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四話
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翌朝の獅子王邸。窓外には、霧に濡れた石楠花(しゃくなげ)が重たげに頭を垂れている。
零慈は、執事が用意した最高級の縮緬(ちりめん)を小脇に抱え、馨の寝室の扉を蹴るようにして開いた。
支配とは、対象の肌を覆う布一枚に至るまで、己の意志を介在させることに他ならない。彼は昨夜、独り書斎でそう結論づけたのである。
「起きろ、東雲。今日からは、その薄汚れた着物は脱ぎ捨てろ。私が選んだものを、私の手で着せてやる」
馨は、まだ眠気の残る眼を擦りながら、のろのろと上体を起こした。
はだけた胸元から覗く鎖骨は、朝の光を吸って、陶器のような滑らかさを呈している。
零慈は、喉の奥に熱い塊がせり上がるのを感じた。
「おや。獅子王殿自らお着替えを? それは恐悦至極。東雲の家では、自分一人で帯を締めるのも一苦労でしたから」
馨は、赤子のようになすがままに両腕を広げる。
零慈は鼻息荒く馨に歩み寄り、高価な布をその肩に掛けた。
指先が微かに、馨の項(うなじ)に触れる。冷たいはずの肌は、驚くほど柔らかな弾力を持って、零慈の指を拒まなかった。
しかし、問題はここからであった。
零慈は、これまでの人生で、己の軍服や背広を整えることには長けていたが、他人の、それも和服の帯を締めるという繊細な作業など、一度も経験したことがない。
彼は馨の腰に腕を回し、帯を力任せに引き絞った。
「……獅子王殿、少々、苦しゅうございます。胃の腑が口から飛び出しそうだ」
「黙れ。これは貴様を縛る戒めだ。緩みなどあってはならん」
零慈は必死であった。額には脂汗が滲み、呼吸はいつの間にか獣のように荒くなっている。
右へ通すべき端を左へ通し、結び目を作ろうとしては解ける。
その様子を、開いた扉の陰から、老執事が音もなく見守っていた。
執事の眉根が、微かに、しかし確かに憐憫の情を持って動く。
「旦那様。もしよろしければ、私がお手伝いを……」
「下れ! これは俺とこいつの勝負だ!」
零慈は怒鳴り散らしたが、その拍子に足元に転がっていた組紐に足を引っかけた。
ぐらりと視界が揺れる。
彼は馨の細い腰を抱き込んだまま、厚い絨毯の上へと倒れ込んだ。
目の前に、馨の顔がある。
馨は、床に押し付けられた格好になりながらも、相変わらず春の海のような瞳で零慈を見つめていた。
鼻先が触れ合うほどの距離。
馨の吐息には、朝食に供されたはずの白湯の、清潔な匂いが混じっている。
「獅子王殿。もしやこれは、西洋の『れすりんぐ』という戯れですか? 帯を締めるよりも、こちらの方が、貴方はお上手なようだ」
「違う! 貴様、いい加減にしろ……っ」
零慈は馨の肩を掴み、その唇を塞いでやりたい衝動に駆られた。
だが、扉の向こうで執事がわざとらしく「おやおや」と言わんばかりに咳払いをした。
零慈は跳ね起きると、乱れた衣服を整えることも忘れ、脱兎のごとく部屋を飛び出した。
後に残されたのは、半ば帯に縛られたまま、芋虫のように床を転がる馨と、静かに冷めた笑みを浮かべる執事のみである。
馨は、天井の豪奢なシャンデリアを眺めながら、満足げに独り言ちた。
「獅子王殿の熱い抱擁。案外、冬の暖炉よりも温かかったな」
その言葉が、廊下を走る零慈の耳に届いたかどうか。
彼の顔面は、今や没落した東雲家の、どの家宝よりも赤く輝いていた。
零慈は、執事が用意した最高級の縮緬(ちりめん)を小脇に抱え、馨の寝室の扉を蹴るようにして開いた。
支配とは、対象の肌を覆う布一枚に至るまで、己の意志を介在させることに他ならない。彼は昨夜、独り書斎でそう結論づけたのである。
「起きろ、東雲。今日からは、その薄汚れた着物は脱ぎ捨てろ。私が選んだものを、私の手で着せてやる」
馨は、まだ眠気の残る眼を擦りながら、のろのろと上体を起こした。
はだけた胸元から覗く鎖骨は、朝の光を吸って、陶器のような滑らかさを呈している。
零慈は、喉の奥に熱い塊がせり上がるのを感じた。
「おや。獅子王殿自らお着替えを? それは恐悦至極。東雲の家では、自分一人で帯を締めるのも一苦労でしたから」
馨は、赤子のようになすがままに両腕を広げる。
零慈は鼻息荒く馨に歩み寄り、高価な布をその肩に掛けた。
指先が微かに、馨の項(うなじ)に触れる。冷たいはずの肌は、驚くほど柔らかな弾力を持って、零慈の指を拒まなかった。
しかし、問題はここからであった。
零慈は、これまでの人生で、己の軍服や背広を整えることには長けていたが、他人の、それも和服の帯を締めるという繊細な作業など、一度も経験したことがない。
彼は馨の腰に腕を回し、帯を力任せに引き絞った。
「……獅子王殿、少々、苦しゅうございます。胃の腑が口から飛び出しそうだ」
「黙れ。これは貴様を縛る戒めだ。緩みなどあってはならん」
零慈は必死であった。額には脂汗が滲み、呼吸はいつの間にか獣のように荒くなっている。
右へ通すべき端を左へ通し、結び目を作ろうとしては解ける。
その様子を、開いた扉の陰から、老執事が音もなく見守っていた。
執事の眉根が、微かに、しかし確かに憐憫の情を持って動く。
「旦那様。もしよろしければ、私がお手伝いを……」
「下れ! これは俺とこいつの勝負だ!」
零慈は怒鳴り散らしたが、その拍子に足元に転がっていた組紐に足を引っかけた。
ぐらりと視界が揺れる。
彼は馨の細い腰を抱き込んだまま、厚い絨毯の上へと倒れ込んだ。
目の前に、馨の顔がある。
馨は、床に押し付けられた格好になりながらも、相変わらず春の海のような瞳で零慈を見つめていた。
鼻先が触れ合うほどの距離。
馨の吐息には、朝食に供されたはずの白湯の、清潔な匂いが混じっている。
「獅子王殿。もしやこれは、西洋の『れすりんぐ』という戯れですか? 帯を締めるよりも、こちらの方が、貴方はお上手なようだ」
「違う! 貴様、いい加減にしろ……っ」
零慈は馨の肩を掴み、その唇を塞いでやりたい衝動に駆られた。
だが、扉の向こうで執事がわざとらしく「おやおや」と言わんばかりに咳払いをした。
零慈は跳ね起きると、乱れた衣服を整えることも忘れ、脱兎のごとく部屋を飛び出した。
後に残されたのは、半ば帯に縛られたまま、芋虫のように床を転がる馨と、静かに冷めた笑みを浮かべる執事のみである。
馨は、天井の豪奢なシャンデリアを眺めながら、満足げに独り言ちた。
「獅子王殿の熱い抱擁。案外、冬の暖炉よりも温かかったな」
その言葉が、廊下を走る零慈の耳に届いたかどうか。
彼の顔面は、今や没落した東雲家の、どの家宝よりも赤く輝いていた。
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