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二話
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黒塗りの自動車は、赤坂の喧騒を離れ、鬱蒼とした森に囲まれた石造りの邸宅へと滑り込んだ。
獅子王零慈の城である。
車を降りた東雲馨は、目の前にそびえ立つルネサンス様式の建築を見上げ、その白磁のような肌を微かに上気させた。
「これは、実に見事な要塞ですな。獅子王殿、この石材は花崗岩でしょうか。それとも、私の空腹が見せる幻影でしょうか」
「……花崗岩だ。幻影を食おうとするな。行くぞ」
零慈は馨の細い手首を掴み、大理石の床を乱暴な足音で進む。
広い玄関ホールには、重厚な油絵の具と、磨き抜かれた蜜蝋の匂いが立ち込めていた。
零慈の掌から伝わる体温は、馨の薄い皮膚を通して、心臓の鼓動を急き立てる。
彼は馨を二階の最奥にある一室へと突き飛ばした。
「今日からここが貴様の檻だ。一歩も外へ出ることは許さん。窓には格子、扉には鍵。貴様の自由は、今この瞬間、私のポケットの中へ消えたのだ」
零慈は銀の鍵を指先で弄び、冷酷な薄笑いを浮かべる。
没落した貴公子の、絶望に染まる顔を拝む瞬間を、彼は十年以上も夢見てきた。
しかし、馨の反応は、零慈の予想という名の精密機械を粉々に粉砕した。
「おやおや。この絨毯、足が沈み込んでしまうではありませんか。まるで雲の上を歩いているようだ。獅子王殿、私は今、極楽浄土に迷い込んだのでしょうか」
馨は床に膝をつき、ペルシャ絨毯の毛並みを愛おしげに撫でている。
彼の指先は、絹のような滑らかさを確認し、うっとりと目を細めた。
零慈の喉元が、苛立ちと困惑で引き攣る。
「聞いているのか。貴様は監禁されたのだぞ。もっとこう、泣き叫んだり、私の足元に縋り付いたりしたらどうだ」
「泣き叫ぶ? なぜです。屋根があり、床には見事な絨毯。それに見てください、あの寝台(ベッド)。あのような大きな枕、東雲の家を売っても買えませんよ。むしろ私の方が、獅子王殿に縋り付いてお礼を申し上げたいくらいです」
馨は軽やかな身のこなしで立ち上がると、零慈の鼻先まで顔を寄せた。
長い睫毛が揺れ、墨を流したような瞳が零慈を射抜く。
零慈は思わず半歩退いた。彼の胸の内では、支配欲が羞恥心へと姿を変え、耳たぶまで赤く染め上げている。
「お、礼など要らん! 貴様はただ、私の言いなりになれば良いのだ」
「承知しました。では、最初のご命令をいただけますか」
「……何だと」
「風呂は、いつ入ればよろしいでしょうか。それから、先ほどの羊羹が少々喉に詰まっておりまして。冷えた麦茶などあれば、私はもう、獅子王殿の忠実な下僕として、この部屋から一歩も出ないと誓いましょう」
馨は、喉仏を小さく上下させた。
その無防備な仕草に、零慈の理性が微かな悲鳴を上げる。
彼は舌打ちを一つ、廊下で控えていた執事に向かって、不機嫌極まりない声を張り上げた。
「おい、茶だ! それから最高級の茶菓子を用意しろ! 風呂の温度は四十一度だ。一分でも遅れたら、この屋敷ごと焼き払ってやる!」
「かしこまりました、旦那様」
執事の慇懃な一礼。
零慈は馨を睨みつけ、踵を返して部屋を出ようとした。
扉を閉める間際、彼は背後から聞こえてきた馨の独り言を、地獄の業火に焼かれるような心地で耳にする。
「ああ、獅子王殿は実に情け深いお方だ。顔は般若のようですが、心は観音様そのものだ……」
鍵をかける手の震えを、零慈は止めることができなかった。
彼は書斎へ戻るなり、冷えた酒を煽る。
監禁しているのは自分のはずだ。檻の中にいるのは馨のはずだ。
しかし、どうしてこうも、自分の心臓の方が鎖で縛られたように苦しいのか。
深夜、零慈は抜き足差し足で、馨の部屋を訪れた。
予備の鍵で音を立てずに扉を開ける。
そこには、月光を浴びながら、巨大な枕を抱きしめて泥のように眠る馨の姿があった。
その寝顔は、この世の苦悩をすべて忘れ去ったかのように安らかである。
零慈はベッドの端に腰を下ろし、馨の額にかかる髪を、熱を持った指先でそっと払った。
馨が「くう」と小さく鼻を鳴らし、無意識に零慈の手を求めて指を絡めてくる。
「……馬鹿め。毒を盛られているかもしれんと、疑いもしないのか」
零慈は呪文のように毒づきながらも、夜が明けるまで、その温かい指先を離すことができなかった。
復讐と執着の物語は、滑稽なまでの甘さを孕んで、音もなく加速していく。
獅子王零慈の城である。
車を降りた東雲馨は、目の前にそびえ立つルネサンス様式の建築を見上げ、その白磁のような肌を微かに上気させた。
「これは、実に見事な要塞ですな。獅子王殿、この石材は花崗岩でしょうか。それとも、私の空腹が見せる幻影でしょうか」
「……花崗岩だ。幻影を食おうとするな。行くぞ」
零慈は馨の細い手首を掴み、大理石の床を乱暴な足音で進む。
広い玄関ホールには、重厚な油絵の具と、磨き抜かれた蜜蝋の匂いが立ち込めていた。
零慈の掌から伝わる体温は、馨の薄い皮膚を通して、心臓の鼓動を急き立てる。
彼は馨を二階の最奥にある一室へと突き飛ばした。
「今日からここが貴様の檻だ。一歩も外へ出ることは許さん。窓には格子、扉には鍵。貴様の自由は、今この瞬間、私のポケットの中へ消えたのだ」
零慈は銀の鍵を指先で弄び、冷酷な薄笑いを浮かべる。
没落した貴公子の、絶望に染まる顔を拝む瞬間を、彼は十年以上も夢見てきた。
しかし、馨の反応は、零慈の予想という名の精密機械を粉々に粉砕した。
「おやおや。この絨毯、足が沈み込んでしまうではありませんか。まるで雲の上を歩いているようだ。獅子王殿、私は今、極楽浄土に迷い込んだのでしょうか」
馨は床に膝をつき、ペルシャ絨毯の毛並みを愛おしげに撫でている。
彼の指先は、絹のような滑らかさを確認し、うっとりと目を細めた。
零慈の喉元が、苛立ちと困惑で引き攣る。
「聞いているのか。貴様は監禁されたのだぞ。もっとこう、泣き叫んだり、私の足元に縋り付いたりしたらどうだ」
「泣き叫ぶ? なぜです。屋根があり、床には見事な絨毯。それに見てください、あの寝台(ベッド)。あのような大きな枕、東雲の家を売っても買えませんよ。むしろ私の方が、獅子王殿に縋り付いてお礼を申し上げたいくらいです」
馨は軽やかな身のこなしで立ち上がると、零慈の鼻先まで顔を寄せた。
長い睫毛が揺れ、墨を流したような瞳が零慈を射抜く。
零慈は思わず半歩退いた。彼の胸の内では、支配欲が羞恥心へと姿を変え、耳たぶまで赤く染め上げている。
「お、礼など要らん! 貴様はただ、私の言いなりになれば良いのだ」
「承知しました。では、最初のご命令をいただけますか」
「……何だと」
「風呂は、いつ入ればよろしいでしょうか。それから、先ほどの羊羹が少々喉に詰まっておりまして。冷えた麦茶などあれば、私はもう、獅子王殿の忠実な下僕として、この部屋から一歩も出ないと誓いましょう」
馨は、喉仏を小さく上下させた。
その無防備な仕草に、零慈の理性が微かな悲鳴を上げる。
彼は舌打ちを一つ、廊下で控えていた執事に向かって、不機嫌極まりない声を張り上げた。
「おい、茶だ! それから最高級の茶菓子を用意しろ! 風呂の温度は四十一度だ。一分でも遅れたら、この屋敷ごと焼き払ってやる!」
「かしこまりました、旦那様」
執事の慇懃な一礼。
零慈は馨を睨みつけ、踵を返して部屋を出ようとした。
扉を閉める間際、彼は背後から聞こえてきた馨の独り言を、地獄の業火に焼かれるような心地で耳にする。
「ああ、獅子王殿は実に情け深いお方だ。顔は般若のようですが、心は観音様そのものだ……」
鍵をかける手の震えを、零慈は止めることができなかった。
彼は書斎へ戻るなり、冷えた酒を煽る。
監禁しているのは自分のはずだ。檻の中にいるのは馨のはずだ。
しかし、どうしてこうも、自分の心臓の方が鎖で縛られたように苦しいのか。
深夜、零慈は抜き足差し足で、馨の部屋を訪れた。
予備の鍵で音を立てずに扉を開ける。
そこには、月光を浴びながら、巨大な枕を抱きしめて泥のように眠る馨の姿があった。
その寝顔は、この世の苦悩をすべて忘れ去ったかのように安らかである。
零慈はベッドの端に腰を下ろし、馨の額にかかる髪を、熱を持った指先でそっと払った。
馨が「くう」と小さく鼻を鳴らし、無意識に零慈の手を求めて指を絡めてくる。
「……馬鹿め。毒を盛られているかもしれんと、疑いもしないのか」
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