6 / 8
六話
しおりを挟む
午後の陽光が、獅子王邸の広大な庭園を黄金色に染め上げていた。
東雲馨は、邸内の植栽を手入れに来た若き部下、鹿目(かなめ)と対峙していた。鹿目は零慈の秘蔵っ子であり、その実直な気性と、何より春の若草を思わせる爽やかな容貌で知られている。
馨は、鹿目が差し出した一輪の芍薬(しゃくやく)を手に取り、その花弁の重なりを熱心に観察していた。
「鹿目殿、この紅の深さは、まるで熟した苺のようですね。見てください、この瑞々しさを」
「馨様にお気に召していただければ幸いです。旦那様は厳しいお方ですが、この庭の花々だけは、貴方のためにと、ことのほか気にかけておいでですから」
鹿目の声には、若者らしい素直な敬愛が籠もっていた。
二人の間に流れる穏やかな空気。それを二階のテラスから見下ろしていた獅子王零慈の胸中には、今や黒々とした毒液が滴り落ちている。
零慈の手は、大理石の手摺りを砕かんばかりに握りしめられていた。彼の視界は、馨の柔らかな指先が鹿目の手に触れるたび、血のような朱色に染まる。
猜疑心(さいぎしん)とは、一度芽生えれば、日光を遮る巨木のごとく心を支配するものだ。
零慈は階段を駆け下りると、芝生を乱暴に踏み越えて二人の間に割って入った。
「鹿目! 貴様に与えた仕事は、花の手入れではなく、北方の鉱山に関する報告書の作成だったはずだ。持ち場を離れる不届き者が、我が社に必要だと思うか」
零慈の声は、冬の北風よりも冷たく、鋭い。
鹿目は顔を蒼白にし、深く頭を垂れてその場を去った。
残されたのは、不機嫌を全身から放つ巨人と、不思議そうに首を傾げる没落貴族のみである。
「おや、獅子王殿。鹿目殿はただ、お花の解説をしてくださっていただけですよ。そんなに怒ると、眉間の皺が定住してしまいます」
「黙れ。貴様は、誰にでもそのように卑しく笑いかけるのか。私の目の届かぬところで、他の男に鼻を鳴らしていると思うと、反吐が出る」
零慈は馨の腕を掴むと、力任せに自らの胸元へと引き寄せた。
馨の鼻腔を突いたのは、午後の日差しに熱せられた上質なウールの匂いと、零慈が愛用する白檀(びゃくだん)の、重厚でどこか寂しげな香りだ。
馨は、零慈の心臓が、まるで逃げ場を失った野鼠(のねずみ)のように激しく、不規則に跳ねているのを感じ取った。
「獅子王殿。貴方の顔、先ほどよりもさらに赤うございますよ。ははあ、さては日干しにされましたな? 庭は日差しが強いですから、熱中症という病に侵されたのでしょう」
馨は空いた方の手を伸ばし、零慈の額にそっと触れた。
ひんやりとした指先の感触が、零慈の煮え滾る脳髄に、一筋の清涼感をもたらす。
零慈は、その手を振り払うことができなかった。
「……日干しだと? 貴様は、私のこの焦燥を、その程度の言葉で片付けるつもりか」
「いけません、病人は安静に。さあ、奥へ入りましょう。私が、冷えたおしぼりを用意して差し上げます。鹿目殿に教わった、とっておきの冷却法があるのです」
「鹿目の名を出唆(だ)すなと言っている……!」
零慈は吐き捨てたが、馨に引かれるまま、大人しく屋敷の中へと足を進めた。
自らの独占欲が、馨の無垢な「看病」によって、あっさりと「日射病の介抱」へとすり替えられていく。
その滑稽な敗北感に、零慈は奥歯を噛み締めながらも、自分の額を覆う馨の掌の、羽毛のような軽やかさに身を委ねるしかなかった。
東雲馨は、邸内の植栽を手入れに来た若き部下、鹿目(かなめ)と対峙していた。鹿目は零慈の秘蔵っ子であり、その実直な気性と、何より春の若草を思わせる爽やかな容貌で知られている。
馨は、鹿目が差し出した一輪の芍薬(しゃくやく)を手に取り、その花弁の重なりを熱心に観察していた。
「鹿目殿、この紅の深さは、まるで熟した苺のようですね。見てください、この瑞々しさを」
「馨様にお気に召していただければ幸いです。旦那様は厳しいお方ですが、この庭の花々だけは、貴方のためにと、ことのほか気にかけておいでですから」
鹿目の声には、若者らしい素直な敬愛が籠もっていた。
二人の間に流れる穏やかな空気。それを二階のテラスから見下ろしていた獅子王零慈の胸中には、今や黒々とした毒液が滴り落ちている。
零慈の手は、大理石の手摺りを砕かんばかりに握りしめられていた。彼の視界は、馨の柔らかな指先が鹿目の手に触れるたび、血のような朱色に染まる。
猜疑心(さいぎしん)とは、一度芽生えれば、日光を遮る巨木のごとく心を支配するものだ。
零慈は階段を駆け下りると、芝生を乱暴に踏み越えて二人の間に割って入った。
「鹿目! 貴様に与えた仕事は、花の手入れではなく、北方の鉱山に関する報告書の作成だったはずだ。持ち場を離れる不届き者が、我が社に必要だと思うか」
零慈の声は、冬の北風よりも冷たく、鋭い。
鹿目は顔を蒼白にし、深く頭を垂れてその場を去った。
残されたのは、不機嫌を全身から放つ巨人と、不思議そうに首を傾げる没落貴族のみである。
「おや、獅子王殿。鹿目殿はただ、お花の解説をしてくださっていただけですよ。そんなに怒ると、眉間の皺が定住してしまいます」
「黙れ。貴様は、誰にでもそのように卑しく笑いかけるのか。私の目の届かぬところで、他の男に鼻を鳴らしていると思うと、反吐が出る」
零慈は馨の腕を掴むと、力任せに自らの胸元へと引き寄せた。
馨の鼻腔を突いたのは、午後の日差しに熱せられた上質なウールの匂いと、零慈が愛用する白檀(びゃくだん)の、重厚でどこか寂しげな香りだ。
馨は、零慈の心臓が、まるで逃げ場を失った野鼠(のねずみ)のように激しく、不規則に跳ねているのを感じ取った。
「獅子王殿。貴方の顔、先ほどよりもさらに赤うございますよ。ははあ、さては日干しにされましたな? 庭は日差しが強いですから、熱中症という病に侵されたのでしょう」
馨は空いた方の手を伸ばし、零慈の額にそっと触れた。
ひんやりとした指先の感触が、零慈の煮え滾る脳髄に、一筋の清涼感をもたらす。
零慈は、その手を振り払うことができなかった。
「……日干しだと? 貴様は、私のこの焦燥を、その程度の言葉で片付けるつもりか」
「いけません、病人は安静に。さあ、奥へ入りましょう。私が、冷えたおしぼりを用意して差し上げます。鹿目殿に教わった、とっておきの冷却法があるのです」
「鹿目の名を出唆(だ)すなと言っている……!」
零慈は吐き捨てたが、馨に引かれるまま、大人しく屋敷の中へと足を進めた。
自らの独占欲が、馨の無垢な「看病」によって、あっさりと「日射病の介抱」へとすり替えられていく。
その滑稽な敗北感に、零慈は奥歯を噛み締めながらも、自分の額を覆う馨の掌の、羽毛のような軽やかさに身を委ねるしかなかった。
0
あなたにおすすめの小説
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
happy dead end
瑞原唯子
BL
「それでも俺に一生を捧げる覚悟はあるか?」
シルヴィオは幼いころに第一王子の遊び相手として抜擢され、初めて会ったときから彼の美しさに心を奪われた。そして彼もシルヴィオだけに心を開いていた。しかし中等部に上がると、彼はとある女子生徒に興味を示すようになり——。
僕は今日、謳う
ゆい
BL
紅葉と海を観に行きたいと、僕は彼に我儘を言った。
彼はこのクリスマスに彼女と結婚する。
彼との最後の思い出が欲しかったから。
彼は少し困り顔をしながらも、付き合ってくれた。
本当にありがとう。親友として、男として、一人の人間として、本当に愛しているよ。
終始セリフばかりです。
話中の曲は、globe 『Wanderin' Destiny』です。
名前が出てこない短編part4です。
誤字脱字がないか確認はしておりますが、ありましたら報告をいただけたら嬉しいです。
途中手直しついでに加筆もするかもです。
感想もお待ちしています。
片付けしていたら、昔懐かしの3.5㌅FDが出てきまして。内容を確認したら、若かりし頃の黒歴史が!
あらすじ自体は悪くはないと思ったので、大幅に修正して投稿しました。
私の黒歴史供養のために、お付き合いくださいませ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる