する装置でしかない。
「――修復師殿。そんな暗い顔をしていては、本の文字が逃げ出してしまうぞ」
懐かしい、薄荷を混ぜたような低音が響く。
睦貴が顔を上げると、そこには以前と変わらぬ端正な佇まいの玖島が立っていた。だが、その手には資料ではなく、一つのみかんが握られている。
「……玖島さん。また、勝手に」
「今日は謝罪に来たのだ。君に無断で、僕という劇薬を過剰に投与したことへのね」
玖島は睦貴の隣に腰を下ろし、みかんを机に置いた。
睦貴は視線を逸らしたが、自身の心臓が早鐘を打つのを止められない。玖島の指先が、みかんの鮮やかな橙色の皮をゆっくりと剥き始める。
刹那、鋭い柑橘の香りが爆ぜた。
それは停滞していた書庫の空気を一変させ、睦貴の閉ざされた肺腑を力強く押し広げる。皮から飛散した微細な雫が、睦貴の頬に触れた。
「あ……」
「この香りは、どんな古書の記述よりも雄弁だと思わないか。理屈を抜きにして、今ここに『生』があることを教えてくれる」
玖島は一房の果実を分けると、それを睦貴の唇へと運んだ。
睦貴は拒もうとしたが、玖島の瞳に宿る真摯な熱に射すくめられ、吸い込まれるように口を開く。
舌の上で果肉が弾け、甘酸っぱい汁が溢れ出した。
それは嫉妬や羞恥で焼けついていた睦貴の喉を、優しく、しかし容赦なく潤していく。睦貴の目尻に、熱いものが込み上げた。
「……玖島さんは、本当にずるい人です。言葉で私を追い詰めて、今度はこんなもので誤魔化して」
「誤魔化してなどいない。僕はただ、君という難解なテキストを一生かけて読み解きたいだけだ」
玖島の手が、睦貴の頬を包み込んだ。
親指が睦貴の唇に残った雫を、ゆっくりと拭い去る。その指の震えを、睦貴は初めて感じ取った。自信に満ち溢れているはずの玖島が、自分と同じように臆病な熱を抱えている。
「睦貴。君は壊れた本を直すが、僕との間にできた傷は、直すのではなく、新しく書き換えてはくれないか」
「……書き換えるなんて、そんなこと、私には……」
「二人で綴ればいい。不器用な翻訳の続きを」
睦貴は、玖島のシャツの胸元を掴んだ。
今度は拒絶するためではなく、二度と離さないためだ。睦貴の指先は、玖島の体温を媒介にして、確かな生命の拍動を掴み取っていた。
二人の影が、琥珀色の光の中でゆっくりと重なり合う。
重なり合った唇からは、薄荷の香りと蜜柑の甘酸っぱさが混じり合い、言葉にならない誓いとなって溶け合っていった。
「……愛している、とは言わないのですね」
「ああ。その言葉は、君が僕を完全に修復してくれた時に、取っておこう」
玖島は睦貴の髪に深く指を沈め、満足げに微笑んだ。
窓の外では、秋の風が木々を揺らし、黄金色の葉が舞い踊っている。
稀覯本室の静寂は、もはや死者の沈黙ではない。これから綴られる、二人のための新しい物語の余白として、そこに豊かに広がっていた。
あの日以来、稀覯本室の空気は以前にも増して静まり返り、睦貴の指先はどこか所在なげに空を切ることが増えていた。和糊の匂いも、羊皮紙の感触も、今はただ睦貴の孤独を強調する装置でしかない。
「――修復師殿。そんな暗い顔をしていては、本の文字が逃げ出してしまうぞ」
懐かしい、薄荷を混ぜたような低音が響く。
睦貴が顔を上げると、そこには以前と変わらぬ端正な佇まいの玖島が立っていた。だが、その手には資料ではなく、一つのみかんが握られている。
「……玖島さん。また、勝手に」
「今日は謝罪に来たのだ。君に無断で、僕という劇薬を過剰に投与したことへのね」
玖島は睦貴の隣に腰を下ろし、みかんを机に置いた。
睦貴は視線を逸らしたが、自身の心臓が早鐘を打つのを止められない。玖島の指先が、みかんの鮮やかな橙色の皮をゆっくりと剥き始める。
刹那、鋭い柑橘の香りが爆ぜた。
それは停滞していた書庫の空気を一変させ、睦貴の閉ざされた肺腑を力強く押し広げる。皮から飛散した微細な雫が、睦貴の頬に触れた。
「あ……」
「この香りは、どんな古書の記述よりも雄弁だと思わないか。理屈を抜きにして、今ここに『生』があることを教えてくれる」
玖島は一房の果実を分けると、それを睦貴の唇へと運んだ。
睦貴は拒もうとしたが、玖島の瞳に宿る真摯な熱に射すくめられ、吸い込まれるように口を開く。
舌の上で果肉が弾け、甘酸っぱい汁が溢れ出した。
それは嫉妬や羞恥で焼けついていた睦貴の喉を、優しく、しかし容赦なく潤していく。睦貴の目尻に、熱いものが込み上げた。
「……玖島さんは、本当にずるい人です。言葉で私を追い詰めて、今度はこんなもので誤魔化して」
「誤魔化してなどいない。僕はただ、君という難解なテキストを一生かけて読み解きたいだけだ」
玖島の手が、睦貴の頬を包み込んだ。
親指が睦貴の唇に残った雫を、ゆっくりと拭い去る。その指の震えを、睦貴は初めて感じ取った。自信に満ち溢れているはずの玖島が、自分と同じように臆病な熱を抱えている。
「睦貴。君は壊れた本を直すが、僕との間にできた傷は、直すのではなく、新しく書き換えてはくれないか」
「……書き換えるなんて、そんなこと、私には……」
「二人で綴ればいい。不器用な翻訳の続きを」
睦貴は、玖島のシャツの胸元を掴んだ。
今度は拒絶するためではなく、二度と離さないためだ。睦貴の指先は、玖島の体温を媒介にして、確かな生命の拍動を掴み取っていた。
二人の影が、琥珀色の光の中でゆっくりと重なり合う。
重なり合った唇からは、薄荷の香りと蜜柑の甘酸っぱさが混じり合い、言葉にならない誓いとなって溶け合っていった。
「……愛している、とは言わないのですね」
「ああ。その言葉は、君が僕を完全に修復してくれた時に、取っておこう」
玖島は睦貴の髪に深く指を沈め、満足げに微笑んだ。
窓の外では、秋の風が木々を揺らし、黄金色の葉が舞い踊っている。
稀覯本室の静寂は、もはや死者の沈黙ではない。これから綴られる、二人のための新しい物語の余白として、そこに豊かに広がっていた。
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