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夕暮れ時、東雲家の荒れ果てた門前に、一台の黒塗りの自動車が停まった。
かつては「花の東雲」と謳われた名家も、今や見る影もない。瓦は剥げ、庭の松は枯れ果て、ただ風だけが虚しく吹き抜けている。
その門を、重い軍靴のような足音を響かせて潜る男が一人。新興財閥の総帥、獅子王零慈である。
「ここか。鼠の巣のような場所だな」
零慈は眉間に深い皺を刻み、吐き捨てるように呟いた。
彼の背後には、黒眼鏡をかけた屈強な男たちが数人、威圧的な沈黙を守って控えている。
対する家主、東雲馨は、縁側に座って何をしていたか。
彼は破れた障子の隙間から差し込む西日を浴びながら、一心不乱に「何か」を待っていた。
「どなたか存じ上げませんが、靴を脱いで上がってください。畳が傷みます」
馨の声は、鈴を転がしたように涼やかであった。
零慈は呆気にとられた。借金の取り立てに来た魔王に対し、この没落貴族は何という呑気な口を利くのか。
零慈は土足のまま縁側へ歩み寄り、懐から一枚の書面を取り出した。
「東雲馨。貴様の父が遺した借金、利子を含めて天文学的な数字になっている。今日中に払えぬのであれば、この家も、そして貴様の身柄も、私が預かることになる」
零慈の冷徹な声が、静まり返った屋敷に響く。
しかし、馨の視線は零慈の顔にはなかった。
零慈の部下が脇に抱えていた、桐の箱に釘付けになっていたのである。
「それは……虎屋の羊羹ではありませんか」
馨の鼻翼が微かに膨らむ。
竹皮の包みから漏れ出る、あの濃厚な小豆の香りと、砂糖の結晶が奏でる甘い誘惑。
馨の胃袋が、不作法にも「ぐう」と鳴った。
「貴様、俺の話を聞いているのか。これは貴様の人生の瀬戸際なのだぞ」
「存じております。ですが獅子王殿とお呼びすればよろしいかな、その羊羹、賞味期限はいつまでです? 湿気てしまう前に、まずは茶でも淹れましょう。話はそれからです」
馨はすっくと立ち上がると、零慈の腕を掴んだ。
白く、細い指先。その指が零慈の分厚い上着に触れた瞬間、零慈の肩がびくりと震えた。
彼は冷徹な取り立て人を装っているが、実のところ、幼少期に一度だけ見かけた馨の美しさに、十数年もの間「執着」し続けてきた男である。
「……触るな。不潔だ」
零慈は突き放すような言葉を吐きながらも、その場から動けない。
馨の瞳は、まるで硝子玉のように澄み渡り、零慈の黒い欲望など微塵も映していない。
「さあ、こちらへ。座布団はありませんが、板の間なら涼しいですよ」
「おい、契約書を読め! 印を突けと言っているんだ!」
「はいはい、判子ですね。台所の引き出しにあったはずです。それより獅子王殿、羊羹を切るための菓子切りを持ってきていただけますか? 私は手が震えて、上手く切れないものですから」
馨の「天然」という名の暴力の前に、獅子王零慈のプライドは音を立てて崩れ始める。
彼は舌打ちを一つ。そして、部下から桐箱を奪い取ると、自ら包みを解き始めた。
夕闇が迫る中、没落貴族と冷酷な実業家は、借金の相談をする代わりに、行儀良く並んで羊羹を食すこととなった。
甘美な餡が舌の上で溶ける。馨は法悦の表情を浮かべ、喉を「くう」と鳴らした。
その無防備な首筋に、零慈は凶暴な独占欲を覚えながら、自分の分まで馨の皿へと差し出す始末である。
「獅子王殿、貴方は実に……実に徳の高いお方だ」
馨の指先が、誤って零慈の手の甲に触れる。
熱い。
零慈の体温は、冬を越せぬ没落貴族にとって、何よりも抗いがたい蜜の味であった。
かつては「花の東雲」と謳われた名家も、今や見る影もない。瓦は剥げ、庭の松は枯れ果て、ただ風だけが虚しく吹き抜けている。
その門を、重い軍靴のような足音を響かせて潜る男が一人。新興財閥の総帥、獅子王零慈である。
「ここか。鼠の巣のような場所だな」
零慈は眉間に深い皺を刻み、吐き捨てるように呟いた。
彼の背後には、黒眼鏡をかけた屈強な男たちが数人、威圧的な沈黙を守って控えている。
対する家主、東雲馨は、縁側に座って何をしていたか。
彼は破れた障子の隙間から差し込む西日を浴びながら、一心不乱に「何か」を待っていた。
「どなたか存じ上げませんが、靴を脱いで上がってください。畳が傷みます」
馨の声は、鈴を転がしたように涼やかであった。
零慈は呆気にとられた。借金の取り立てに来た魔王に対し、この没落貴族は何という呑気な口を利くのか。
零慈は土足のまま縁側へ歩み寄り、懐から一枚の書面を取り出した。
「東雲馨。貴様の父が遺した借金、利子を含めて天文学的な数字になっている。今日中に払えぬのであれば、この家も、そして貴様の身柄も、私が預かることになる」
零慈の冷徹な声が、静まり返った屋敷に響く。
しかし、馨の視線は零慈の顔にはなかった。
零慈の部下が脇に抱えていた、桐の箱に釘付けになっていたのである。
「それは……虎屋の羊羹ではありませんか」
馨の鼻翼が微かに膨らむ。
竹皮の包みから漏れ出る、あの濃厚な小豆の香りと、砂糖の結晶が奏でる甘い誘惑。
馨の胃袋が、不作法にも「ぐう」と鳴った。
「貴様、俺の話を聞いているのか。これは貴様の人生の瀬戸際なのだぞ」
「存じております。ですが獅子王殿とお呼びすればよろしいかな、その羊羹、賞味期限はいつまでです? 湿気てしまう前に、まずは茶でも淹れましょう。話はそれからです」
馨はすっくと立ち上がると、零慈の腕を掴んだ。
白く、細い指先。その指が零慈の分厚い上着に触れた瞬間、零慈の肩がびくりと震えた。
彼は冷徹な取り立て人を装っているが、実のところ、幼少期に一度だけ見かけた馨の美しさに、十数年もの間「執着」し続けてきた男である。
「……触るな。不潔だ」
零慈は突き放すような言葉を吐きながらも、その場から動けない。
馨の瞳は、まるで硝子玉のように澄み渡り、零慈の黒い欲望など微塵も映していない。
「さあ、こちらへ。座布団はありませんが、板の間なら涼しいですよ」
「おい、契約書を読め! 印を突けと言っているんだ!」
「はいはい、判子ですね。台所の引き出しにあったはずです。それより獅子王殿、羊羹を切るための菓子切りを持ってきていただけますか? 私は手が震えて、上手く切れないものですから」
馨の「天然」という名の暴力の前に、獅子王零慈のプライドは音を立てて崩れ始める。
彼は舌打ちを一つ。そして、部下から桐箱を奪い取ると、自ら包みを解き始めた。
夕闇が迫る中、没落貴族と冷酷な実業家は、借金の相談をする代わりに、行儀良く並んで羊羹を食すこととなった。
甘美な餡が舌の上で溶ける。馨は法悦の表情を浮かべ、喉を「くう」と鳴らした。
その無防備な首筋に、零慈は凶暴な独占欲を覚えながら、自分の分まで馨の皿へと差し出す始末である。
「獅子王殿、貴方は実に……実に徳の高いお方だ」
馨の指先が、誤って零慈の手の甲に触れる。
熱い。
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