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五話
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深夜、獅子王邸を支配するのは、氷のように冷ややかな月光であった。
零慈は書斎で、数多の帳簿を前にしながら、一向に捗らぬ仕事に筆を投じた。隣室に監禁している「獲物」の静寂が、かえって彼の鼓動を騒がしくさせる。
不意に、彼は胸を騒がせる予感に突き動かされ、馨の部屋の扉を開いた。
そこには、もぬけの殻となった寝床が、月の光を浴びて白々と横たわっているだけだった。
「……逃げたか」
零慈の指先が、怒りか、あるいはそれ以外の何かで激しく震えた。
彼は上着を掴むと、夜気に濡れた庭園へと飛び出した。
誇り高き籠の鳥が、ついにその翼を広げたのだ。追わねばならぬ。捕らえ、その足首にさらに重い鎖を繋がねばならぬ。
迷路のような生垣を抜けた先、噴水の傍らに、白い人影が揺れているのを見つけた。
「待て、東雲! どこへ行くつもりだ!」
零慈の声は、夜の静寂を切り裂く刃のように鋭く響いた。
逃走者は、肩をびくりと揺らして振り返る。月光に照らされた馨の顔は、驚きに目を見開いていた。
「これは獅子王殿。このような夜更けに、貴方もお散歩ですか」
「散歩なものか! 貴様、私を裏切ってこの屋敷を去るつもりだろう。私の手の届かぬ場所へ、その足で行こうというのか」
零慈は馨の肩を掴み、乱暴に引き寄せた。
馨の体温は、夜露に冷やされながらも、芯の方では確かな熱を帯びている。零慈は、その熱を逃すまいと、指先に力を込めた。
馨は困ったように眉を寄せ、視線を彷徨わせる。
「去る? まさか。私はただ、失われた『秘宝』を探していただけですよ」
「秘宝だと。宝石か、それとも東雲家の再興に必要な書類か」
「いえ。……握り飯です」
零慈の思考が、一瞬停止した。
掴んでいた肩から力が抜け、彼は呆然と馨の顔を見つめる。
「……何だと言った」
「ですから、握り飯です。夕餉の折、執事殿がこっそり私に持たせてくださった、あの塩加減の絶妙な握り飯ですよ。明日の朝まで待てず、少しばかり頂こうと思ったのですが……不覚にも、どこへ隠したか忘れてしまいまして」
馨は切実な溜息をつき、足元の草むらを恨めしそうに見つめた。
逃走の決意に満ちた没落貴族の姿を想像していた零慈にとって、その返答はあまりに、あまりに俗悪であった。
「貴様は……貴様という男は! 私がどれほどの覚悟で、この闇を走ってきたと思っている!」
「獅子王殿、そんなに大声を出すと、握り飯が怯えて出てこなくなりますよ。それより貴方も、一緒に探していただけませんか。確か、この石灯籠の影に……」
「探すか! 貴様など、空腹のまま夜風に吹かれていろ!」
零慈は吐き捨てたが、その足は部屋へ戻ろうとはしなかった。
彼は憤怒を押し殺しながら、懐から一枚の清潔なハンカチを取り出すと、馨の足元に落ちていた「白い包み」を無言で拾い上げた。
「……これか」
「ああ! 獅子王殿、貴方はやはり観音様だ。私の救世主だ!」
馨は歓喜の声を上げ、零慈の手に縋り付いた。
零慈は、差し出された握り飯を馨の口に押し込むようにして与えた。
馨がそれを幸せそうに咀嚼し、喉を「くう」と鳴らすたび、零慈の胸の中にあった昏い情念は、所在を失って霧散していく。
「美味いか、東雲」
「はい。これ以上の美味は、この世にございません」
「……ならば、明日からは三食と言わず、四食でも五食でも用意させてやる。だから、二度と夜中に徘徊するな。私の心臓が持たん」
零慈は、馨の頬に付いた米粒を、親指の腹でそっとなぞった。
馨は猫のようにその手に頬を寄せ、月明かりの下、穏やかな眠りへと誘われていく。
零慈は、己の支配が「食欲」という名の細い糸で辛うじて繋がっていることに、深い溜息をつくしかなかった。
零慈は書斎で、数多の帳簿を前にしながら、一向に捗らぬ仕事に筆を投じた。隣室に監禁している「獲物」の静寂が、かえって彼の鼓動を騒がしくさせる。
不意に、彼は胸を騒がせる予感に突き動かされ、馨の部屋の扉を開いた。
そこには、もぬけの殻となった寝床が、月の光を浴びて白々と横たわっているだけだった。
「……逃げたか」
零慈の指先が、怒りか、あるいはそれ以外の何かで激しく震えた。
彼は上着を掴むと、夜気に濡れた庭園へと飛び出した。
誇り高き籠の鳥が、ついにその翼を広げたのだ。追わねばならぬ。捕らえ、その足首にさらに重い鎖を繋がねばならぬ。
迷路のような生垣を抜けた先、噴水の傍らに、白い人影が揺れているのを見つけた。
「待て、東雲! どこへ行くつもりだ!」
零慈の声は、夜の静寂を切り裂く刃のように鋭く響いた。
逃走者は、肩をびくりと揺らして振り返る。月光に照らされた馨の顔は、驚きに目を見開いていた。
「これは獅子王殿。このような夜更けに、貴方もお散歩ですか」
「散歩なものか! 貴様、私を裏切ってこの屋敷を去るつもりだろう。私の手の届かぬ場所へ、その足で行こうというのか」
零慈は馨の肩を掴み、乱暴に引き寄せた。
馨の体温は、夜露に冷やされながらも、芯の方では確かな熱を帯びている。零慈は、その熱を逃すまいと、指先に力を込めた。
馨は困ったように眉を寄せ、視線を彷徨わせる。
「去る? まさか。私はただ、失われた『秘宝』を探していただけですよ」
「秘宝だと。宝石か、それとも東雲家の再興に必要な書類か」
「いえ。……握り飯です」
零慈の思考が、一瞬停止した。
掴んでいた肩から力が抜け、彼は呆然と馨の顔を見つめる。
「……何だと言った」
「ですから、握り飯です。夕餉の折、執事殿がこっそり私に持たせてくださった、あの塩加減の絶妙な握り飯ですよ。明日の朝まで待てず、少しばかり頂こうと思ったのですが……不覚にも、どこへ隠したか忘れてしまいまして」
馨は切実な溜息をつき、足元の草むらを恨めしそうに見つめた。
逃走の決意に満ちた没落貴族の姿を想像していた零慈にとって、その返答はあまりに、あまりに俗悪であった。
「貴様は……貴様という男は! 私がどれほどの覚悟で、この闇を走ってきたと思っている!」
「獅子王殿、そんなに大声を出すと、握り飯が怯えて出てこなくなりますよ。それより貴方も、一緒に探していただけませんか。確か、この石灯籠の影に……」
「探すか! 貴様など、空腹のまま夜風に吹かれていろ!」
零慈は吐き捨てたが、その足は部屋へ戻ろうとはしなかった。
彼は憤怒を押し殺しながら、懐から一枚の清潔なハンカチを取り出すと、馨の足元に落ちていた「白い包み」を無言で拾い上げた。
「……これか」
「ああ! 獅子王殿、貴方はやはり観音様だ。私の救世主だ!」
馨は歓喜の声を上げ、零慈の手に縋り付いた。
零慈は、差し出された握り飯を馨の口に押し込むようにして与えた。
馨がそれを幸せそうに咀嚼し、喉を「くう」と鳴らすたび、零慈の胸の中にあった昏い情念は、所在を失って霧散していく。
「美味いか、東雲」
「はい。これ以上の美味は、この世にございません」
「……ならば、明日からは三食と言わず、四食でも五食でも用意させてやる。だから、二度と夜中に徘徊するな。私の心臓が持たん」
零慈は、馨の頬に付いた米粒を、親指の腹でそっとなぞった。
馨は猫のようにその手に頬を寄せ、月明かりの下、穏やかな眠りへと誘われていく。
零慈は、己の支配が「食欲」という名の細い糸で辛うじて繋がっていることに、深い溜息をつくしかなかった。
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