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三話
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翌朝、東雲馨を待ち受けていたのは、銀の盆に載った一椀の「蜜豆」であった。
獅子王零慈は、豪華な朝食を期待して目を輝かせる馨を、書斎の机越しに冷然と見下ろした。
彼は昨晩、寝付けぬ頭で策を練ったのである。誇り高き華族の末裔に、下卑た庶民の甘味を突きつけ、その自尊心がひび割れる音を聞いてやろうという魂胆であった。
「食え。東雲の家では、朝から鯛でも食っていたのだろうが、我が家では私の命じたものが掟だ。不服なら、その空腹を抱えたまま、床に頭を擦りつけるがいい」
零慈はわざとらしく、重厚な革張りの椅子に深く身を沈めた。
しかし、馨は椀の中を覗き込むなり、春の陽だまりのような微笑を浮かべたのである。
「これは……蜜豆、でございますね? 獅子王殿、貴方はもしや、私の心の内を透視する術でもお持ちなのですか」
「……何だと」
「東雲の家には、鯛を焼く炭どころか、塩を買う銭もございませんでした。私は、この赤や白の求肥(ぎゅうひ)が、夜空の星のように遠い存在だと、半ば諦めていたのです」
馨は、塗り物ではなく安価な硝子鉢の中で揺れる、寒天の角を見つめた。
スプーンを手に取る指先が、微かな期待に震えている。
彼は、零慈の冷徹な視線など露知らず、黒蜜の海に浮かぶ赤えんどう豆を、一粒、慎重に口へと運んだ。
その瞬間、馨の喉が細く鳴った。
鼻腔を抜けるのは、濃厚な黒糖の香気と、豆のほのかな土の匂いだ。
冷えた寒天が舌の上で滑り、心地よい冷涼感を残して喉の奥へと消えていく。
「ああ、獅子王殿。この甘み、この食感……まさに『雪解けの至福』です」
「貴様、恥を知れ。それは縁日の露店で売られているような、卑俗な菓子なのだぞ。もっと屈辱に顔を歪めたらどうだ。私は貴様の惨めな姿が見たいのだ!」
「惨め? まさか。これほどの贅沢を前にして、不満を漏らすなどバチが当たります。見てください、この寒天の透明度。私の心根よりもずっと、澄み渡っているではありませんか」
馨は、蜜の絡んだ寒天を、まるで秘宝でも扱うかのように大切そうに掬い取った。
零慈の目論見は、ここで完全に瓦解した。
彼は立ち上がり、馨の座る椅子の背もたれを激しく叩いた。
「嘘をつけ! 貴様、私を揶揄っているのか。そんなにそれが美味いと言うなら、私が全部捨ててやってもいいのだぞ!」
零慈は馨の腕を掴もうと手を伸ばしたが、馨が幸せそうに目を細め、最後の一粒を愛おしげに頬張る姿を見て、その指先は空中で硬直した。
馨の口角には、一滴の黒蜜が真珠のように輝いて残っている。
零慈の心臓が、鐘を打ち鳴らしたような衝撃で跳ねた。
支配したいというどす黒い情念が、その蜜の雫を拭ってやりたいという、切実な熱情へと変質していく。
「獅子王殿? 貴方の顔、先ほどから夕焼けのように赤うございますよ。もしや、蜜豆が食べたかったのですか」
「馬鹿を言え! 俺が、こんな、子供騙しの甘いものなど……っ」
「それはいけません。食わず嫌いは、人生の半分を捨てるも同義です。ほら、私のスプーンにはまだ、蜜が残っておりますよ」
馨は、あろうことか自分が使ったスプーンを、零慈の唇へと差し出した。
零慈は、反射的にそれを手で払いのけようとしたが、馨の無垢な視線に射すくめられ、ただ喉を鳴らすことしかできなかった。
馨の指先から漂う、甘く懐かしい香りに、零慈の鉄の理性がじりじりと溶かされていく。
「……もういい。朝食の時間は終了だ」
零慈は絞り出すような声でそう告げると、逃げるように書斎を後にした。
背後からは、「明日の朝は、お汁粉などがよろしいですね」という馨の屈託のない声が追いかけてくる。
廊下を歩く零慈の足音は、もはや覇者のそれではなく、恋に惑う青年のように覚束ないものであった。
獅子王零慈は、豪華な朝食を期待して目を輝かせる馨を、書斎の机越しに冷然と見下ろした。
彼は昨晩、寝付けぬ頭で策を練ったのである。誇り高き華族の末裔に、下卑た庶民の甘味を突きつけ、その自尊心がひび割れる音を聞いてやろうという魂胆であった。
「食え。東雲の家では、朝から鯛でも食っていたのだろうが、我が家では私の命じたものが掟だ。不服なら、その空腹を抱えたまま、床に頭を擦りつけるがいい」
零慈はわざとらしく、重厚な革張りの椅子に深く身を沈めた。
しかし、馨は椀の中を覗き込むなり、春の陽だまりのような微笑を浮かべたのである。
「これは……蜜豆、でございますね? 獅子王殿、貴方はもしや、私の心の内を透視する術でもお持ちなのですか」
「……何だと」
「東雲の家には、鯛を焼く炭どころか、塩を買う銭もございませんでした。私は、この赤や白の求肥(ぎゅうひ)が、夜空の星のように遠い存在だと、半ば諦めていたのです」
馨は、塗り物ではなく安価な硝子鉢の中で揺れる、寒天の角を見つめた。
スプーンを手に取る指先が、微かな期待に震えている。
彼は、零慈の冷徹な視線など露知らず、黒蜜の海に浮かぶ赤えんどう豆を、一粒、慎重に口へと運んだ。
その瞬間、馨の喉が細く鳴った。
鼻腔を抜けるのは、濃厚な黒糖の香気と、豆のほのかな土の匂いだ。
冷えた寒天が舌の上で滑り、心地よい冷涼感を残して喉の奥へと消えていく。
「ああ、獅子王殿。この甘み、この食感……まさに『雪解けの至福』です」
「貴様、恥を知れ。それは縁日の露店で売られているような、卑俗な菓子なのだぞ。もっと屈辱に顔を歪めたらどうだ。私は貴様の惨めな姿が見たいのだ!」
「惨め? まさか。これほどの贅沢を前にして、不満を漏らすなどバチが当たります。見てください、この寒天の透明度。私の心根よりもずっと、澄み渡っているではありませんか」
馨は、蜜の絡んだ寒天を、まるで秘宝でも扱うかのように大切そうに掬い取った。
零慈の目論見は、ここで完全に瓦解した。
彼は立ち上がり、馨の座る椅子の背もたれを激しく叩いた。
「嘘をつけ! 貴様、私を揶揄っているのか。そんなにそれが美味いと言うなら、私が全部捨ててやってもいいのだぞ!」
零慈は馨の腕を掴もうと手を伸ばしたが、馨が幸せそうに目を細め、最後の一粒を愛おしげに頬張る姿を見て、その指先は空中で硬直した。
馨の口角には、一滴の黒蜜が真珠のように輝いて残っている。
零慈の心臓が、鐘を打ち鳴らしたような衝撃で跳ねた。
支配したいというどす黒い情念が、その蜜の雫を拭ってやりたいという、切実な熱情へと変質していく。
「獅子王殿? 貴方の顔、先ほどから夕焼けのように赤うございますよ。もしや、蜜豆が食べたかったのですか」
「馬鹿を言え! 俺が、こんな、子供騙しの甘いものなど……っ」
「それはいけません。食わず嫌いは、人生の半分を捨てるも同義です。ほら、私のスプーンにはまだ、蜜が残っておりますよ」
馨は、あろうことか自分が使ったスプーンを、零慈の唇へと差し出した。
零慈は、反射的にそれを手で払いのけようとしたが、馨の無垢な視線に射すくめられ、ただ喉を鳴らすことしかできなかった。
馨の指先から漂う、甘く懐かしい香りに、零慈の鉄の理性がじりじりと溶かされていく。
「……もういい。朝食の時間は終了だ」
零慈は絞り出すような声でそう告げると、逃げるように書斎を後にした。
背後からは、「明日の朝は、お汁粉などがよろしいですね」という馨の屈託のない声が追いかけてくる。
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